第5話 一年生
小学校が、山際に、ひっそりと建っている。
いまどき珍しい木造だ。
長年使い古されたせいか、所々、板がそりかえったりしている。
百年近く、子どもたちがそこに通ったが、昨年の三月に閉じられてしまった。
校舎の南側は幅十メートルくらいの川が流れ、川岸はコンクリートで固められている。
小川洋一はこの土手を散歩するのを日課にしている。
杖を突きながらだから、容易ではない。
彼もこの学校の卒業生だ。
といっても、もう六十年前である。
春のうららかな陽射しが、彼の背中をあたためていた。
「咲く花の、におう、みいあとのお・・・・・・」
つぶやくように歌いだした。
俺が通っていた頃は、この土手には桜が等間隔に植えてあったな、この時期は満開だったのに。みんな切り倒されてしまって、くそっ、罰あたりめ。
洋一は悔しそうに口をゆがめる。
ひと息入れようと、川べりに腰をおろそうとした時、ふいに何かにぶつかったような気持ちがし、意識が遠びた。
だが、それは一瞬のこと。
目の前の景色が、ふわりとなじみのあるものに変わった。
葦の間から、浅瀬で真鯉の群れが泳いでいるのが見える。
良く見ようと立ち上がり、最寄りの石橋を渡りはじめた。
ふいに小さな手がポンポンと彼の背中をたたいた気がして、彼はふり向いた。
Gのアップリケが縫い付けてあるキャップをかぶった男の子だった。
半ズボンをはいている。
どことなく、見たことがあった。
新しく、ピカピカ光る黒いランドセルを背負っている。
「きみはどこの子」
洋一が問いかけても、答えない。
ただ、にこにこするばかりだ。
桃の小枝を肩にのせ、
「けんをとっては、にっぽんいちだ。ゆうめは大きい少年剣士」
と歌いだした。
どこかで聞いたような、と洋一は空を仰いだ。
「ぼくさ、なんだい、いまごろ。学校、休みなんだろ」
二度目の問いかけだ。
男の子はもじもじしていたが、ようやく、目を丸くして、
「休みじゃないよ。今からおうちに帰るんだ。おじさん、チャンバラごっこする?」
と言った。
「応えてくれて、ありがとう。おじさん、きみとやったら負けそうだから、や
めとくよ」
懐かしさがこみあげて来て、しかたがない。
洋一は、その子を抱きかかえようとした。
「わっ、おじさん、変なんだ」
男の子はかけ出したかと思うと、急に立ちどまり、ころころと笑った。
小学校の運動場がさわがしい。
子どもの声で、いっぱいだった。
おかしなことがあるもんだ、夢でも見ているのかしらん。
男の子や女の子が、あちこちで群れなして、遊びに興じている。
缶けりに石けり、それにゴム飛びにまりつき。
昔の遊びばかりである。
「こりゃいったい、どうしたわけだ」
洋一は、頭がくらくらしてしかたがない。
「おじさん、おじさん、どうしたの。だいじょうぶ?」
行ってしまったはずの男の子が戻って来て、洋一の手をとった。
「ぼくのこと、忘れないでね」
「ああ、忘れるもんか」
「きっとだよ」
「うん、きっとな・・・・・・」
洋一は急に身体が重くなったように感じた。
深い海の底にゆっくり沈みこんで行くように思える。
苦しいはずなのに、なぜか気分はいい。
翌日の朝刊の片隅に小さな記事が載った。
「B川の土手を歩いていた小川洋一さん七十二歳が、走ってきた自転車に追突され、市内の病院に収容されたが、一時間後に死亡が確認された。死因は脳挫傷と見られる」
(了)
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