第2話 変わりやすい
日曜日の朝。
多摩川の河川敷近くにある団地の一角。
中学二年生になったばかりの井上まゆみの家がある。
土手の桜は、花がほとんど散ってしまい、葉が目立ちはじめた。
ダイニングルームで母の陽子が食事の支度をしている。
目玉焼きがのった白い皿が三枚、テーブルの上にある。
包丁をじょうずにふるい、キャベツを細かく刻んでいる。
やかんがピーピー音を立てはじめた。
青いジャージを身につけ、階段をあわてて降りてきたまゆみが
ガス台のレバーをひねった。
「あら、ありがとう」
「お母さん、おはよう」
「おはよう。まゆみ、早いんじゃない」
「部活があるの」
薄紫色のビニルカバーでおおわれたテーブルを見つめ、
「ゆうべ、ここにおいてなかった?あたしの本、知らない?」
まゆみはテーブルの角をゆびさした。
「お父さんが見ていたようだったわ」
まゆみは暗い表情で、
「見てただけ?さわんなかった?」
「どうして。そんな怖い顔して」
「だって、新刊よ。前からほしかったの。楽しみにしてたの」
「そんなに大事にしてるんだったら、ちゃんとしまっておいた
らいいでしょ」
良平が大きなあくびをしながら、寝室から出て来た。
起きたばかりで、パジャマのままだ。
シャツが垂れさがっている。
「おはよう、早いね」
「あら、あなたこそ。日曜なのに」
「まゆみの声が聞こえたんでね」
にやにやしている良平を、まゆみが紅い顔をして、にらんだ。
「お父さんさあ」
「なんだい。おどかすなよ」
娘の剣幕に、良平は声がうわずってしまう。
「あたしの本、どこ」
「ああ、あれ。お前のだったのか」
「そうよ。どこへやったの」
「俺の書斎」
まゆみは頬をふくらませ、
「もう勝手にさわんないでよ」
「いいじゃないか。見たって」
「いやなの。ことわってからにしてよ」
陽子が割って入った。
「ふたりともおすわりなさいよ。おいしいコーヒーいれてあげ
るから」
父と娘は差し向かいにすわった。
「持って来てよ、いますぐ」
まゆみは強い口調で命令した。
「はいよ」
良平はしぶしぶ椅子をひく。
「まゆみ、いいでしょ、すぐじゃなくっても。コーヒーがさめ
ちゃうわ」
陽子がまゆみをなだめる。
「だめっ」
「いいよ、いいよ。取って来るからさ」
「あなたはまゆみに甘いんだから」
「おかあさんは早くしてよ、ごはん」
「まだ六時でしょ。そうせかさないで」
「先輩より、学校、先に行かなくちゃなんないの」
「厳しいのね、かわいそう」
陽子がまゆみの長い髪をやさしくなでてやると、まゆみはそれを
さけるようにからだをねじった。
良平がダイニングにもどった。
「わるかったね、まゆみ」
と言いながら、テーブルの上に本を置いた。
お目当ての本を受け取るとすぐに、まゆみは手に取り、パラパラ
とめくりはじめた。
「あれっ、ないわ」
「何がないんだ」
「しおりよ」
「しおり?」
「そう」
「はさまってないか。二十五ページに。あったはずだぞ」
まゆみはもう一度たしかめたが、なかった。
「きれいな花の絵がのってるやつだろ」
まゆみは次に本を下に向け、ゆすぶってみた。
「ないわ、やっぱり。お気に入りのしおりだったのよ」
「おかしいな、どれ?」
良平がページをめくりだした。
陽子が湯気の立つカップを、まゆみの目の前においた。
「さあ、これ飲んでからにするの。落ち着いて探しなさい」
「落ち着いてなんか、いられないよ」
まゆみが立ち上がった拍子に、からだがテーブルにあたった。
カップがころがってしまい、コーヒーがこぼれ、床にしたたり落ち
ていく。
良平のパジャマに、いくつも茶色のしみができた。
「いい加減にしろ、ばかっ」
良平の罵声がとんだ。
「なによ、お父さんがわるいくせに。ばかだなんて」
まゆみが泣きながら、階段を駆けあがって行った。
ダイニングが静かになった。
良平は両手で頭をかかえ、
「なんだかむずかしくなったんだな、まゆみは」
と言った。
「お年ごろなのよ。あなた、早くとり変えないと」
陽子は寝室に行き、替え着をもってきた。
良平が脱いだずぼんを手にとり、ポケットをまさぐってみた。
何かが手に触れた。
ぐしゃぐしゃの薄っぺらな紙きれだった。
ひょっとして、栞かもと思い、良平に見せた。
トントン、トントン。
軽い足音が階段を降りて来る。
まゆみが微笑んでいた。
「どうしたの。さっきは泣いていたのに」
「いいことがあったの」
「ええまあ」
陽子はあきれ顔だ。
「ところでね、見つかったのよ、しおり」
「へえ、あったんだ、良かったね」
「でもね、これよ」
陽子が手のひらにのせ、まゆみに見せると、彼女は一瞬悲しげ
な表情になったが、
「いいわ、こんなの」
ぽいっと屑入れに投げ込んだ。
良平と陽子が顔を見合わせた。
「なによ、いったい。あんなにさわいでたのに」
陽子がとがめると、
「新しいのを買うからいいの」
と言った。
玄関にいそぐまゆみの背中に、良平が、
「気をつけるんだぞ」
と声をかけた。
まゆみはふり向き、
「まさるが待ってるって」
良平が陽子の方に向きなおり、
「まさるって?」
と訊いた。
「ボーイフレンド」
「いるんだ、そんなの。もう」
良平が眉間にしわを寄せた。
まゆみは運動靴の先をトントンと床にぶつけ、
「行ってきまあす」
戸をガラガラと開けるなり、跳びだして行った。
(了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます