第4話 蝶
その老人ホームは、街から遠く離れた雑木林の中にあった。
男体おろしが強く吹くときは、竹林が大きく揺すられ、生きもののように躍動し、声をあげる。
入居者はそれが通りすぎるのを息をひそめて待つ。
ふくろうが鳴く夜は、故郷にいる家族を思い、眠りにつく。
キヌは、朝方、夢をみた。
早春のある晴れた日、菜の花が咲く土手を幼女が走っている。
右手を空につきだし、大きな口をあけ、何か叫んだ。
彼女の視線の先には、一羽の白い蝶が舞っていた。
そのうちに、蝶は気に入った花を見つけたのか、動きをとめた。
彼女はそっと手をのばしつかもうとしたが、蝶に逃げられてしまい、泣きだしてまった。
ふいにキヌは右肩を揺すられ、目が覚めた。
涙が枕を濡らしている。
「どうしたの、キヌちゃん」
介護者の山本ひろみが声をかけた。
なかなか視線が定まらないのか、キヌは目がうつろだ。
しばらくして、ようやくひろみを認めたキヌは、
「ああ、山本さんごめん。夢さ、夢を見ていたんだよ」
「むかしのこと?」
「そうさ、つぎはぎだらけの着物を身につけた女の子が、ちょうちょをおっかけている夢」
「ふうん、かわいい夢ね、その子って、小さい頃のあなたでしょ」
「わかんない。つかまえようとしたんだけど、あと少しというところでね。逃げられちゃったんだ」
「それは残念ね。あなた、九十にもなって夢をみるんだから、まだ頭がしっかりしてるのよ、自信持って」
「うん、わかった。こうやって人と話をすると、賢くなるっていうしね」
「そうですとも。いっぱい話を聞かせてちょうだい」
「わかった」
「この冬を越せば、たくさんのちょうちょに会えるから、元気でいなくちゃね」
「そうそう。このあたりの田んぼには葉の花がいっぱいだよね」
「よく覚えてるわね」
「わたし、もう三十年になるよ、この施設に来てから」
「そんなに?ずいぶん長いのね。まるで施設のぬしだわ」
太陽が西に傾いたのだろう。
庭の植木が長い影をつくりはじめた。
定刻どおりに夕食をとってから、キヌはひろみに身体をふいてもらい、気持ちが良くなったのか、またうとうとしはじめた。
葦で葺いた屋根が見える。
煙突から白い煙がでている。
秋刀魚の焼ける匂いがただよっている。
裏木戸から年輩の女が出て来て、
「きぬう、きぬう」
と大声で呼んだ。
幼女がかけて来て、その老女に抱きついた。
「ばかだよ、どこに行ってたんだ。めしできてっから、はやく食え」
「朝ご飯ですよ」
耳のそばで、ひろみのやわらかな声がした。
「ううん、ありがとう。ベッドにずっといると、ほんとに頭がどうかしちゃうよ。夕方なんか朝なんか、わかりゃしない」
「大丈夫、大丈夫。それだけ言えるんじゃだいじょうぶ。歳のわりにしっかりしてるわよ」
ベッドわきの壁に一枚、セピア色の写真が貼られている。
彼女の成人式のものだ。
貧しい暮らしだったが、娘思いの父親が奮発して街の写真屋にとらせたらしい。
「あれ、この着物の袖に、白いちょうちょがとまっているみたい」
「これ、ブローチなんだ。もらいもの」
「あら、いいんじゃない。どなたがくださったのかしら」
キヌは少女のように顔を赤らめ、
「その人とは婚約したんだけど、間もなく戦争に行っちゃったわ」
と言い、うつむいてしまった。
悲しみがこみあげて来て、涙がじわりとわきだす。
見られるといやなのか、ひろみから視線をはずした。
「ごめん、ごめん。思い出させちゃって」
「いいよ、いいよ。へっちゃらさ」
急に用を思い出したのか、あっ、そうだったと言い、ひろみは席をはずした。
キヌは、改めて写真を見つめた。
突然、すうっと気が遠りそうで戸惑ってしまう。
しっかりしなくてはと歯を食いしばるが、もはや体調を回復させるのはむずかしいように思う。
「戦地から帰ってきたら、必ずお前と結婚式をあげるよ」
薄れて行く意識の中で、若き日の婚約者の声を聞いたように思った。
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