第9話  智絵の十年 

遡ること十年・・・・・。


「キー」

トラックのブレーキ音が聞こえる、

目に映るのは暗闇、

そして父の温もりと重さ・・・。

「お父さんどいて・・・・どい・・・て」

私は上にのっている父をどかそうとしたから、押し上げる。

 小さな手は父をどけられず、力は抜けていき・・・・・尽きた。

 数分経って父は崩れ落ち、私の目に光が差し込んだ。

 目には赤い水たまりが広がる。

 父を一度見て、母を探す。トラックの近くに女性の体らしきものを見つけるが、母かどうか、それすら分からない。

 近くに俯せで倒れる父の服を掴み起こそうと呼びかける。

「お父さん起きて、お母さんが変なの。ねえ起きて・・・・」

 中々起きてくれない父、今度は肌に触れ起こそうとした。

 だが、先まで温もりを宿していた父の体は冷たくなっていた。

 智絵は静かに悟った。父は、もう起きないのだと。


 かつてNHKで見た、動物番組。豹の生涯を追うドキュメンタリードラマだった。母である豹は小さな命を宿し、やがて小さな生命が生まれる。一匹目はライオンに襲われ、二匹目は狩りから帰ると居なくなっていた。三匹目は・・・・ほかの雄豹に襲われ死んだ。

 豹は夜に狩りを行う。そのとき、子供たちは母の手により、意思の隙間など物陰に隠される。だが小さな豹も生きている。動かずに母を待つ子供もいれば、岩陰から外に出てしまう子供もいる。そんな小さな豹はライオンやハイエナに捕食される。

 そして豹の雄が子供を捕食する理由。雄の豹にとって血縁関係にない子供は縄張りを所得した時や新しい子供を作るためにはいないほうが良いのだという。自分の子がいなくなった雌は新しい命を宿すために縄張りを支配する雄と交尾をする。つまり自分の血を受け継ぐものを残すには、血縁関係にある子供を殺すのが手っ取り早いのだ。

 だから、ドキュメンタリーに出た母豹は子供を守るためあらゆる雄と交尾した。これにより子は殺されずに済んだのだ。

 しかし、苦労して産んだ五匹目の子は黄昏時、蛇によって殺された。母豹は死んだ我が子の亡骸を取り換えし自分の肉とした。

 ドキュメンタリーの豹は生涯で一匹しか大人にできなかった。

 そして、どの豹よりも長生きした豹は最後には冷たくなって眠るように息を引き取った。

「お父さんが死んだ。そんなウソ・・・ねえ、返事をしてよ、お父さん。」

 智絵は落ち着いた声音だった。イヤ、何が起きたかすら、分かっていないのだろう。

父が知らぬ間に死んだのだ。父がなぜ死んだのか、それが分からず悲しむこともできないのだろうか。

 智絵は息を殺して、ただ涙を流した。

そして手を繋いでいた姉のことを思い出す。

「唯、唯はどこ!」

唯の行方を必死に探す、その場から立ち上がることが出来ずに目で必死に・・・探した。

「唯!」

唯を見つけ駆け出す。

 唯は頭から血を流し、倒れている。

 髪は赤に染まり、血で顔が見られなくなっている

 唯の姿を見てやっと何が起こったか分かった、

私は信じたくなくて、

「ぁぁぁっぁぁぁぁあああああ」

悲鳴をあげ、その場に倒れこむ。

 女性が駆け寄ってきた

「しっかりして」

私はその言葉を聞くと・・・気を失った。

 次に目覚めたのは、白い壁の部屋。



「おはよう。もう朝だよ。」

 小さな智絵の前にポニーテールの女性が微笑みながら現れる。

「お姉ちゃんだれ? 」

 智絵の口から自然に出た言霊は弱い。

「あら、こんな小さな子に『お姉ちゃん』なんて言われたのは久しぶり。二十歳になると『おばちゃん』だから」

 こちらの質問に答えることなく優しく微笑む。

「・・・・・・」

 智絵は冷淡な眼差しをポニーテールの女性に向ける。

「あっ、ごめんなさい。私の名前は加賀 凛、よろしく。貴女の名前は、分かる? 」

 加賀と名乗る彼女は私に確認を求めた。

「よろしく、加賀さん。私は冬馬 智絵です。」

 寝ころんだ状態の智絵は頭(かぶり)を振り挨拶をする。

「丁寧にどうも」

 人当たりの良い、笑みを浮かべた加賀は起き上がろうとする智絵の体を支えた。

「ありがとうございます。」

「良いのよ。」

 手を揃えて手を軽く上げる。気にするなと目でも言いながら。

 起きてみて加賀の服装を確認したかった智絵は加賀の肢体を眺めた。

 そんな智絵を加賀は不思議そうに見つめる。

 加賀の服装は黒のスウェットにパーカーズボンは・・・・よく見えない。

 袖口には血が付着していた。

「血が・・・」

 指で指示して智絵は言った。脳裏に少し前の記憶がよぎり怖くなる。

(もしかして、この人もどこか怪我を・・・・・・)

そう思って目線で加賀の姿を探した。

「あっ、ごめんね。怪我はしてないのよ。」

 その言葉を聞いて智絵は安心した。もう、あんな光景は見たくないから。

 智絵は事故の光景を鮮明に覚えていた。その割には冷静に見える。だけど、あの光景を見たのだ。事故の光景を・・・・冷静なはずはない。智絵が冷静に見えたなら、それは・・・・脳の麻痺によるものだろう。

「やっぱり、心的外傷後ストレス障害のようね。」

「何か言いました? 」

「いいえ、なんでも」


 心的外傷後ストレス状態、命の安全が脅かされるような出来事、戦争、天災、犯罪、虐待、そして事故。これらによる強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活障害をもたらしているストレス障害である。

 主にみられる症状は、心的不安からくる不眠などの過(か)覚醒(かくせい)症状(しょうじょう),原因になった障害などに関する回避傾向。最後に事故、事件、犯罪の目撃体験等の一部や、全体に関わる追体験。

 強い衝撃を受けると精神状態はショック状態に陥り、パニックを起こすことがある。 

 そのため、機能を一部麻痺させることで一時的に現状に適応させようとする。

 それらから、事件前後の記憶の想起の回避、忘却する傾向、幸福感の喪失・感情鈍麻、物事に対する興味・関心の減退、建設的な未来像の喪失、身体障害などが見られるのだ。

 これらが一か月以上続く場合、P(心的)T(外傷後)S(ストレス)D(障害)といわれる。

 一か月未満の場合はA(急性)S(ストレス)D(障害)。

 麻痺したままでいると、精神統合性の問題から身体的、心理的に異常信号が発せられるのだ。


 異常信号というのはこの場合、不安や頭痛・不眠・悪夢・などの症状が見受けられる。

 特に子供の場合は客観的な知識がないため、映像や感覚が脳に取り込まれ、はっきり原因の分からない腹痛、吐き気、悪夢が繰り返される。智絵は倒れる前の悲鳴を聞いた加賀が医師に相談して疑いをもたれている。

 加賀自身はPTSDかASDであることを確信しているようだが、医学生でありながらも確かに何かを確信していた。

 加賀は小児科を目指す医学生だ。

精神医療で治すものなので小児科とは関連づかない。しかし、小児科の検診に来て疑う場合もある。


―加賀が考えこんでいると智絵から声がかかった。

「ねえ、姉さんは? 」

 悲しい目で微笑む智絵を見て、加賀はめくばせを一度、言葉を綴った。

「今は休んで、お姉さんも休息が必要よ」

 PTSDの心配がある以上、今ストレスを与えるわけにはいかない。

「わかった。きょうはやすむ。あしたは姉さんのことおしえてね。」

 智絵は口角をほころばせた。

少し疲れが出たのだろう。加賀は智絵の表情を見て思った。

 加賀は智絵の小さな体を支え、ベッドに寝かせた。

「ええ、約束よ。お休みなさい、智絵ちゃん。」

 加賀は目をつむり、智絵と額を合わせた。智絵から額を離すと智絵はすやすやと眠っていた。

 加賀は智絵が悪夢を見ないよう。手を繋ぎ寄り添った。


 智絵が唯のことを知ったのは一か月後の出来事だった。


「そんな、ウソ。凛の嘘つき、姉さんは大丈夫じゃなかったの? 」

 春の朧夜の中、智絵の声が病室に響いた。


    ***


事故から三日、智絵は各検査を終え、しばらく病院で様子を見ることになった。

「ねえ、名前で呼んでもいい? 」

 智絵が車いすに乗り後ろに立つ加賀に言った。

 後ろにいる加賀は急なお願いに間の抜けた表情だ。あまりの驚きで加賀は智絵がどういう考えなのか気にかかり、顔を見ようとするが車いすの後ろからは見えなかった。

 かといって前に行くのも憚りがある。

「佳いけどどうしたの?急に」

「おとうさんと、かあさんがシンでこれから加賀が保護者になるのでしょ。だったら、せめて名前で呼ぶことにしようと。」

 智絵は恥ずかしいのか俯き手を絡めていた。

「そう。名前で呼んで智絵。」

 凛はしっかりと車いすを押し微笑んだ。

「分かった。二十三歳の凛。」

 智絵は凛を見つめて口をほころばせた。

「わざわざ年齢まで言わなくても」

「だって、これからは一緒に歳をとるのだもの。言わないと覚えてられないわ。」

 智絵は澄んだ声で言った。悲しみを溜め込んだような声だったが、凛は思った。

 今のこの子は笑っていると・・・、喜びに震えながら、失ったものを探している。

 きっと、この子が探しているのは父、母という存在だろう。PTSDの影響は両親の記憶をなくす、というものだった。

 事故の時、私はこの子の両親の行先を見た。

死だ。目に入れることさえ不可能な光景をこの子は六歳にして目にした。

 封鎖された記憶は両親、姉の記憶はある。

その事実が凛には奇妙だった。

 どうして姉のことを強く記憶しているのだろうか。両親より姉の唯のほうが見るに堪えない姿だった。

 両親は事故にあい即死。姉は生きるか、死ぬかの瀬戸際、私が見るのなら、死者の方がショックは少ない。

 死の瀬戸際に立つものの存在を知るということは、己も死を味わうということだからだ。

「あら、覚えくれるの? じゃあ毎年、8月14日が楽しみね。」

 凛は言葉を慎重に選び、智絵に微笑みかけた。

―そして事故から1か月が経った。

私のせいで智絵が泣いている。凛は心の中で嘆いた。

 智絵を元気づけなきゃ。凛は固く決心を結んだ。


アリゾナ、凛/事故より一年前の夏

 私は昼食を買うために、コンビニに立ち寄っていた。スイーツを売りにしているコンビニで昼食を買うのは気が引けるが、知り合いの獣医、アリゾナに会うために家から離れた図書館に来ていたため、このコンビニにした。

「カラオケにすればよかった。」


   朝


今日の予定を朝のスッキリしていない頭で、冷蔵庫に張られたカレンダーを確認する。

 午後まで時間がある。頭の中で確認を取り、図書館に行こうと決める。洋書でも読もうと。

 自転車で十分かけ、目的地である図書館に到着した。

 中に入り、夏の日差しを受けて汗を流していた体が急激に冷え、寒さを感じる。体が冷えすぎるのを避けるため、ロビーの隅にある化粧室へと入る。

 洗面所の前で登山用のザックからフェイスタオルを出してタップリと濡らす。そしてきつく絞ると、荷物を持ち少し広めにとられた洋式トイレへ入る。日持つ置き場にザックを置き、タンクトップを脱いでドアのフックへとかける。濡れたタオルで体をふき、タンクトップを着る。タンクトップだけでは市の施設を利用するには不適切だと凛は感じて、ザックからUVカット使用のパーカーを着る。

 やっとのことで図書館に入るとマリーアントワネットの洋書を探し出し、棚の間に設置された小さなテーブルの椅子をひく。

 探せばもっと大きなテーブルがあるのだろうが、一人になりたいと凛は目の前に広がる空間に腰掛けることにした。

 本を読んで居る間、ひたすら時間を気にし、今あの子は何をしているのだろうか。と智絵の存在を考える。やがて十一時になった。

 二時間人工的な空気と冷気に晒されていた体は外に出ると同時に悲鳴を上げる。

「やっぱり、エアコンは体に良くない。」

人工的な冷気は暑さに弱い体を作るだけだ。

皆そろって熱中症にならないようエアコンをつけるが、熱中症の原因は汗を掻く量に対し塩分と水分が足りないせいだ。確かにお年寄りが熱中症で命を落とすのは暑さのせいだろう。お年寄りには人工的な冷気を与える必要がある。だが、このままでは七十年後、老人の熱中症の件数は増えるだろう。

「家の中より、外の方が涼しいわね」

 凛は自転車を漕ぎながらそう呟いた。


―しばらく経って、アリゾナの家に辿り着いた。

「いらっしゃい凛、今日は自転車なのね。」

「機械に頼るのは好きじゃないわ。医者がいうことじゃないけど。」

 アリゾナの出迎えの言葉に、いつものように笑いを含んだ言葉を返す。

「Please enter a house.」

日本語になれたはずのアリゾナは極稀に母国語を話す。本人によると遠く離れた地でも母国を忘れないためだという。素敵な話。この話を聞いて凛は素直にそう思った。

[I am sorry to bother you.]

 私は愛する人の国を愛しているという証に英語で返した。

 飲み物を入れてくる、と客間に通された私にアリゾナは言った。

 アリゾナと出会ったのは今日のように蝉が鳴き、日照りの強い夏だった。洋風の客間にあるソファーに座りながら、ただ待つのは居心地が悪いと、思い出を探る。


    トラック事故より三年前


 アリゾナは女である前に男だ。彼女は性同一性障害で冬馬家の事件がきっかけとなり、性転換手術を受けた。元々顔が可愛らしい真のある顔だったアリゾナは女になって美しく輝いた。 

 事故の事で私はショックを受けていた。具体的に説明できないショックだった。

 ―私は男に触れられて欲しくない。男兄弟に囲まれて成長し、高校時代沢山の男どもから告白された。そのせいで女友達はできず、孤独な青春を送った。

高校卒業後、道端のベンチでタクシーを待ちながら本を読んで居た時だった。目の前を勢いよく自転車が通り、嫌な音が足元を震わせた。

 本に栞を挟み、足元を見る。

しかし何もない。顔を上げ、前にある桜の根元を見る。そこには小さな猫が足を延ばし倒れていた。

「桜の木の下には死体が埋まっている」

 まさにこういう状況、本をゆっくりとベンチに置き。人ごみを避けて子猫の元へと歩み寄る。幸いにも子猫の息は途絶えていなかった。私は獣医に連れて行こうと立ち上がる。   

そこに五分前に電話で呼んでいたタクシーの運転手が車から降りて、お客を探している様子が目に入る。

「あのっ」

あわてて猫を抱えてタクシー運転手の元へ行く。

「あっ、はい。加賀様でいらっしゃいますか」

運転手は背後からの声に少し驚きの息をこぼし、お客の名前を確認する。

「そうです。済みませんが行き先を変更してください。」

「わかりました。どちらに行きましょうか」

「近くの動物病院に、猫を見てもらえる場所で、お願いします。」

 私は動物病院によって受け入れている動物が違うことを知っていたので、付け足すように言った。

「ここらの動物病院は・・・・江戸川区東の方ですね。乗ってください」

 言われて私はタクシーのドアが開いていたことに気付く。

「すっ、すみません。」

「いえ、少しお待ちください。連絡を取りますので・・・・・・」

 あわてて乗り込んだのを確認して、運転手は運転席のレバーを引いた。暴力的な音を奏でてドアが閉まり、スマホの電信音が車内に響く。

《急いで・・・早くしないと》

 私は心で運転手、並びに自分を急かす。

そんな事気にもしないかのように運転手はゆっくりと話した。

「もしもし、これから猫を診察してもらいたいのですが・・・・・・はい、はい、少々お待ちいただいていいですか。ありがとうございます。」

 運転手はこちらを向いて声をかける。

今まで猫を見ていた私は顔を上げた。運転席に飾られた顔写真を初めて見て運転手の名前を知る。《桂(かつら) 羹(かん)》

「少し待っていただくことになりますが、緊急でしたら、病院の緊急外来の方からお入りください。とのことです。加えて、診察とは別料金が掛かるとのことです。」

 嗚呼、世の中は世知辛い。今にも消えそうな命が腕の中にあるというのにお金の事を心配しなくてはならない。

 私も国に借金を背負う身だ、猫の治療費は高いのだろうな。

「わかりました。すぐ向かってください。」

 お金の事は後回し、後で何とかする。しかし、命は今途絶えたら二度と吹き帰らないのだ。

 運転手の桂は《よし、儲けた。》という顔をして軽い声を車内に響かせた。

「はい。・・・お待たせしました。今から向かわせていただきます。」

 車は走り出した。ゆったりと、ゆったりと・・・。実際には速く走っていたのだろうか。

私にはとてもゆっくりと思えた。

 病院の緊急窓口に着いた時、タクシーメーターは7千円を表示していた。やられた、この運転手わざとゆっくり走った。

 わずか3百円ほどだが、今日は渋滞ではなかった。東京では珍しい、確かな記憶だった。

「7千円です。ありがとうございました。」

 いつもなら黙ってはいない、しかし今は子猫の命が先決だ。苛立ちや、悔しさを堪えて7千円支払った。

 運転手は影を落として車を走らせた。

儲けさせてくれてありがとう。と・・・・。

 中に入ると水色の服を着た、看護師らしい男女とオレンジ色の服を着た男女が複数名いた。

「どうされましたか?」

 水色の女性が話しかけてくる。名札には渡瀬(わたせ) 瑠(る)唯(い)と書かれていた。

「先ほど電話した加賀です。」

「猫のですね。」

 落ち着き払った声で言われ、少し違和感が生まれる。そうです、と返事を返すと渡瀬さんは私たちを治療室へと案内した。

「こちらでお待ちください。」

治療室の冷たそうな台に猫を運ぶと、何の説明もなく治療室から追い出された。

「どんな状況か説明しなさいよ。」

 静かに薄暗い廊下で、暗く輝く白い扉に一人しゃべりかけた。

―その場にどれくらい立っていたのだろうか。中から人が出てきた、金髪でショートカットの女性。否、男性。一見すると女子高校生のようだが、眉の上は男性にしかない凹みがあった。肌はとても白く外国人の背格好をしている。私よりとても高い彼は重く口を開く。その様子に〈まさか〉と緊張が走った。

「お待たせしました。猫は弱っていた所を自転車に跳ねられたものと思います。その後、少し歩いたのでしょう。自転車に跳ねられたときに亀裂骨折になり、歩いたことで完全骨折になったのだと思います。それと跳ねられた時に頭を強く打ったようで硬膜外血腫が出来ました。」

 自転車、弱っていた。つまりこの子は野良猫の子ではなく、捨て猫だろうか。猫は子育てにおいて弱ったものは群れから離れた場所に見捨てるが、基本すべての子を育てる。

したがって、この場合、捨て猫という考えが妥当ではないだろうか。

「あの・・・」

 斜め下に視線をそらせて黙り込む私に、獣医は、まだ話はありますよとこちらをうかがってくる。

「すみません。それで子猫は・・・。」

 足を眺めて伺う私に獣医は少し困ったように話を続けた。

「骨折部を外固定して、骨膜外血腫については頭蓋骨に穴をあけ、余分な液体を取り除くという対処をさせていただきました。」

「無事ですか」

凛は弱みを見せまいと顔を上げ、きりっと尖った目先で挑む。

「無事です良かったですね。しばらく安静にしたら、お家に連れて帰ってもらっていいですよ。」

 獣医の言葉にハッと電撃が走るような衝撃が走った。

「あの、うちの子じゃありません。野良猫です。」

 驚いたように獣医は一歩足を引き、手を口元に持っていく。

〈なんか女の子見たい〉

「そうだったのですか・・・・・」

 嫌な沈黙が流れ、獣医は沈黙を破るような笑顔を向ける。

「すごいですね。野良の子を助けて・・・・、私はウィリアム・ミラーです。」

 彼は手を差し伸べる。私は嫌々ながらも彼の手を握り返した。彼は微笑み、私は廊下の隅に視線をそらし、〈ありがとう〉とつぶやいた。彼の顔は見ていないがつなぐ手から満面の笑顔が伝わってきた。


「お待たせ凛、桃の紅茶。」

 ソファーに腰掛ける凛に凛は紅茶をテーブルに野菜に添えるように優しく乗せる。

「凛? ・・・眠てる。起きている時カッコイイの凛も好きだけど、寝ている時の凛はもっと好き。」

 アリゾナは微笑み、肩まで伸びたストレートの髪を書き上げ、凛の額に軽く口を当てた。

「いたずらしすぎよ。」

「Oh, did you get up?」

 馬乗りになってアリゾナは声を上げる。

 〈また急に英語。でも、こんなお茶目なところも愛している。〉

「Yes.」

 凛はアリゾナの唇に口づけをした。

「夢を見ていたの。貴女がまだ男性で、私に秘密を明かしてくれたこと。その後すぐに智絵の事故があって、貴女にきつく当たってしまったこと。」

 凛は涙を流す、あのことは自分のせいだと悔やんで・・・・・・・。

「その後、貴女が姿を見せなくなって・・・・帰ってきたときには女性だったの」

 凛は泣き顔を腕で隠し、なく。

「貴女は悩んでいたのに・・・・私のせいで。」

 アリゾナは私の腕をつかみ、優しく自分の頬へ持っていく。

「バカ、凛のせいじゃない。私が選んだ、凛のそばにいるために」

「やっぱり、私のせいじゃない。」


 ウィリアムは悩んでいた、性同一障害の自分は女になりたい。だが、母が生んでくれたこの体にナイフを入れていいのだろうかと。

 神からの授かりものだと喜んでくれた両親に申し訳ないと・・・・。そんな時、智絵たちの事故は起きた。凛は傷つき、友人として愛する人のそばに居ようとしたが、事故の犯人が男だったこともあり、男性嫌いだった凛は男性恐怖症になった。

 部屋からほとんど出なくなり、家に行ってもウィリアムとは会ってくれなかった。

「貴方の事は好きだけど、やっぱり私は男を愛せないみたい。」

 インターホン越しに薄く笑う、凛の声を聴き、ウィリアムはアリゾナに生(な)ることを決めた。

 十一ヶ月経って、ウィリアムはアリゾナとなって帰ってきた。

「凛、私よ。久しぶりあってほしいの。」

 アリゾナは胸に手を当て跳ねあがりそうな鼓動を鎮めようとする。女になった私を凛は受け止めてくれるだろうか。

「ウィリアム、私は貴方を気付つけた。もう・・・・会う気はないわ。」

「私はウィリアムじゃない。男じゃない、女よ! 凛、お願いだからあってよ。逢いたいよ。」

 アリゾナは涙を流した。叫んだ、心の限りに叫んだ。すると、両親が死んで一人だけになった大きな家からドタドタと足音が響き、勢いよく玄関が開く。

「凛・・・・」

「ウィリアム、いえ・・・アリゾナ」

 凛は鋭くアリゾナを睨みつける。

アリゾナは今にも逃げ出したい気持ちで凛と向き合った。

 凛はゆっくりとアリゾナに近づき、手を握り、玄関までアリゾナを連れて行く。喋らない凛にアリゾナは声をかけようとしたが、凛の声にさえぎられた。

「どうしたのよ、その体」

アリゾナは狼狽えて言葉にならない、ここに来る前に考えていたスピーチは今の凛に勢いに潰されてしまった。

「ねえ、答えてくれない」

 怖くてたまらない。

「凛のそばに居たくて、痛くて、だから女になろうって。凛がまた私のこと好きになってくれるように女になろうって・・・・」

 子供の様に座り込み、泣きじゃくるアリゾナに背中を向けていた凛は振り向いて行った。

「ばか、これじゃあ責任取らないと私が悪者じゃない。」

 抱きしめた、力の限り抱きしめた。

座り込んだアリゾナを凛は包み込むように膝を立てて抱きしめた。

 血がたまるのも気にせず、同じ体制で何時までも抱きしめた。


 ―客間で桃の紅茶を飲みながら時間を過ごし、夜を迎えていた。

「凛、やっぱり。私が女になれたのは凛のせいだよ。だって、凛が居なかったら私はあのまま悩み続けて、一人で老後を迎えていただろうから。」

「そっか」

その晩、二人は肩を寄せていた。ずっと。



事故から一か月


「智絵、今日は唯のところへ行きましょう。」

 母さんは朝8時、手向けの残る瞼をこする私に行った。

「母さん、唯と喋れますか?」

「今は無理よ。傷も治っていないから」

 智絵は心配だった。夢の中で見た唯は言葉を交わせず苦しそうだったから。

「智絵、貴女の病気が収まってきたから今回、唯と会ってみようってなったけど・・・・」

 母さんは言葉を紡ぎながら、私の前に膝をついて見せる。

「もしあなたがパニックを起こしたら、面会はできないわ」

 パニックに意味分かる?と母さんは聞いてきた。わかるよと答えて起こさない自信は無いよと笑って見せた。

 それから、母さんは何も言わなかった。

母さんも緊張しているのだと私はその時、気付いた。しかし、遅かった。今更かける言葉は見つからない。

 唯の部屋に着いた。ガラス張りの部屋に眠る唯は包帯だらけで、包帯は薄ピンク色にところどころ染まっていた。

【全然、元気じゃないじゃない。】

事故後に周りの大人から言われたその言葉を思い出し、怒りがこみ上げる。しかし、悲しみの方が湧き出る量は多かった。

 自分の抱えるダムから溢れた感情は海へと流れてまた膨らんでいく。

―小児科のピンクの壁が見える。

「母さん」

 横でウトウトと吐息を吐く母に「起きて」と声をかける。

「あっ、ごめんなさい。」

女の子の声を出して驚く母をクスクスと笑いながら時間を過ごす。

「母さん私、パニック起こしちゃったの? 」

「ええ、でも大丈夫。唯はしばらく起きないけど、いつか元気になって智絵がそばに居てあげて? 」

 優しく母さんは微笑む。

「いつ起きるの、唯。」

 私の質問に母さんは戸惑った。

「わからない」

 わからない。そう言われた瞬間、頭の中は白くそまった。わからない、なんて言われてもわからない。凛は言ったのだ、わからないと・・・・・・唯は起きるといったのに、では私が信頼する凛が嘘をついたのか、そんな事考えたくはない。

「そっか、わからないのね。」

 私は笑った。凛の「唯は目覚める」という言葉を信じたくて、唯が私の前から消えるはずがないと信じて・・・・・・。


 そして、三年がたった。智絵は九歳になり、唯は眠りながらも三回の誕生日を迎え十歳になった。

 日々繰り返される唯の看病。

智絵は苦しくて泣いていた。

 朝起きて、準備を済ませると学校に行き。

唯と凛のいる病院へと向かう。

 なれた道を通る足の進みは重く、それでも地を蹴り進む。途中、冬の寒さに耐えるためホットティーを自動販売機で買い。

病院に着くと迷うことなく階段を上り、四階の病室へと赴く。

「唯、今日も体拭くよ」

 力なく微笑む智絵は病室の棚からスポーツタオルを取り出し40℃に温めた水につける。

冷えた手には少し熱すぎて・・・・

「はっ」

 手をスポーツタオルから離す。雪ように白い肌は薄くピンクになり、しびれを体に与えた。

 智絵は自分の手のひらを眺め、泣きたくなるのを堪えながらタオルに湯をしみこませ、軽く絞った。唯の眠る介護用ベッドを起こし、まだ柔らかい唯の皮膚を傷つけないように拭いた。

 唯の体をふくことだけは智絵が必ずやる。早く会いたいと、話したいと思いを込めて。

智絵はこれを毎日欠かさずに行った。そんな智絵の手は荒れ果て、とてもではないが少女の手とは思えない。

 夏には手に細かな皺が増え、秋には洗剤で手を痛めた。

 時たま唯の隣に座り、今日はこんなことがあったのだと話、音楽を一緒に聴いた。唯には聴こえていないかもしれないと思いながらも、夢の中では聴こえているのではないか、そう思って・・・・・長い時を過ごした。

 そんな日々が過ぎ翌年の、そのまた翌年の唯の誕生日が過ぎても唯は目覚めなかった。

―4年が経ち、唯は14歳になった。智絵は13歳、相変わらず唯は眠ったまま。事故から7年が経ったというのに、どうして目覚めないのか、そんな怒りが日に日に増していく。

こんな自分が嫌でたまらないのに怒りを抑えずにはいられない。

 智絵はそれでも毎日、毎日、唯のもとへと通う。今日は村雨の中、桔梗を手に足を向かわせている智絵は少し楽しげだ。

 というのも、智絵は雨が好きだったのだ。自分は雨が好きなのだ、ということを理解したのは今日、群なって降る雨の下を歩くのがこんなに気持ちいのかと感じた時だった。誰かへの怒りを洗い流してくれる村雨が傘をはじく音が気持ちよくて仕方なかった。

 そんな時に花屋を見かけ、この桔梗を買った。桔梗にしたのは唯に秋を感じてもらいたかったから、決して見舞いの花ではない。

 智絵が見舞いの花を持っていくことは決してなかった。誰かが持ってくることがあっても智絵が持っていくことは決してなかった。小さな智絵は見舞いの花をもらった隣の病人が数日後に病室から消えたのを見ていた。

その人が死んだのか退院したのかは智絵にはどうでもよかった。ただ、花を貰った人は自分の前から居なくなるような、そんな気がしたのだった・・・・・。

 村雨の中を三十分ほど歩いて、いつもの病室へと向かった。途中、買い物帰りの博識そうな男性に会い、手に持つ桔梗について話しながら。

到着して、唯の元へと行くと扉を四度ノックし、誰もいないことを確認しながら中へ入った。

「また、誰もいないのね。」

 一人部屋である病室に誰かいるとき、それは唯に何かあった。もしくは定期的な検査で母さんがいるとき、そして唯が死んだとき。

病室に誰かいるときは刹那の間不安に駆られ、 そして安堵する。

「唯、今日のお見上げは桔梗よ。秋の花・・・とても綺麗でしょ。」

 微笑んで眠る唯へと、胸の上に添えた。

「花言葉はね。永遠の愛、誠実、清楚、従順。それでね、西洋ではもう一つの意味があって。The return of a friend is desired .友の帰りを待つ。」

 気付けば智絵は涙を流していた。自分の口からこぼれる言の葉に胸を打たれたのだ。何気なく花屋で選んだ桔梗がこんな意味を込めていたなんて思わなかったし、自分が今、唯に伝えたいことを代わりに行ってくれた気がして・・・・・。

「ごめんなさい。桔梗のことはね、私も今さっきまで知らなかったのだけど…・ここに来るまでの間に博識な人に出会ってね、花の事を教えてもらったの。」

 智絵は唯の手を握り、笑った。

来る日も、来る日も、唯の手を握り、三年後唯は長い眠りから目覚めた。

            

             END

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