第7話 メランコリー
自宅わきのガレージに置いてあるランクルのそばに、倒れても車が傷つかないように自転車を押しこみ、良平はガチャリとスタンドを立てると、ふうっとまるで水面からぬけ出したようなため息をついた。
右手に持ったままの小さな青いポリバケツを、無造作にコンクリートの床に下ろすと、バケツの中の小鮒が驚いてとび跳ねた。
肩にかけていた釣りざおのバッグを、急いでロッカーにしまおうと、取っ手をグイッと引っぱったら、ロッカー全体が手前に倒れそうになり、あわてて両手でロッカーを支えた。
簡単なはずのみっつの動作がうまくいかない。
釣りに出かける時は、息子の浩といっしょだった。
だが、彼は、今いない。
帰る途中に、同級生の女の子と出逢ったからである。
良平はひきとめたかったが、嬉しそうに彼女と話す息子の顔を見るとそうもできなかった。
もみじのような手をしていたのは昨日のことのようだったのに、という感慨がわいて来る。
我が子の成長を喜ぶべきなのだろうが、心の中にぽっかり穴が開いてしまったような喪失感にさいなまれる。
車庫から家の玄関まで、重い足取りで歩いて行く。
ほんの十メートルに満たない距離なのに、遠く感じる。
玄関の戸をあけ、「ただいま」と奥に声をかけたが、在宅しているはずの妻のさちえの返事がない。
いつもなら夕餉の仕度をしている時間である。
まったくどいつもこいつも、と半ば八つ当たり気味にかっかと来てしまう自分がなぜか哀れに感じた。
娘はもう帰宅していた。
上がり口に赤い靴がそろえて脱いである。
そのすぐわきに、黒い運動靴が一足並んでいる。
チチッと舌打ちし、まったくもってこんなに寄り添うように置かなくても、と良平はそれらを両手でつまみ、十センチくらいの間をあけた。
先ほど、良平は大川の土手で男といっしょにいるまゆみを見かけた。
彼らが何をしていたか、彼の目に焼き付いている。
だが、彼らの所業は、娘を心底愛している彼にとってあまりに残酷だったので、その記憶を頭の引き出しの中にすばやくしまいこみ、頑丈な鍵をかけてしまった。
「あら、帰っていらっしゃったんですね。ヴェランダで洗濯ものをとりこんでいるところだったんで気づきませんでしたわ」
廊下の奥の暗がりで、さちえがくぐもった声をだした。
「何か口の中に入っているのか。聞きとりにくいけど」
ええ、いえ、なんでもと彼女は左手に持っていた、ふくらんだ紙袋を、あわててエプロンのポケットに押しこんだ。
口のはじに黄色いものがついている。
しゃべるのに、口に物を入れているとは、と腹が立ちそうになるが、良平は曲がりなりにもこの家の大黒柱である。
常に落ち着いていなけりゃ、と思う。
さちえは口に含んだ最後のひと塊りをごくりとのみ込んでから、
「どうでしたか。釣れましたか」
と言い、わざとらしい笑顔を良平に向けた。
「ああ、小鮒が三匹ってとこだな。今時にしちゃ、大したことないや」
良平は上がり口に腰かけ、脚にぴっちりくっついている長靴を脱ぎはじめた。
だが、初めからサイズが小さすぎたのか、なかなか彼の足から外れない。
彼がううんとうなると、ようやくズボッと脱ぐことができた。
「くそっ、いまいましい長靴めが」
と言いながら、両手でそれらを持ち、ポンと放り投げた。
「なんて行儀がわるいこと。川原で何かあったんですか。そう言えば浩が見えませんけど」
「ああ」
「ああじゃないでしょ。ひろし、どうしたんですか。どこかへ遊びに行ったんですか」
「まあ、そんなところだ」
よいしょと声をかけ、良平は廊下にあがると、スリッパにはき替え、台所に向かった。
さすがは妻である。夫の異変を見逃さなかった。
彼の気持ちを和らげようと、好きなコーヒーをいれてやることにした。
「さあどうぞ。とびきりじょうずにいれましたからね」
彼女はほほ笑み、良平の返事を待つが、彼は唇をカップのふちにつけたままで、しゃべろうとしない。
「あなた、それじゃまるで子どもじゃない」
さちえがそう言うと、良平はかっとしたのか、顔が紅くなった。
「なんでしょね。あなたの不機嫌の原因は。釣果が少なかったからだとは思えないし」
「訊きたいか。そのわけを」
良平が問うと、さちえは、ええとうなずき、彼の背後にまわって、白い両手を彼の肩にのせた。
「深刻なこと?」
「まあな」
さちえは紅い唇を良平の耳もとに近づけ、
「聞かせてちょうだい」
と、ささやいた。
良平は、再度、大きなため息をついた。
「要するに、子どもたちが大きくなったということさ」
「何よ、それ。ぜんぜん答えになっていないわ」
「二階にいるんだろ、まゆみのこれ」
と、良平は右手の親指を上に向けた。
「ばかね、あなた。そんな言い方しないで。まゆみはまだ子どもなのよ」
「いいや、そうでもないな。土手の上で男とならんですわっていたもの」
「それくらいなによ。いまどきめずらしくないわ」
良平と幸恵は、見合い結婚だった。
彼女は某有名女子大を優秀な成績で卒業したらしい。
らしいというのは、結婚式での仲人の言だからである。
以来、家庭でもよく教養をひけらかす。
良平はそれがいやでたまらない。
田舎の大学を何年もかかって卒業した俺とはつりあわないなと初めから思っていたが、離婚するほどの原因になりそうになかった。
常に冷静沈着をむねとして、気品のある言葉を話す彼女だが、次第に感情的になり、言葉が乱れて来た。
「そうかな。ひそひそ話していたと思ったら、突然男がまゆみの肩に手をのせてな」
良平はふいにしゃべるのをやめた。
「手をのせて、どうしたっていうのよ」
さちえが良平のすぐ前の席にすわり、身をのりだした。
それがな、と言ってから、彼は黙りこんだ。
「どこかにチュッとしたんでしょ、そいつは」
さちえがあっけらかんに言った。
「あんたって、昔のままね。少しも進歩してないわ。今の子はわたしたちの頃とはまったく違うのよ。ぎゃはっははは」
態度とはうらはらに、言葉のはしはしで、彼女の心が揺れ動くのがわかる。
「そうだろか。変わらないと思うんだけど。あのさ、お前、どうでもいいけどその笑い方はやめてくれないか」
「ええっ?そんなに変かしら」
トントンという音に続いて、ドンドンが階段の方から響いて来る。
まゆみたちが下りて来たらしい。
空のグラスがふたつのったトレイをまゆみがささげ持ち、青いジャージ姿の若い男が長い右腕を彼女の腰にまわした状態でつき従っている。
ずいぶんと背が高い。百八十センチはありそうだ。
「まさるくん、帰るんだって」
まゆみの声が弾んだ。
「あら、そうなんだ。もっとゆっくりしてればいいのに」
さちえは思ってもいないことを口にした。
若い男は、まゆみのすぐそばにいるのが父親の良平だと気づくと、
「どうもごちそうさまでした」
と、長い上体を折り曲げてあいさつをした。
青くさい匂いが鼻につく距離だ。
「いやあ、ごていねいに」
良平は言いたくもない言葉を口に出してしまい、すぐに悔やんだ。
動揺しながらも、毅然とした態度を保とうとしているさちえの顔を横目に見ながら、彼は照れ笑いを浮かべるのだった。
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