永愛
藤堂ゆかり
第1話
花が咲き誇る小さな丘の上に、一度は訪れてみたいと思う料理屋がそこにはあった。
「いらっしゃいませ!何名様ですか?」
長く艶やかな白い髪を頭の上に高く結び上げ、紫の眼を持つ少女の声が店の奥まで鳴り響く。ここは小さな料理屋で、連日多くの客が訪れる。店内は鰹出汁がきいた匂いが立ち込める。今日も客で賑わっていた。
「はいっお待たせいたしました。こちらは親子丼です」
先ほどの白髪の少女、緋桜美麗は赤いどんぶり型のお椀を客に差し出した。親子丼の卵がとろりとしており、白身が光の反射で輝いているようにも見える。出汁のきいた良い匂いが食欲を増幅させる。
「美味しそうだね。頂くよ」
「はい、ここの親子丼は卵がとろとろで絶品ですから!たんと召し上がってくださいね」
美麗は拳を効かせて太鼓判を押した。やはり、店の料理を褒められることは嬉しいのだ。ここの食べ物が美味しいということを色んな人に知って欲しい。
「美麗ちゃん、水を頂戴」
竹でできたコップを片手に別の客が美麗を呼びかける。
「はい!ただいま!」
美麗は急いで奥の水が入っている樽の元へ行き、新しい竹コップに水を注ぐ。出来るだけ多く飲めるようにギリギリまで注ぐのが美麗流なのだ。
「お待たせいたしました。お冷です」
「ありがとう、今日も美麗ちゃん可愛いね」
灰色の着流しを着た少し渋めの男性客が微笑む。
「本当ですか?ありがとうございます!」
美麗は嬉しさでくるんっと一回転した。身に着けているのは上が白の着物になっており、下は紫のグラデーションがかかった短いスカートなのだ。一回転すると、花びらのように舞う。上下がバラバラにならないように紫の帯で結び、上からピンクのリボンで結んでいるのだ。そして、長い髪を留めている鈴が凛とした音を響かせる。
「無邪気で可愛いね…食べちゃいたいくらいだ」
「へっ?私を食べても美味しくないですよ?」
はて?と首を傾げる。すると、突然後ろから頭に軽い衝撃が走る。
「美麗、何を油を売っているの。あちらのお客様がお呼びよ」
肩を大きく出した赤い着物に漆黒の黒髪、その髪に金の簪を付けて華やかさが増し、凛とした女が不機嫌そうに立っていた。胸元に下げている水晶がきらりと輝き、手持ちの扇子をぱちんっと音を響かせ、閉じている。
「桔梗姐さん!ごめんなさい。今行きます!」
美麗は慌てて呼んでいる客の元へ駆け寄った。そんな光景を流し目で見ていた夜雲桔梗は、艶のある笑みを浮かべた。
「お客様、美麗はまだ子どもですから、あまりからかわないでやってくださいな」
「はははっ、そこがいいんじゃねえか」
客は悪びれもせず笑った。からかって喉が渇いたようで、一気に水を煽る。
「あら…それは残念…私じゃお嫌かしら」
さらりと、桔梗は客の耳元に口元を寄せた。芳しい香の香りが客の周辺を漂い、どこか妖しい雰囲気が立ち込める。そして、邪魔だと言わんばかりに艶髪を耳にかける。
「き、桔梗姐さんなら、食うんじゃなくて、食われそうだな…」
「そんなことないですわ。お客様を食べるだなんて」
桔梗はほほほっと扇子を口元に当てた。しかし、口元は笑っていても、眼は笑っていない。少し翳りのある赤眼が客を射抜いていた。その客と桔梗の間にただならぬ雰囲気が漂う中で、奥からガシャンっと食器が落ちる音が聞こえてくる。その光景をちらりと横目で見た。
「美麗に手を出すのなら、もれなく私も付いてきますから」
「おおっ、こわ。肝に銘じておくよ」
「助かりますわ。さっ、冷めないうちに料理を召し上がってくださいな」
ごゆるりと、おくつろぎくださいと、桔梗はその場を去った。先ほどの異様な雰囲気から一転、また騒がしくもあり、和やかな空気が戻ってきた。客は安心したかのように、汗がしたたり落ちている。
「お前はアホか。桔梗姐さんに楯突くなんて」
隣で一部始終を見ていた別の客が横から窘める。眉を寄せ、当事者では無いのにも関わらず、うっすらと汗を掻いていた。
「まさか、あそこまでの気迫だとは思わなかったんだよ…」
「桔梗姐さんは美麗ちゃんのことになると凄いからな。ここの女将でもあるし、お前下手すると出禁食らうぞ」
「そ、そうだな…」
先ほどの出来事を早く忘れたいと、水を一気に飲みこんだ。すると、奥から再びドス黒い雰囲気が漂う。
「おっと、実咲屋名物が見られるぜ」
「は?なんじゃそりゃ。ここは見世物じゃねぇだろ」
「まあ、見てなって」
先ほど窘めた客は肩をすくめた。どうやら、いつもこの「実咲屋名物」と遭遇しているらしい。顎に手をやり、観賞する気のようだ。
「あなたは何回問題を起こすのかしらねえ、美麗?」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「お客様のお召し物を汚して…おまけにこれで割ったお皿は何枚かしら」
「桔梗姐さん大丈夫だって。これ安物だし」
「そういう訳には参りませんわ。誠に申し訳ありません」
「本当にごめんなさい!ごめんなさい!」
美麗は頭に地面が付くのではないかと思うくらいに頭を下げた。ことの顛末は、美麗が食事を運んでいる最中に足を滑らし、ひっくり返り食事を床にぶちまけてしまったのだ。それが床だけならすぐに片づければ済む話なのだが、このような時はとことん運が悪い。あろうことか、近くにいた女性客にまで被害が及んでしまったのだ。女性客が着ている淡い水色の着物にネギや麺が飛び散り、淡い色ではなくなってしまっている。そして、髪の毛から汁が滴り落ちる。
「ごめんなさい!ごめんなさい!菖蒲さん!今タオルを持ってきます!」
「そんなに謝らなくていいから、美麗ちゃん。着替えなら家にたくさんあるし。タオルを持ってきてくれると嬉しいな」
「は、はい!」
菖蒲と呼ばれた女性は、美麗の謝罪を制した。ここまで謝られるのも気が引けるだろう。自然な動作でおしぼりを使ってへばり付いた食べ物を取る。その動作一つ一つが雅で。美麗がタオルを取りに行っている間に桔梗が歩み寄る。
「この度は誠に申し訳ございません」
「全くね。多くのお客さんが来ているのにも関わらず、美麗ちゃん1人に給仕をやらせるのも問題だと思うけども」
菖蒲はさっきとは打って変わって辛辣な言葉を吐き出した。眉を寄せ、腕を組みながら桔梗に対して見下した態度を取る。
その言葉を聞いた桔梗は、端正な眉を少しだけピクリと動かした。しかし、ここは持ち前の営業スマイル且つ申し訳なさそうな顔で通す。
「こちらの都合もありまして…後日謝罪に参らせて頂きますわ」
「好きにしてください。ああ、来るなら美麗ちゃんを寄越しなさいね。あの子が発端なのだから。私は隣町で琴の教室を開いているからすぐわかると思うわ。いつでもいらっしゃい。一応、地図も渡しておくわね」
「かしこまりました」
桔梗は菖蒲から地図を受け取り、手にしている扇子がぴしりと音を立てる。すると、美麗が少し大きめのタオルを手にこちらへ駆け寄った。
「菖蒲さん!こちらを使ってください!」
「ありがとう、美麗ちゃん」
菖蒲はタオルを受け取り、軽く頭を拭いた。
「ああ、もう稽古の時間だわ。ここに代金置いておくわね。ごちそうさま。美麗ちゃん、またね」
「はいっ!この度はすみませんでした!」
最後にもう一度謝罪を入れる。深々とお辞儀をし、艶やかな銀髪があらゆる方向に散らばる。
「そんなに謝らないで、美麗ちゃん。また来るわね」
菖蒲は頭を下げた美麗を一撫でし、実咲屋に背を向けた。一足踏み出すと同時にちらりと横目で後ろに視線を向け、桔梗を睨みつけた。睨まれた桔梗は微かに眉を寄せ、平然を保つ。ぱしんっと一際大きい扇子の重なり合いが鳴り響く。
「…桔梗姐さん」
美麗は不安気な声で呼ぶ。桔梗は怒り心頭だろう。あろうことか、お客様のお召し物を汚してしまったのだから。お叱りは免れないだろう。しかし、そんな美麗の心中を悟った桔梗は、あくまでも冷静だった。
「お説教は後よ。まずは今日の仕事を終わらせなさい」
「…はい」
とりあえず、今は目の前のことをやり通さなくては。美麗は長い袖をぐっと上へ押し上げた。
「何か言いたいことはあるかしら?」
「無いです…桔梗姐さん」
ここは実咲屋2階の居住スペースであり、美麗と桔梗の部屋だ。畳と衣装箪笥、物書き用の机などの家具、畳まれた布団など限られた物しか置かれていない。井草の香りが漂う畳に、2人は鎮座している。
「私が全部悪いんです…注意を怠ったから…」
「自分の非を認めつつ、原因を突き止めるのは良い心がけだわ、美麗。では、美麗はこれからどうするつもりなのかしら」
少し陰った赤目ですっと美麗を見据える。桔梗は決して頭ごなしに叱らない。まずは相手に問題行動の発端を突き止めさせ、その後どうしたら改善の方向に向かうのか、すぐさま行動に移せるように一種の誘導尋問を行うのである。
「…これから、菖蒲さんのお家に行ってきます」
「そう…」
桔梗は眼を細め、少しだけ俯いた。しかし、すぐに真っ直ぐ美麗を見つめる。
「だけど、あなたは菖蒲さんの家を知っているの?」
「あっ……」
「ほらみなさい。さっき菖蒲さんから地図を頂いたから、それを頼りに行きなさい」
「ありがとうございます!」
美麗はホッと息をついた。
「あの人は隣町でお琴の教室をやっているのよ。だから、すぐわかると思うわ」
「菖蒲さんお琴の先生なのですね!私も桔梗姐さんみたいに弾けたらなあ…」
「近いうちに教えるわ。美麗、こちらへいらっしゃい」
桔梗は手招きをし、膝へ誘導する。美麗は何の抵抗もなく、ふんわりと桔梗の膝に向い合せになるように乗り、腕を掴んだ。
「あら、美麗、重くなった?」
「ええっ、そうですか?」
もしかしてつまみ食いし過ぎたのかと、美麗は右往左往する。年頃の少女だ。体重の増加は一大事であり、気にするのだ。
「ふふっ冗談よ」
桔梗は右手を口元に当てながらくすくすと笑っている。
「もう!桔梗姐さんったら」
ぷんっと美麗は頬を膨らませる。そんなふくれっ面な困ったちゃんをあやすように、桔梗は両手で頬をむにっと掴んだ。
「うむっ」
「…あなたは羽のように軽いわ。本当よ?」
「また私をからかって…」
「からかってなんかいないわ」
2人はごく自然にお互いの背中に腕を回す。美麗は目の前にあるたわわな胸に頭を押し付け、桔梗は美麗の肩に顔を向けた。双方の息が服で覆われていない肌に当たり、そこから熱を発生させる。甘い吐息がお互いを包み込む。ただ何気なく抱き合っているだけなのに、
どこか2人が溶け合うような。そういった神聖なものに見えてくる。
「…菖蒲さんのところ、気を付けていってらっしゃいね」
「桔梗姐さんは心配症です…ただ謝りに行くだけなのに…」
「何か胸騒ぎがするのよ…」
「そうですか?私には何も感じませんが…」
美麗はきょとんとした表情で桔梗を見つめる。桔梗の勘はよく当たるため、このように言われてしまうと少し怖気づいてしまう。しかし、菖蒲からはそのようなことは感じられないし、粗相をおかした際も非常に優しかった。それでも、桔梗が不安がっているところを見ると、嫌でも気を付けなければならない気がした。
「大丈夫です、桔梗姐さん。ちゃんと“ここ″に帰ってきます」
「そうね…“ここ″はあなたの特等席なのだから。席が埋まらないと寂しいわ」
「桔梗姐さんにも寂しいってあるんですね」
お返しと言わんばかりに、美麗はいたずらな顔をして桔梗をからかう。
「まあ。私にだって、そういう感情くらいあるわ。いたずらなことを言うこの悪い口は塞いじゃおうかしら」
「ふえっ!?桔梗姐さん、心の準備が…っ」
慌てた様子の美麗をさらに黙らせるために、桔梗は唇を重ね合わせる。柔らかく、甘い唇を感じながら。
商業屋が乱立しているこの町で、ただ1人この町の者ではない人間が彷徨っていた。
「あれ?この辺りのはずなんだけど…」
ここは実咲屋の隣町である。通称花町と呼ばれており、呉服屋や見世物、楽器教室、割烹料理屋など様々な商業屋が集まっている。ここの町に行けば目当てのものが大抵見つかるなどとも言われている。
美麗は桔梗から渡された地図を用いて菖蒲の家に行こうとしているのだが、いかせん辿り着かないのだ。どこか道を外れたのだろうか。
「うーん…どこだろ…」
人ごみの中をぶつからないように進んでいると、微かに琴の音色が聞こえてくる。
「あれ…?」
すると、人ごみの分け目から、こちらに走ってくる女性が見えた。
「美麗ちゃん」
「あっ菖蒲さん!」
美麗は思わず手を振る。そんな美麗の姿を確認した菖蒲は、実咲屋に来ていたときとは服装が変わり、少し大人しめのゆったりとした着物を着こなしていた。
「ごめんなさいね、わかりづらかったでしょ?」
「いえ!この辺りかと思っていたので」
「そう、それは良かったわ。行きましょ」
「はい」
2人は人ごみをかき分け、少し裏道に入ると、小さな民家が見えた。この民家から透き通った琴の音色が聞こえてくる。表通りで聞こえてきた音色はやはりここだったのだ。時々少し外れたような音が聞こえてくるのも、稽古教室ならではだろう。
「ここよ。さあ、入って」
「お、お邪魔します!」
稽古教室に入ると、普通の民家を改装したようなところだった。和を基調とした畳が続く部屋に、縁側がすぐに目に入る。そこには弟子が3人ほど鎮座しており、みな目を張るような美しい女が琴の練習している。それぞれの課題曲を奏でているために不協和音が生じている。庭には石造りで出来た池があり、赤と黒が混在している金魚が優雅に泳ぐ。そして、色とりどりの花たちが風に揺られてどこか気持ちよさそうだ。
「すごく素敵な所ですね!」
「ふふ、ありがとう。こちらに座って」
美麗が案内されたのは、真ん中に囲炉裏がある部屋だった。今日はさほど寒くはないので使われてはいないが、冬場になればこれが活躍するのであろう。囲炉裏を挟んで、敷いてある座布団にお互い腰を落ち着かせた。
「あの、菖蒲さん、先日は本当にすみませんでした」
「いいのよ、誰にだって過ちはあるわ」
「でも、私は店員として、やってはいけないことをしてしまいました。それで、あの、これ、お詫びに…」
美麗はしろどもりになりながらも、道中提げてきた風呂敷包みを菖蒲へ手渡した。
「あら、苺大福?実咲屋の名物ですものねえ、ありがとう」
「ぜひ召し上がってください。ほんのばかりのお詫びです」
「全然気にしてないのに…でも、いいわ、ありがとう」
菖蒲はゆっくりと微笑み、ハッと思いついた。
「良かったら美麗ちゃんも食べない?私1人じゃ苺大福4つは多いし」
「え!?でもそれは菖蒲さんのですし…お弟子さんと食べれば…」
「もう時間だからみんな帰ってしまったわ」
そういえば、先ほどから琴の音色が聞こえないと思った。縁側に鎮座していた女たちは姿を消し、庭の金魚が跳ねる音しかしていない。
「えっ…でも…」
「いいの、いいの。こういう生菓子って今日中に食べないと美味しくないでしょ」
遠慮しないで、と、菖蒲は美麗の断りの言葉を無視し、席を立って奥へとそそくさと消えてしまった。
「もうっ、また桔梗姐さんに叱られてしまう…」
美麗は思わず小声で愚痴を漏らしてしまう。このことが桔梗に知られれば、どうなることかわかったもんじゃない。また小言を言われてしまうだろう。しばらくすると、菖蒲が再び和室に入る。
「お待たせ。ごめんなさいね、お客さんにお茶も出さずに」
「いえいえ!押しかけたのは私ですから!」
「押しかけただなんて、とんでもない。私は凄く嬉しいのよ」
新緑の良い香りがする湯呑をお盆に乗せながら、菖蒲はゆっくりと微笑む。自然とした動作で、美麗の目前に湯呑を置いた。
「どうぞ。お口に合えばいいのだけれども」
「ありがとうございます!頂きます!」
美麗は桜色の可愛い湯呑を手に取り、一口含んだ。すると、お茶特有の甘さが咥内に広がり、芳醇とした味わいがする。
「美味しい!!」
「でしょう?京都からわざわざ取り寄せたものなの。お茶には目がなくってね」
「そうなんですか!桔梗姐さんもお茶は大好きで、よく2人で飲むんですよ」
「そうなの…ねえ、美麗ちゃん、そちらに行ってもいいかしら?」
「はい?どうぞ」
当然の菖蒲の申し出にきょとんとした美麗だったが、本当にごく自然な流れで断る理由もなかったのだ。本来ならば、桔梗の言われた通り気を付けなければならないのだが、そのようなことは一切見受けられない。やはり、桔梗の杞憂だったのではないか。
菖蒲は美麗の横に少し隙間を空けたところに腰を降ろし、自慢のお茶を啜った。
「美麗ちゃんは、桔梗さんのことをどう思っているのかしら?」
「ふえっ、桔梗姐さんですか!?えっと…」
突然の質問に、美麗は思わず戸惑ってしまった。桔梗に関して言いたいことはたくさんあるのだが、それを上手くまとめられない気がしたので、一呼吸置いた。
「あ、あの、桔梗姐さんは、厳しいところもありますが、凄く優しいんですよ。ちゃんと私のことを見てくれるし、」
「頼りになるお姉さん?」
「はいっ!本当に頼りになります!」
「そう…それは羨ましいわね。小さい頃からずっと一緒なのよね?」
「勿論です!あれ?小さい頃って…」
話途中なのにも関わらず、美麗は酷い倦怠感に襲われた。そして、視界が徐々に歪んでくる。まるで、世界がぐにゃりと曲がったように。
「あ、あれ…」
「あらあら、いけないわ…」
今にも倒れそうな美麗を菖蒲は後ろから支え、すかさず抱き込んだ。
「ねぇ、美麗ちゃん。本当に可愛いわ。私がお姉さんの代わりに可愛がってあげる」
「あっ…」
菖蒲は美麗の素足をさらりと撫でた。ひんやりとした素足だが、まるで拒絶をするように手に吸い付かない。
「あら、あなた仕込まれているのかしら…肌触りが少し悪い感じがするわ…それとも、元の性質なのかしら」
「ふぅ…っ」
美麗は動かない身体を無理やり捩り、少しでも菖蒲から離れたかった。しかし、酷い倦怠感となぜか身体が麻痺してしまっているので、微かにしか動けないのである。大声を上げたくても、喉が全く動かない。
「お姉さんが恋しい?だあめ。ここには来ないわ。お姉さんは忘れて楽しみましょうよ」
「んあっ…」
菖蒲はぺろりと首筋を舐め上げた。生温い舌で舐められるとぞわぞわっとした嫌悪感が広がり、全身が拒絶をしているように。身体は動かなくとも、触感は伝わるようだ。
「私はずっとあなたのことを見ていたのよ?いつかはこうしてみたいと…」
菖蒲はさらにぎゅっと美麗を抱き込んだ。
「だからね、あなたが粗相をしてくれて、これはチャンスだと思ったの。ああしてきつく怒れば、謝罪に家に来るかもしれないって。そうしたら、本当に来てくれたの」
感無量と言ったように、菖蒲は美麗の耳をぺろりと舐め上げた。すると、美麗は少ない力を振り絞って身を捩ろうとする。
「うふふ、さっき美麗ちゃんが飲んだお茶には痺れ薬が入っていたの。しばらくすれば薬は解けるけど、その間はたっぷりと可愛がってあげるわね…」
美麗は恐怖のあまり一筋の雫が目じりに浮かんでいた。まさかこうなるとは思っていなかったのだ。桔梗から危険だ、注意深くと言われていたにも関わらずこの有様だ。危険
と言ってもこのような危険だとはわからなかった。今はもう、桔梗がこの危機を察知して助けてくれるのを祈るしかない。身体が動かないのだ。為すすべがない。
「ふふふっ…あなたの肌を見せて頂戴…」
菖蒲は満面の笑みを浮かべながら美麗の帯に手をかける。この服が解かれればもう駄目だと、美麗はじっと堪える。すると、玄関先から言い争っている声がする。
「何をするのですか!ここは通れません!!」
「邪魔よ。どきなさい」
どこか聞き慣れた威厳のある声が一言聞こえると、すぐにどさっと音がして、言い争いはすぐ止んだ。そして、美麗たちがいる和室へと足音が近づいてくる。
「あら、お楽しみ中だったの」
「あなた…なぜここへ!?」
部屋の出入口の辺りに姿を見せたのは、やはり桔梗だった。いつものように扇子をかちんっと鳴らしながら、美麗と菖蒲を見つめていた。冷静を保っているが、内面は怒りの炎で燃え上がっていた。
「お楽しみ中のところ、悪いのだけれど、美麗を引き取らせてもらうわ」
「私の問いに答えて!あの地図は、」
「偽の地図だった…あなたの言いたいことはこれかしら。私を来れなくするために。大方、美麗が通りそうな道で待ち伏せをして、一緒に連れて行ったんでしょう」
桔梗は扇子を懐にしまった。そして、すっと美麗を見つめた。
「帰るわよ、美麗。店の仕事が残っているの」
「桔梗姐さん…」
「ちょっと!勝手に話を進めないで頂戴!!」
置いてけぼりにされた菖蒲は吠えた。自分が主導権を握っていたにも関わらず、桔梗の登場によってそれが崩れてしまったのだ。そして、見す見す美麗を奪われてしまいそうになっている。そうなれば、今までの苦労が水の泡になる。菖蒲はぎりっと唇を噛んだ。
「なんなのよあなたは!!こんな所に一人でのこのこと来て澄まし顔?笑わせるわ!!」
菖蒲は指をぱちんっと鳴らした。しかし、何も起こらず、虚しい空気が場を包む。
「あら、あなた一体何がしたかったのかしら。もしかして、あの若い女と男たちかしら。その人たちなら、廊下で伸びてるわよ」
「なんですって!?」
用心棒として別室で待機させていた男女が使い物にならなくなっているとは、信じがたい状況だ。しかし、合図をしても出てこないということは、そういうことなのだろう。菖蒲はさらに苦虫を潰したように顔を歪めた。そんな菖蒲を放置し、桔梗は美麗の元へと近づく。
「動けるかしら、美麗」
「桔梗姐さん…ごめんなさい…姐さんの約束を破っちゃった」
美麗は無理やり、微かな声量で答える。
「全くあなたは…でも、無事で良かったわ…」
「桔梗姐さん……」
2人は見つめ合い、どこか甘い雰囲気を醸し出そうとしている。しかし、そのことが更に菖蒲の勘に触ったのか、声を荒げた。
「いい加減にしなさいよ!!どこまで私をコケにする気!?絶対にその娘は返さないから!!」
菖蒲は隠し持っていた短刀を桔梗めがけて振り下ろした。しかし、桔梗の肩に当たる寸前で、彼女は瞬時に扇子で防ぎ、刀から身を守った。ガチンっと鉱物同士特有の鈍い音が響き渡る。この事態に一番驚いたのは菖蒲だった。木で作られているはずの扇子で攻撃を防がれたのだから。本来ならば、扇子ごと桔梗を切りつけることも出来たのに。
「あ、あなた…その扇子は…っ」
菖蒲は思わず動揺した声を漏らしてしまう。しかし、そんな菖蒲とは裏腹に、桔梗は先ほどまでの余裕な笑みは消え、凍りつくような無表情を顔面に貼り付けた。
「…負けを潔く認めないなんて…みっともないのにも程があるわよ」
地を這うような声を出した桔梗は、扇子で短刀を押しのけ、すかさず短刀を持っている腕を捻りあげ、後ろから菖蒲を抱き込んだ。
「きゃっ」
「桔梗姐さん!!」
菖蒲の悲鳴と美麗の声が合わさる。しかし、桔梗はそんなこともお構いなしに菖蒲の耳元へ唇を近づけ、美麗には聞こえないように、声を低くして囁いた。
「…あなたはあの子を手なずけられるのかしら…?」
「なんですって?」
「あの子は本当に可愛いの…普段は私の言うことを聞いているようで聞いてないわ。今回のことも私が忠告したのに、それを無視した。それと、本当は抜けている所も多くて、自分は何も出来ないって卑下している所とか…認めてあげると、最高の笑顔をくれるの。だから、わざと私はあの子に冷たい態度を取るの。それでもあの子は私に付いてきてくれる。ああ、本当に可愛くて愛おしいわ…頭のてっぺんから足の先…骨の髄まで愛してあげたい…素敵でしょう…?」
桔梗はぺろりと、自分のぷっくりとした赤い唇を舐めた。先ほどの無表情な顔とは違い、どこか恍惚とした笑みを浮かべている。聞かされた菖蒲は、桔梗に対して恐怖を感じた。どこにでもあるような恋愛話ではない、こう、もっと深く、どろりとした何かが、菖蒲の身体にまとわりつく。
「…あなたたち…姉妹よね…?」
「そうよ?何かおかしいことでもあるかしら。妹とはいえ、私はあの子を愛しているの。姉妹愛など、どこにでもあるようなものじゃないわ。……だから…」
桔梗はより一層菖蒲の耳元に近づけた。
「…だから…うちの店の常連とはいえ、安い感情で美麗に近づこうものなら…私は、あなたを全力で潰すわ…どこの臓物を先に潰して欲しいかしら…?」
威圧を込めた声色で菖蒲の耳の中へ吹き込む。菖蒲は思わずぞくりとしてしまった。後半部分のところは冗談に聞こえないのだ。先ほどの美麗に対する睦言のような物言いといい、冗談のような宣戦布告。いや、冗談ではない、本気なのだろう。そう考えたたけで、足が竦んでしまい、立ってはいられず、思わずしゃがみ込んでしまった。
桔梗は菖蒲の心情を感じ取ったのか、菖蒲を解放した。
「これに凝りたら、二度とこのような振る舞いは慎むのね。行きましょう、美麗」
「…はい、姐さん」
美麗には何が起きていたのかさっぱりわからなかった。桔梗が菖蒲を抱きかかえて数分後には、菖蒲が立ち竦んでしまっていたのだ。桔梗が何か言ったのは明白なのだが、聞くに聞けない。いや、聞かない方が吉であろう。桔梗をちらりと見つめたのだが、その顔はいつもの桔梗の顔だった。しかし、そのことを察知したのか、桔梗はくすりと笑ったのだ。
「…お利口ね。おやつにあなたの大好きな苺大福が待っているわ」
「本当ですか!?やったあ!!」
さっきの杞憂はどこへ行ったのやら。
****************************
「いっらしゃいませ!!2名様ですか?こちらのお席へどうぞ!!」
昼時になると、様々な客で賑わう。今日も実咲屋はごった返している。
「美麗ちゃん、お水頂戴!」
「はい!!ただいま!」
「美麗ちゃーん、コーヒー追加で」
「はい!少々お待ちください!!」
美麗は今日も1人で店を駆け回っている。あの後、桔梗がオーナーから許可を取り、もう1人給仕を雇ったのだが、先方の都合でまだ当分来なささそうなのだ。それまでの間は、美麗が1人で駆け回る日々が続きそうだ。そんな忙しそうに回る美麗を厨房の隅で眺めている者がいた。
「今日も店が繁盛していて、良かったわ」
「…桔梗さん、あなた、仕組んだのか?」
「あら、何のことかしら」
扇子を片手に、桔梗は問われた相手に対してほくそ笑んだ。あらあら、気づかれてしまった、とでも言うように。
「全く…美麗をわざと危険な目に合わせるのもどうかと思うが?あなたなら、遠くから美麗に事故らせるのは簡単だ。美麗の性格上、わざわざ謝りに行くのも明白だしな」
厨房の隅にいる桔梗に対して、包丁で淡々と野菜を切っている、髪がショートカットでどこか少年のような風貌をした少女がため息混じりに悪態をつく。
「あの子は危機管理能力が無さすぎるのよ…私もべったりと付いているわけにもいかないし…」
「『ヤツら』が来た時のためか?」
「それもあるけど…あの子に付く邪魔な虫は排除したいのよ。あの菖蒲とか言う女は、前から美麗に対して態度が違っていたし…」
「…今の会話を美麗が聞いたらどう思うかな。行き過ぎた嫉妬と独占欲は身を滅ぼすぞ」
「心に留めておくわ。あと、渚。新メニューの企画案、早く出しなさい」
「はいはい、わかってるよ」
客席の方から、がしゃんっと食器が割れる音が鳴り響いた。
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