第15話
「ゲド様?」
一日の疲れを癒そうと風呂場に向かい、今まさに浴室へと入らんとする俺を迎えたその低い声に、俺の儚い夢は打ち砕かれた。
「ゲド様、いかがなされました?」
俺の反応が無いことを不思議に思ったのか、その声が問いかける。その声を聞いた瞬間、俺は心から叫ばずにはいられなかった。
「サバじゃん!」
俺の目の前に立っていたのは鍛えた体を惜しげもなくさらしたサバスチャン。銀色の肌にしっかりと割れた腹と蒸気する瑞々しい肌が何とも忌々しい。
これじゃない。俺が見たかったのはこれじゃない。こんなポロリは求めてない。
もっと、もっとこう、ピンク色と言うか、艶めいていると言うか、いや、まあ目の前の魚類も十分艶はあるんだが、そういう鮮度的なものじゃない。
「――ッ!大変失礼いたしました!」
「あぁ?」
なぜかサバスチャンが跪く。
なんだ?確かに俺の楽しみを奪ったのは失礼だったがそこまですることか?
「主より先に湯に浸かるとは、執事にあるまじき失態」
なんだそういうことか。まあ確かに、召使が先に風呂に入るってのは失礼かもな。
「かくなる上はこの身掻っ捌いて――」
「いや、そこまでしなくても」
「味噌煮になって主の食卓を彩るしか!」
「いらねぇよ!?」
「――ッ!味噌煮はお嫌いですか!?」
「そこじゃねぇ!」
「しかし!それでは……」
「良いから。気にしてねぇから」
このまま放っておくと次は塩焼きになるとか言い出しかねないな。流石に見知った顔が皿に盛られたら食欲失せちまうよ。てか、もう疲れたから一刻も早く湯船に浸かりたいんだよ。
「なんと……このような無礼を働いた私めにまだ挽回の機会を下さるのですか?」
「あぁやる!やるから落ち着け!」
それといい加減着替えてくれ。いつまでも野郎の裸は見たくない。
「なんと慈悲深きお言葉。このサバスチャン、身を粉にしてお仕えいたします!」
「身を粉……魚粉……」
「え?」
「いや、なんでもない。じゃあ、俺風呂入るから」
「はっ!ごゆっくり!」
なんか最初から盛大につまずいたが、気を取り直していくとしよう。
まずは掛け湯、次に頭、体と洗って、お待ちかね、湯船に進軍だ。
「うぃぃぃ~」
心地よさに思わず声が漏れちまう。源泉かけ流しで熱くもなく温くも無い丁度良い温度、少し緑掛かってて不思議な感じだが、それが逆に効能とかがありそうだ。一つだけ不満を上げるとすれば、なぜか蛙の口から湯が出てることだろうか。
「ん~、良い湯だ」
これで疲れはバッチリ取れそうだ。サバスチャンもそれ目当てで来たんだろう。いや、待てよ、ってことは……
「出汁とか出てないよな?」
湯を両手ですくって嗅いでみるが、うん、特に匂いとかは無い。出汁入り風呂ってのは流石に勘弁だからな。
「これで一安心か。あ~、このまま湯の中に溶けちまいそうだ」
肩まで湯に浸かって目を閉じると、本当に気持ちいい。魔界で言うのも変な感じだが、ここが天国ってやつか。
湯の流れる音以外は何もない。体の全神経を休ませるにはもってこいだ。
――が、そんな俺の平穏をぶち壊す存在が来訪する。
「わ~い!一番乗り!」
「――ッ!?」
「こらイリナ飛び込まない!それにまだ体洗ってないでしょ!」
俺は咄嗟に潜水し、身を隠した。
いや、別にやましいことしてるとかそういうわけではないんだが、なんというか、男としての性というか……。
んなことより、なぜイリナ達が?いや、大浴場だし城の人間が入るのは当たり前だが、なぜよりにもよってこのタイミングで!?
「別にいいじゃん姉さま。サバスチャンも出たみたいだし、誰もいないよ~」
俺がいるけどな!
「まったく。確かにいつもなら私たちしか入らない時間だけど、今日は違うのよ」
「気にしないでくれエルピナ。私が無理に貴方達と入りたいと言ったんだ。いつも通りに振る舞ってくれて構わない」
「お姉ちゃん、いつも言ってるけどお風呂は飛び込んじゃダメだよ」
よりにもよってディアとエレナまでいやがるのか!どうする?どうやってこの危機を脱する!?
とりあえず、俺は潜水したまま風呂の端、イリナ達から最も離れた場所まで移動することにした。幸い浴室は湯気で満たされていてある程度離れればそこまでハッキリとお互いの姿は見えない。呼吸できるギリギリまで頭を沈めればバレないだろ。
イリナ達が風呂から上がるのを待って、頃合いを見て出るとしよう。アイツらが長風呂じゃないことを祈るばかりだ。
「ふぅ、良い湯だな」
「でしょ~、ゆっくり浸かれば疲れも吹っ飛ぶよ」
「まさか魔王城の地下にこんなものがあるとはな」
「私も耳にした程度なのですが、先代様の御祖父様が大層こだわって作られたそうです。床や浴槽の材料もご自分で探されたとか」
「ほう、それはずいぶんなこだわりようだ」
「この蛙の置物も自分で作ったんだって!すっごいよね!」
「ハハ、ずいぶん可愛らしい湯の番だな」
かわいい?人間とモンスターって感性が違うのか?てか、これもまた生首の爺様のせいかよ。どんだけぶっ飛んでやがんだ。
「メルディア様、でっかい傷あるねぇ」
「あぁ、これはゲドに付けられたものだ」
ディアが撫でているのは、おそらく俺が戦いの時に着けた左肩の傷だ。結構深く切り込んじまったからまだ痛むのかもしれねぇな。悪いことしたかな。
「治されないのですか?」
「確かに治癒魔法でなら傷跡も綺麗に消せるだろうが、この傷は残しておかなければならない。戒めとして、な」
「メルディア様……」
戒めってお前、そこまで重く考えられると……。
「なにより、ゲドにキズモノにされた証として!」
……一瞬でも悪いと思った俺がバカだった。
「愛、だね」
「愛……」
こんな屈折した愛なら俺はいらない。
「やっぱり、メルディア様はお兄――ゲド様のことが好きなんですね」
「ん?そうだな。まだ会って間もないのだが、ゾッコン、という感じだろうか」
「いいなぁ。アタシも早く好きな人とか欲しいなぁ。一緒にご飯食べたりしてさ、そんで、あれやってもらうんだ!壁ドン!」
「壁ドン?」
「姉さま壁ドン知らないの!?」
「え、えぇ」
「そんなんじゃダメだよ!メルディア様は知ってる壁ドン?」
「もちろんだ。アレだろ?女が壁を背にして、男が向かいに立って壁に向かって手を伸ばし――」
「そうそう」
「そのまま掌底で壁を破壊し力強さを見せると言う」
そんな壁ドン聞いたことねぇよ。てか、そこまで行ったらドンじゃねぇだろ。ドゴンだろ。
「ま、まあ壁ドンは人それぞれだとして、師匠……あ、ゲド様のことね?とにかく、師匠じゃちょっと無理じゃないの?」
俺以外だってそんな壁ドンはお断りだろ。
「まあ、そうかもしれないが、ゲドの魅力は力じゃないからな。不思議な魅力を持った男だよ、ゲドは。はは、改めて口にすると気恥ずかしいな」
「まあ確かに。師匠、先読みとか出来るしね」
「それにゲド様、優しいです」
お、これは俺がいない間に株上がってる?
「私がお腹空いてるのに気付いて、プリンくれました」
「あ!それってガッドの?いいなぁ~。アタシ食べれなかったんだ」
「貴女は仕事中だったでしょ」
まあエレナも仕事中だったがな。てか、お前は食っただろ、エルピナ。
――ん?なんだ?ディアの様子が?
「ゲドが、プレゼント……。私もまだもらったことないのに……」
アイツ風呂に入ってるのになんで震えてるんだ?あのあたりだけ湯が温いのか?
「なんか意外だね。師匠、絶対に食べ物とか他人にあげなさそうなのに。あげるくらいならドブに捨てたりしそうじゃん?」
お前の中で俺はどういう奴なんだイリナ。まあ、間違ってないけど。
「そんなことないよ。ゲド様すっごく優しいよ。私の頭やさしく撫でてくれたし」
「まあ、それは――メルディア様!?いかがなさいました!?」
今度は何だよ――ッ!ディアの奴鼻血出してる!どうなってんだ?
「ゲ、ゲドにあ、頭、な、なでなで。え、うへへへ」
鼻血出しながらニヤついてやがる。不気味だ……。
「そ、それに、泣いてる私を慰めて、お嫁さんにしてくれるって言ってくれたし」
「何!?」
瞬間、ディアの顔から全ての感情が消え失せる。
なんか今日のアイツはいろいろと忙しいな。
「師匠そんなこと言ったの?だって、メルディア様いるじゃん」
「それは、話しするからって」
「本当なのエレナ?」
「うん」
「は、はは、ゲドが、私以外の女を嫁にすると?いや、私だってゲドに自分のものになれって言われて、あれ?でも嫁にするとは一言も……」
なぜかディアがブツブツ言いながら震えてる。
焦点が合っていないんだが、大丈夫かアイツ?
「メ、メルディア様、所詮子供の言うことですから、お気になさらずに」
「ホントだよ!お兄ちゃん約束してくれたの!」
「お兄ちゃん呼び!?」
「メルディア様落ち着いて!大丈夫だって!きっとメルディア様が一番だよ!」
「しかし、私だって呼び捨てなのに、お、お兄ちゃんなんて……じゃあ私はお姉ちゃんだ!」
「メルディア様!?」
何を言ってるんだアイツは?湯に浸かり過ぎてのぼせたのか?
それからしばらくはみんなでディアを落ち着かせることに苦慮していた。というか、エレナが俺のことをお兄ちゃん呼びするたびにディアが再び興奮し、それを宥めて、の繰り返しだった。
結局、ディアが落ち着いたのはそれから十分ほど経ってからで、このどさくさに紛れて逃げちまえばよかったんじゃないかと、今になって思う。
「取り乱してしまってすまない。恥ずかしい所を見せてしまったな」
「まあ仕方ないでしょ。好きな人が他の女の人に求婚してたらね」
「ご、ごめんなさい、メルディア様」
「いや、気にしないでくれ。考えてみれば、選ぶのはゲドだからな。私たちがどうこう言うことじゃない。それにしても、昨日はあんなに偉そうなことを言ったのに、私もまだまだだな。……よしっ、気を取り直して、ゲドに選んでもらえるようなイイ女になろう」
「おぉ、メルディア様カッコいい」
「私も、メルディア様みたいにカッコ良くて綺麗な女の人になりたい」
カッコ良くて綺麗な姉ちゃんは風呂で鼻血出しながら発狂しないけどな?
「それならば大丈夫だエレナ。女は恋をすると綺麗になる。君はもう綺麗になり始めているよ」
「まあ、それが美貌の秘訣ですか?あやかりたいものですわ」
「そういうエルピナだって、ずいぶん肌が綺麗だぞ。さては、想い人でもいるのか?」
「あら?メルディア様ほどではございませんわ」
「あーあ、アタシも二人みたいにおっぱい大きくならないかなぁ。恋とかすりゃいいのかなぁ」
その前に、お前はもうちょっとやることがあるだろ……。
にしても、話聞いてたらぜひともその綺麗な肌を間近で見たくなってきたな。だけど、近づきすぎて見つかってもなぁ。
――待てよ、俺は何をしてるんだ?
俺は魔王。アイツらの主。その俺が、なんでこんなのぞきみたいな真似をしてる?このままでいいのか?いや、良いはずがない!
そう、今こそ変わる時だ。威風堂々と立ちまわり、そして――バッチリ見せてもらう!あわよくば触らしてもらおう!
では第一歩を――
「誰だ?」
「姉さま、今、水音が!」
「分かっているわ!そこ!」
エルピナが湯船に浸した右手を素早く持ち上げた。
何をするつもりなのか分からなかったが、次の瞬間、俺はすべてを理解した。
「っそだろ!?」
俺の顔の横を冷たい風が通り過ぎ、振り返れば壁に切り込みが入っていた。
水って、ものを切ることが出来るんですね。初めて知ったよ、俺。
「はずした!?」
「いや、今ので大体の場所は把握できた!」
ディアが地面を蹴り、水しぶきを上げながらこちらに突っ込んでくる!
怖!何アレ!?あれがさっきまで鼻血拭いてた女かよ!?このままここに居たら危険だ!
俺は踵を返して逃走を試みた。だが、湯に足を取られて思うように進まない。
そんなことをしているうちに、ディアはすぐ背後まで近づいていた。
その殺気に俺が振り向こうとした時――
「天誅ァァァァ!」
「待て!ディアァァァァァァァ!」
背中に走る激痛。宙を舞う身体。
ディアの飛び蹴りを食らった俺は湯船を飛び出し、そのまま浴室の壁へとディープキスをぶちかますこととなった。
「ん?今の声?まさかゲド!?」
壁から剥がれ落ち、浴室に倒れ込んだ俺をディアが抱え上げる。
「ゲド!しっかりしろ!なぜこんなことに!?」
「お、お前のせい……」
「早く手当てしなくては!ウハ」
「おま、なんで笑って……」
そこで俺は意識を失った。
* * *
「う、うう」
「大丈夫かゲド!?」
「ディア?ここは?」
目を覚ました俺の視界にディアが映り込む。てか、顔近いよ。
「私の部屋だ。気絶したゲドを看病するためにここまで運んできたんだ」
ゆっくりと上体を起こして状況を確認する。ディアの部屋ってことは、俺が今寝てるのはディアのベッドか。服はディアが着させてくれたのか?
「ディア、服はお前が着せてくれたのか?」
「それは、その……ごちそう様です」
「何が?」
何があったのかは考えないでおこう。
まだ背中に微かな痛みは残るものの、何とか動け……あれ?なんで両手足を縛られてんの?
「なんだこれ?」
「ゲド、その、お願いがあるんだが」
「いや、それよりまずこの状況を説明してくれ。なんで俺縛られてんの?」
「その、私も、あ、頭を撫でて欲しいんだが……」
「無視か!てか、縛られてたら撫でられないだろうが。まず解け!」
ディアに手の縄をほどいてもらった後、俺は自分で足の紐をほどいた。
ったく、気絶してる人間を縛るなんざ何考えてんだ。それとも、これが竜人の治療法なのか?
「そ、それで頭を……」
「わ~ったよ、ほれ」
そんなに頭を撫でてもらいたいのか。まったく。
「えへ、えへへへへ」
おうおう嬉しそうに。まるで犬だなこりゃ。喉とか撫でたら転がり出すんじゃねぇか?
「ほい、おしまい」
「え?あの、もっと……」
「ダメ!今日はこれで終わり!俺もう寝るから、じゃあな!」
「――ッ!ゲド!」
部屋を出ようとする俺の服の袖をディアが摘まむ。
「なんだよディア?」
「あの、今日は悪い夢を見そうなんだ。その、一緒に寝てくれないか?」
「……はぁ~」
「ダメ、か?」
そんな捨てられた子犬みたいな顔するんじゃねぇよ、ったく。
「俺寝相悪いからな。文句言うなよ?」
「――ッ!うん!」
こうして、俺はディアと添い寝することになった。
まあ、下心が無いのかと問われれば全力で首を横に振るね、うん。
「ゲド、電気、消すね?」
「あぁ」
ディアが電気を消して、俺の寝るベッドに入ってくる。
うは~、暗くなるといろいろヤバいよ、俺。見えないことをいいことにいろいろやっちゃうよ?
「ディア!」
我慢できなくなった俺はディアとの距離を一気に詰めた。ディアは逃げることもせず俺を受け入れる。が、俺が体に触れようとすると、その手を遮った。
「ゲド、その前に、ギュッとして」
「あん?」
「お願い」
まあ仕方ない。女ってのは雰囲気を大事にするって言うしな。
俺はディアの肩に手を回すと、そのまま自分の方へと手繰り寄せた。お互いの吐息が掛かるくらいまで顔が近づく。夜目にも慣れてきたためか、その顔がはっきり見えた。
「ゲド」
ディアも俺の腰に手を回すと、そのまま自分の体を密着させてきた。鍛えられているが、女特有の柔らかさを残した体が俺に密着し――あれ?力入り過ぎじゃね?
「ディア?」
「ゲド……」
「あの、ディア?」
目を潤ましてるところ悪いんだが、かなり力が強い。結構苦しいって言うか、痛い!ちょ!ヤバいこれ!マジで痛い!
「ちょっ、ディア!マジで痛い!」
「ゲドぉ~」
おい!勝手に盛り上がってんじゃねぇよ!痛いつってんだろうが!
「ディア!放せ!マジで!オイ!このままじゃ!」
「うふふふゲド~」
「うふふじゃねぇって!ディア!これじゃあ俺がガガガガガガガ!」
その後、俺は再び意識を失い、目を覚ました時にはディアが横で静かな寝息を立てていたのだった。俺はその幸せそうな寝顔に軽く苛立ちを覚え、頬っぺたを思い切りつねってから自分の部屋に戻って寝なおしたのだった。
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