第2話
「うーん!美味しい!美味しい!」
「そんなに食べると太るぞ」
「うっ……」
もうそろそろ夏の到来に向けて、実咲屋では新メニューを企画しているのだ。作るのは、厨房担当の久遠渚という少年が担当している。新緑の髪の毛を短く切り揃え、ピンで斜めに分けている。そして、全身黒色の服で統一されており、中々の風貌である。そんな渚は、新メニューの試作品を一気に頬張る美麗を見て、ため息をついた。実咲屋の閉店後に料理を作っているので、疲れのため息も混じっていた。
「で、結局、美麗はどれがいいんだ?」
「えっと、全部!!!」
「予算的に無理だから、食事系とデザート系の1品ずつにするって決めただろうが」
美麗はぷーっと頬を膨らませ、その反面、渚は二度目のため息をつく。渚が試作品として作ったのは、食事系の品を3品とデザート系の3品だ。さっぱりとした出汁の効いたサラダそうめん梅肉乗せと、辛い物好きならどんと来いな夏野菜のカレーライス、こちらも出汁の効いた鯵ときゅうりの歯応えが抜群のひや汁。デザートはスイカを器に色とりどりの季節の果物が輝くフルーツポンチ、ぷるんと踊るフルーツゼリー、もちもちの抹茶葛きりだ。夏の暑さを乗り越えて貰おうと夏の定番にアレンジを加えたものばかりだ。この時代はフルーツがまだ高級品であり、中々庶民には手に入らないのだが、実咲屋の経営者であるオーナーが裏の伝手で安く手に入れているので、ふんだんに使うことが出来る。
「うー、こんなに美味しいのに、1つだけだなんて選べないよ……」
美麗は箸を握りしめながら力説する。よく桔梗から美味しい一級品のものばかり食べているためか、舌が肥えてしまい、並みの料理では満足できない。そうじゃない料理でも食べはするものの、そこまで興味を示さないのだ。新メニューの企画は、大体美麗の舌で決まっており、それは桔梗も一任している。
「そろそろ食材の確保も考えないといけないから、大体でいいから決めろよ」
「うー……」
「あら、今回は美麗でもお手上げ?」
くすくすと笑いながら、2階の和室から桔梗が厨房へ降りてきた。どうやら今日の売り上げの数えが終わったらしい。
「どの料理も拮抗してて、選べないんだとさ」
渚は、桔梗なんとかしろよと言わんばかりだ。
「だって、どれも美味しいんだもん。こんなに美味しいんだから、お客さんにも食べてもらいたいよ……」
「美麗の言いたいことはわかるけど、うちもそんなに裕福じゃないのよ。既存の品を無くすわけにもいかないし……そうだわ!」
桔梗は扇子を勢いよく鳴らした。ぱちんという軽快な音が響き渡る。
「お客様を交えた試食会……なんてどうかしら」
「は?客全員にこの品々を出すのは無理だぞ」
「出すと言っても少量よ。それでお客様に投票してもらうの。これならお客様にもすべての料理が食べられるし、人気メニューが夏の新メニューとなるのだから、売れないってことはないわよ」
「さすがです!桔梗姐さん!」
美麗は思わずぎゅっと桔梗に抱き着いた。桔梗は満更でもない様子で、美麗の頭を撫でる。
「なるほど、そうするか。で、日取りはどうするんだ?」
「そうね…あなたも準備したいだろうから、3日後にどうかしら?」
「わかった。それまでに食材を仕入れておこう」
渚は早速、明日市場に行くために、一筆走らせる。そうと決まれば、早急に食材を仕入れなければならい。
「これで、一件落着かしら?私と美麗はもう寝るわよ。あなたもほどほどにしなさいね」
「ああ、おやすみ」
渚は桔梗を見ずに答えた。食材の貯蔵庫へ向かい、今ある食材をチェックしている。桔梗はその様子を見ていると、腕の中にいた美麗がもぞもぞ動き出した。
「姐さん、寝ましょう…?眠たくなってきました…」
「あらあら、もう眠気が来たのね。無理やり寝付かせようとしたのに」
子どもを寝かしつけるようにしようとした桔梗に対し、美麗は少しだけムッとした。
「姐さん……子ども扱いしないで……って…言ってるじゃない……です……か」
文句の一つでも言おうとした美麗に眠気がそれを阻止した。かろうじて立っているが、いつ崩れてもおかしくない。
「ほら、真っ直ぐ立ちなさい。出来ないのであれば、私が抱えて行きましょうか?」
もちろん、お礼は何かしら頂くけど、と、桔梗は美麗の小ぶりな耳にふっと熱い息を吹きかけた。
「ひゃんっ……もう、姐さん……っ」
「嫌だったら、自分で上がりなさい」
有無を言わさぬ桔梗に対し、美麗はむうっと頬を膨らませ、少しだけ眠気を撃退することに成功した。桔梗を置いてさっさと2階へと上がる。それを見ていた桔梗もくすくすと笑いながら後を追う。2階へと向かう桔梗はどこか満足気だった。
実は途中から食材の確認が終わっていた渚は、買い出しリストを見ながら、本日三度目のため息をついた。
「美麗がいないと寝れない桔梗がさっさと新メニューの企画を終わらせて欲しかったのに、中々決まらないから痺れを切らして、普段首を突っ込まないのに介入してくるとはな…」
美麗も変なのに捕まって大変だなあ、と渚はペンを振り回しながら思った。
しかし、最後の2階へ行くうんぬんのくだりで、自分の存在がかき消されたのは忘れない。
3日後、実咲屋では夏の新メニューの試食会が開催されたこともあり、普段以上に賑わっていた。どこかいつもより親子連れが多くいるのを感じる。そして、今日の試食会に向けて、厨房と客席は大忙しだった。
「美麗、6番席にお子様ランチとしらすそうめん、試食セット」
「はい!今行きます!!」
美麗と渚は店内を激しく駆け回る。美麗は給仕に追われ、渚は調理だ。桔梗は言うでもなく、2階でそろばんを弾いている。給仕にも慣れたもので、美麗は今の所さくさくと料理を運んでいる。
「お待たせいたしました!オムライスとさっぱりしらすそうめんです!」
美麗はふわふわの卵が主役のオムライスと山芋としらすであしらったそうめん、試食セットを親子の目の前に並べる。ふわんと、バターの匂いが立ち込める。
「わー!!きたきた!!」
美麗が料理を運んできた途端、前髪を切り揃えた4つくらいの男の子が嬉しそうにジタバタと暴れる。それを今流行のゆるふわの髪をまとめ上げ、派手な柄の着物を着た母親に窘められる。
「うるさい!耳障りよ!!!!」
「ご、ごめんなさい……」
男の子はびくんっと肩を揺らし、怯えるような目つきで母親を見た。美麗はその光景を見て違和感を覚えた。
「あの、本日は夏の新メニュー試食会をやっていまして、左側のが鯵ときゅうりの冷え汁、真ん中のがサラダそうめん梅肉乗せ、右側のが夏野菜のカレーライスとなっております。後ほど、デザートの試食品をお持ちします」
「あっそ。試食はお金取らないんでしょうね?」
母親は美麗をろくに見ず、端で手紙を書いている。食事に対して一切興味が無く、興味があるのは目の前の手紙を書くこととお金のことらしい。
「はい。試食品に関しては、お代は頂きません」
「そう。下がっていいわ」
「失礼いたします」
美麗は雰囲気でこの母親は危険だと悟り、足早にその場を去った。しかし、後ろからバシンっと肌を叩く音がしたため、足を止めて振り返った。
「にんじんが嫌いだから食べないですって?どれだけ甘えれば気が済むの!!!!それに食べ方が汚い!!このクズが!!!」
「ご、ごめんなさい……ちゃ、ちゃんと、食べます……」
男の子の頬は手形がくっきりと赤く浮かび上がり、目尻に雫を浮かび上がらせていた。叩かれたために頬を上手く動かせないせいか、非常に食べづらそうだった。それでも、懸命ににんじんの入ったチキンライスを食べている。母親は息子のことを見もせず、無言でしらすそうめんを食べ始めた。周りの客もその異常性を感じ、親子に対して不審な目を向け始めた。
そんな光景を見ていた美麗は件の親子の所へ向かおうとした。だが、後ろから肩を掴まれ、動きを止められた。
「ダメだ」
制止させたのは渚だった。美麗の肩を掴み、強い眼差しで見つめる。
「どうして!?あの子が可哀そうだよ!」
「お前が介入していい問題じゃない。あの親子の問題だ。それを他人が介入してはいけない」
「でもっ……」
「お前だって、親の記憶が無いことをとやかく言われたくないだろう?」
それを聞いた美麗はわずかに険しい表情で唇をぎゅっと結び、両手を握りしめた。ドンピシャなことを言われて、返す言葉も無いのだろう。そんな光景を見た渚は肩を掴んでいる手を美麗の頬へと移動させた。
「そんな顔をするな。俺たちにはやるべき仕事が目の前にあるだろう?それを片付けないと、周りに迷惑かかるぞ。もちろん、桔梗にもな」
「……わかってる……桔梗姐さんにはこれ以上迷惑かけたくない……」
「……それは違うぞ……アイツは……」
渚は声のトーンをさらに低くし、ぼつりと呟く。一瞬だけ眉を寄せ、切なそうな笑みを浮かべた。美麗は、え?と聞き返したが、渚はそれを軽くかわした。
「ほら、仕事に戻るぞ。まだ店は終わってねぇからな」
「……う、うん」
美麗はスタスタと自分の持ち場に戻った。それを見ていた渚はぎゅっと拳を握り、件の親子を一瞥して顔をしかめた。
トントンとリズミカルな音が響き渡る。きゅうりを千切りにし、鯵を捌く。一見何事もない光景だが、渚がそれを行うと、凛とした、なぜか寂しげな雰囲気を醸し出す。調理場には多種多様な色鮮やかな食材が調理という名のドレスを着るのを今か今かと待ち受けているのに、その着付け師がいつものように着付けてくれないのだ。だが、それはわかる者でしかわからない。そんな中、ホールで甲高い声が雷鳴した。
「きゃあああっ、どうしたのよ!!」
先ほどまで子どもを叱りつけた母親が甲高い声をあげる。あまりの声量で、騒がしかった食事処が水の波紋のように静まりかえってしまった。当然、給仕をしていた美麗もあの親子の元へ駆けつけた。
「どうかなさいましたか!?」
「どうもこうも何も無いわよ!!うちの子が突然吐いて……!!」
見ると、あの男の子が椅子の上で蹲っており、お腹を守るような態勢で、ひたすら吐き続けていた。顔は真っ白に染まっており、冷や汗をかいていた。周りには、吐瀉物が散乱しており、異様な匂いが立ち込めていた。美麗と母親も含め、周囲は何も出来ず、ただただ突っ立っていることでしか出来なかった。動きたくても動けない、身体に何かが纏わりついているようだった。
男の子はやっと吐き気が止まったようで、今度はそのまま蹲るようにして、意識を失った。そこへ、騒ぎを聞きつけた渚も駆け付け、呪縛から解き放った。
「美麗!!何をぼーっと突っ立っている!!医者の所へ運べ!!」
「は、はいっ!!」
美麗は男の子を抱えて、普段贔屓にしている町医者へと慌てて運んで行った。いつも重い料理を運んでいるせいか、足取りも軽やかだった。すぐに母親も美麗の後を追うと思いきや、目の前にいる渚に威圧を込めながら尋ねる。
「ここの料理人は誰?」
「私です」
母親は、渚がここの厨房担当だと知ると、米神がぴくぴくと動き、キッと睨みつけた。
「どうしてくれるのよ!!!!あの子はあなたの料理を食べて吐いたのよ!!どう責任を取るつもり!?」
「いや、まだ私の料理のせいだとは到底思えないのですが。食べて直後に吐くなんて、まだ料理は身体の中に浸透していないはずです」
「何をおっしゃい!!!!あなたの衛生管理が悪いからこんなことになったんでしょう!?」
「ですから、まだ何が原因かわかりません」
渚は表装を装い、毅然とした態度で母親に対応している。まだ原因がわかっていない以上、こちらが不利になるのはどうしても避けたい。あの現状を考えると、渚が原因ではないかもしれないからだ。今は話を平行線に持っていくしかない。もし、万が一、実咲屋が原因でこのようなことになってしまったら、責任や処遇については、桔梗とこの実咲屋を管理しているオーナーに任せるしかない。ここで狼狽えては、今後の信用問題に関わる。
しかし、そんな渚の対応に母親は良く思っていないらしく、地団駄を踏む。
「あなたそれでもここの料理人なの!?まあ、いいわ。ここの責任者を呼びなさい。あなたじゃ話にならない!!」
「申し訳ありませんが、オーナーは多忙で普段店にはいません」
実質上、桔梗がオーナーなので、桔梗を呼べばいいのだが、ここで桔梗を呼べば自体が更に大きくなりそうだ。先日の菖蒲の件とは訳が違う。この騒ぎをあまり長引かせたくない。そして、厨房の物陰から、早く終わらせろというような視線が突き刺さる。思わずため息をつきたくなった。
「どうなってんのよこの店は!!いいわ!!それで、三郎はどこの病院に行ったの!?」
「ここを出て、下の町にある『慈善堂』という町医者です。町に入ってすぐですから、わかると思います」
「そう。後日、またゆっくりとお話ししますから」
母親は叫び疲れた為に少しだけ冷静になれたのか、先ほどまでの牽制は無くなった。しかし、表情は硬く、テーブルに代金を叩きつけて、実咲屋を足早に立ち去った。母親がいなくなると、店内はまた賑やかな状態に戻った。話題は先ほどの母親と渚とのやりとりで持ち切りだ。
渚は母親がいなくなったことにホッとし、今さらながら冷や汗がつぅーっと滴り落ちた。
「お客様、この度はお騒がせして申し訳ありません。さ、食事を楽しんでください。もちろん、毒など入っておりませんわ」
凛とした声が賑やかな店内に響き渡る。その発した声の持ち主はもちろん桔梗だ。いつものように扇子を用いて、店の中心地へ向う。客はそんな桔梗を見て、桔梗さんの店で毒なんてありえないだろ、こんなに美味しい食事を邪魔したあの女許せない、渚くん可哀そうといった声が上がる。
「あなたにしては、時間がかかった方ね」
「……だったら助けろよ」
桔梗はゆっくりとした動作で渚の元へ歩み寄る。一部始終を見ていた桔梗には筒抜けだ。しかし、先ほどの渚に対応に対して咎める様子はない。逆にさも何事も無かったのように大変だったわねえと労うようだった。
「あら、私が出て行けば、事態は益々悪化しそうだもの。あなただって非は無いんでしょう?」
当然だわよね、と桔梗は渚を扇子越しから見つめる。桔梗に目線を合わせた渚は先ほどからつきたかったため息をついた。
「当たり前だろう。俺の料理を口にしてすぐ吐いたんだぞ。どう見たって、あの子に何か問題があったんだろう」
俺の徹底した衛生管理は知ってるだろう?使い終わった器材は必ず熱湯消毒してるんだぞと言いながら、渚は男の子――三郎の食べ残した食器を片づける。すると、食器の近くに白い粉が飛び散っている。微量だが、木のテーブルなので、光に反射していて輝いている。それを指で掬ってみた。
「これは……」
本能的に、これは摂取してはいけないものだとわかる。しかし、なぜこんなものがテーブルにあるのだろうか。
「何かしら、これは」
「わからない…だが、これは絶対含んではいけないもののような気がする」
渚と桔梗は2人で首を傾げる。この親子には塩などの粉末の類は渡していないし、この白い粉末なんだろうか。
「……あの、ちょっといいですか?」
消毒液特有のつんとした匂いが立ち込める部屋で、件の男の子――三郎はベッドの上で寝かされていた。先ほどよりも表情は落ち着いており、すやすやと眠りの世界に入っている。傍らで、美麗が三郎の額に滲み出た汗を湿らせたタオルで拭ってやる。
「あの、容体は……?」
「もう大丈夫です。山場は越えました」
美麗は三郎をおんぶで抱え、馴染の病院、慈善堂へと運んだ。院長である川瀬という男が三郎を見て、ただ事ではないと判断し、胃の中にあるものをすべて吐き出させるために洗浄した。まだ4つという小さい子が行う処置にしては大変なことではあったが、非常事態だったのと、意識が無かったために滞りなく行われた。
「本当に大変な状態でしたよ。あのまま放置していれば、命は無かった」
川瀬はふぅと息を付く。メガネをことりと机に置き、前髪をたくし上げた。美麗も川瀬の言葉を聞いて、ホッとし安堵した。
「助かって良かった……。この子はなんでこうなったの?」
「何か神経系の毒ですね……何れにせよ、口から侵入したことには間違いありません」
こんな小さな子に不憫ですねえと、川瀬はため息をつく。
「誰がこんなことを……あっ……」
美麗は三郎が食事をする前の光景を思い出す。母親がやけに厳しく、人目も憚らず怒鳴られていた。どう見たって、一番毒を盛りやすいのは母親だ。しかし、三郎の身体がおかしくなった直後はこちらに掴みがかるようだったし、正統性が取れない。三郎のことがどうでも良ければ、あの掴みかかるようなことはしないだろう。やっていることが矛盾している。あの母親は一体何がしたかったのだろう。美麗が考え込んでいると、扉がガンっと勢い良く開いた。
「うちの子は!?三郎は大丈夫なの!?」
三郎の母親が血相抱えて、処置室に飛び込んだ。走ってきたのか、着物は少し崩れている。額には汗が滴り落ち、まとめている髪も所々落ち毛が目立っていた。
「安心してください。三郎くんはベッドで寝ています。危ない所は越えましたよ」
「そう……ちょっとどいて」
「きゃっ」
母親を横から無理やり美麗をどかせ、三郎の横に立った。三郎の顔をよく見えるようにかがみ込み、頬をさらりと撫でた。
「……アンタなんか……」
か細い声でそう呟くのが聞こえた。憎悪とも取れるような声色から、どこか寂しそうだった。
頬を撫でた母親は、すくっと立ち上がり、美麗を見据えた。
「それで、この責任はどう取るつもりなのかしら」
「えっ」
一変して、どこか危ない雰囲気が立ち込めてきた。川瀬もこの異様な雰囲気と母親に対して、興味深く目を細めた。まるで、母親の後ろには何か悪いものに憑りついているような、そんな気も起こさせてくる。
「ちょっと待ってください。今は三郎くんのことが心配ではないのですか!?」
今はそんなことを言っている場合ではない、と言おうとした美麗に対して、母親は近くにあった川瀬の椅子をガンっと蹴り飛ばした。飛ばされた椅子は机の引き出しに当たり、金属音特有の音が鳴り響く。そして、三郎の眉がぴくりと微かに動いた。
「お黙り!!うちの三郎がこんなになったのも全部アンタの店のせいでしょう!?それで責任の所在を明らかにして何が悪い!!」
「何を言ってるんですか!!そもそも、三郎くんがこんな大変な目にあってて命だって危ないのに、こんなこと言ってる場合じゃない!!それと、あなたたちがご飯を食べているところから見てましたけど、三郎くんに対してあの態度は酷くないですか!?」
美麗は渚に止められる前に言いたかったことをここで遠慮なくぶち撒けた。あんな小さい子に対して酷過ぎる。しかし、このぶち撒けたことによって、逆に母親の逆鱗に触れることになる。
「うるさいうるさいうるさい!!この子は私の子よ!!私が何したって構わないでしょう!!」
この小娘が、と、母親は激情し、掌を美麗の頬に目がけて振り下ろした。後ろで傍観していた川瀬もこれはただ事ではないと止めに入ろうとする。しかし、川瀬よりも先に止めた者がいた。
「お客様といえど、私の妹に何をするつもりなのかしら」
「なっ……」
「桔梗姐さん!!」
パシンっと軽快な音が鳴り響いた。その音の正体は、もちろん、桔梗が母親の手を掴んでいるからである。手に力が無くなったと悟った桔梗は母親の手を離した。そして、母親は何もかも無理だと察し、その場で項垂れる。
先ほどの威勢は消え失せ、花が水不足のように萎れてしまった。
「姐さん……」
「美麗、こちらにいらっしゃい」
美麗は桔梗に手をさし伸ばされ、素直にそれに従った。桔梗の腕に抱かれ、ぎゅっとしがみつく。いつもの落ち着いた微香が鼻をくすぐる。桔梗のぬくもりをもっと感じたくて背中に腕を回し、もっともっとと欲しくなる。しかし、またもやドアが勢いよく開かれる。
「おい、桔梗!いきなり走り出すからなんだ……ん?」
渚が院内に駆け込み、この美麗たちの状況を瞬時に理解した。桔梗の腕に抱かれている美麗、萎れている母親、なんとも言えず立ち尽くす川瀬、ベッドで寝かされている三郎。大方予想は付いているのだが、何かがあったのは間違いない。そんな中でも、渚は今さらながら萎れている母親を見て、カッと眼を見開く。殴りたい衝動をなんとか押さえつけ、胸倉を掴んで立たせた。
「おい!!いい加減にしろよ!!!お前が悲劇のヒロインを気取るとかありえないぞ!!さっき聞いたんだからな!!」
この病院に来る前に桔梗と渚が親子のテーブルで白い粉を見つけ、訝しげに話していた際、1人の女性に声をかけられた。その女性は親子の席の近くで食事を摂っており、最初は気にも留めていなかったのだが、例の騒ぎで自然と視線を向けるようになったという。しばらく見ていたら、母親がこっそり薬包を使って何かの粉を入れていたのだという。その直後に、子どもが嘔吐して母親が騒ぎ立てたというのだ。その女性は巻き込まれたくないという思いから、何も言えなかった。だが、美麗が子ども運んでいる姿を見て、ただ事ではないと再認識し、桔梗たちに打ち明けたというわけだ。
「お前、あの子に何か飲ませたんだろう!?母親の癖に何してんだよ!!」
渚は怒りに身を任せて、母親を突き飛ばした。母親は成すがままに突き飛ばされ、座り込み、頭を垂れた。すると、ケラケラと笑い始めた。異様な光景に、渚は唾を飲み込む。
「母親の癖にですって……?じゃあ、あの子のために私の人生を捨てろというの…?」
母親は拳を握りしめ、カッと顔を上げて怒鳴った。
「冗談じゃないわ!!!!私はあの子の父親が蒸発しちゃって、身も心もボロボロの時に彼と出会ったの!!最近彼をようやく落とすことが出来たのに、あの子がいると身動き取れないの!!邪魔なの!!だからっ…」
三郎に毒をと言いかけた瞬間にパーンという軽快な音が鳴り響く。母親は頬を押さえ、前方を茫然と見つめる。
「……確かに一度きりの人生、てめぇで好きなように行くのはいい…母親もな…だがな…それは他人を不本意に巻き込まないこと前提だろう…あの子の人生を母親であるてめぇが奪っていい理由にはならないだろう!!!」震える声で、拳を握りしめながら、渚は訴えた。怒っているにも関わらず、その表情は苦しそうに。
室内は騒然とした空気になり、誰もが渚と母親を眉を寄せながら見つめる。美麗はこの空気に耐えられなかったらしく、桔梗に更にぎゅっとしがみつき、桔梗も腕を回して未着させる。その際も桔梗はただただ、無表情で件の騒動を見つめている。
渚はすくっと母親の前に座り込み、視線を合わせる。
「だがな、お前も本当はあの子のことを想ってるんだろう…?想っていなくて、本当に邪魔だと言うのなら、毒も致死量を盛るんじゃないのか?どうだ、川瀬?」
渚は半ば蚊帳の外になっていた川瀬に声をかける。川瀬の方も声をかけられるとは思っていなかったらしく、いつのまにか掛けていたメガネをくいっと上げた。
「ええ、毒の種類にもよりますが、致死量を越えなければ、致命傷にはならないこともあります。ただ、必ず身体に何か害は出ますが。嘔吐や意識混濁、発熱などが一般的ですね」
「だってさ。本当に邪魔なら、毒も致死量を入れるさ。アンタはそれが出来なかった。それをやる勇気が無かった。あの子に対して負い目があった。違うか…?」
渚は母親を真っ直ぐと見つめ、諭した。先ほどの怒りの眼差しは消え、優しく、優しく、すべてを包み込むような眼だった。その瞳に見つめられた母親は、緊張の糸が完全に解けたのか、ぶわっと泣き出した。
「……私が腹を痛めて産んだ子だもの……やっぱり、そんなこと……出来るわけないじゃないかっ……」
うわあああと、床に縋り付きながら、母親は懺悔の涙を流す。自分自身のこれからの人生と母親としての人生。己の人生を取ろうとした結果、我が子を亡き者にしようとしたが、結局それが叶わなかった。やはり、子どもを産み育てるといった、人間の義務、いや、血を分けた子のこれからの成長を見守るといった、母としての性には適わなかった。
「……羨ましいよ、本当に……」
渚は瞼を伏せ、苦しそうに呟く。
ベッドで寝かされている三郎が、ゴロンっと寝返りを打った。
「なんか、凄い騒動でしたね……」
「そうね。でも、客商売なんだから、そういうこともあるのよ」
夕日が沈んだ頃、お客はすっかりいなくなり、もうそろそろ店仕舞いをするかという頃合いである。一通り仕事に目途が立ち、お茶を飲んで一息付いているところだ。話題は数日前の母親の毒盛り事件である。
その後、三郎は3日後に退院し、母親は子どもを連れて何も言わずにそそくさといなくなった。実咲屋はあの後も相変わらず繁盛し、事件を語る余裕も無かった。試食会も滞りなく終わり、一番票を獲得した鯵ときゅうりの冷や汁、スイカを器としたフルーツポンチが夏の新メニューとして採用された。最も人気のあるメニューを採用したために、桔梗の狙い通り売り上げは上々だ。
「結局、あの母親は新しく出来た彼氏に子どもを紹介して、3人で仲良くやってるとさ。人騒がせもほどほどにして欲しいぜ」
「あら、良かったじゃないの。でも、最初からその人に紹介すれば良かったんじゃないかしら」
「怖くて出来なかったらしいぜ。彼の方が子ども嫌いだったら、別れられると思ったらしい。恋は盲目とはよく言ったもんだ。この間謝罪文と共に手紙が来たときにそう書いてあった」
俺は濡れ衣着せられるし、直接謝罪にも来ないし散々だぜ、と渚はため息を付き、余りの苺大福を頬張る。そんな渚を横目に、桔梗は静かに茶を口に含む。桔梗の隣に座っている美麗は、顔を俯かせ、拳をぎゅっと握りしめている。
「あら、美麗どうしたの?あなたの大好物の苺大福が目の前にあるのに」
「美麗が苺大福を食べないとは……明日は嵐か。客が減るからやめてくれよー」
若干心配気味の桔梗とお構いなしにからかう渚たちが美麗の顔を覗き込む。そんな2人を余所に、美麗はぽつりぽつりと呟く。
「……私のお母さんは……あの人みたいに……私を捨てたの?」
桔梗はハッとし、美麗をぎゅっと抱きしめて頭を撫でてやる。すると、美麗はぽろぽろと雫を溢れさせた。
「……私にはお母さんの記憶が無いから……今もいないってことは、お母さんは私を捨て……」
「それは違うわ!あなたのお母さんはそんな人ではなかった。今は遠くの方にいて会えないけど、美麗のことをいつも想ってると思うわ」
「本当に……?」
「ええ、もちろん。こんなに可愛い美麗を捨てるはずがないもの。ホントよ?」
だから、そんなに泣かないの、と、桔梗は美麗の目尻にある雫を吸った。そして、ゆっくりと唇を重ねた。ただ触れるだけの口づけだが、美麗を落ち着かせるには十分だった。桔梗は一度息継ぎをさせるために一瞬だけ離した。そして、赤と青紫が交差する。――柔らかな唇同士が再び触れ合う。この先の言葉も何も、いらなかった。
桔梗と美麗が睦み合っている最中、またもや若干邪見にされている渚が、本日2回目のため息をついて、2人に聞こえるように心中を吐露する。
「……部屋でやれよ、部屋で……」
本当に眼のやり場に困る。いつものことだから気にしないのも1つの手だが、他人の色事はあまり見ていいものではない。ここは強制的に気を利かせ、いや、`こちらから′気を利かせるために軽い買い出しに出かけようと席を立ち、店のドアを開けた。すると、渚は目を見開いた。
「…おいっ!大丈夫か!?」
一歩踏み出そうとした渚の足元に、同じ年頃であろう少女がうずくまるようにして横たわっていた。
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