妖怪よ、奇妙であれ

@kellymomen

引っ越し蕎麦

どうやら隣の部屋に誰か越してきたらしい。私がそれを知ったのは、嫌な教授の講義が終わって、恋しい我が家に帰ってきた真夜中だった。引越会社の大きなトラックが停まっているのを見たときは正直、驚いた。近くの子供たちからは「あそこに死体あったらしいぞ!」とか噂されているような錆だらけ蜘蛛の巣だらけのマンションに引っ越してこようと思えるとは。下見とかしていないのだろうかと私が不安になる。

えっちらおっちら階段を上りきった私とすれ違うように、芥子色のキャップをかぶるか手にしているお兄さんがぞろぞろと下りていった。やたらスキンヘッドの人が多いのが気になったけれど、それより私はもっと驚く。まさか私と同じ階に住むのか、と。嫌だというわけではない。かわいそうだなぁということしか考えられなかった。このマンションでもっとも蜘蛛が多い階は何故かこの5階だ。大学が始まるまで暇だった私が各階をくるりと巡って調べたのだ、間違いない。しかもここ数週間は特に酷く、物を動かせば蜘蛛、長く歩けば蜘蛛と衝突事故、咳をしても蜘蛛。最初の頃は1匹見るたびに情けない声をあげていた私でも、優しく捕まえてそっと外に逃がしてやるくらいには慣れた。しばらくは新人さんの悲鳴が5階に響き渡るだろう。

そして私はさらに驚いた。私の隣の部屋に表札が付いている。隣の部屋だったのか、と知ったのはこの時だった。表札にはよくわからないひじきのような文字。詳しい人なら読めるのだろうが、私には何秒見つめてもひじきの魚拓にしか見えない。ひじきの魚拓と言うのはおかしいが、他に思いつかない。ひじき拓というのは何だか違う気がするし。野菜拓、海藻拓?

私がうんうん唸りながらトマトの野菜拓は表面なのか断面なのか悩んでいると、カチャカチャと目の前のドアノブが音を立てた。慌てて自分の部屋のドア前に移動し、疲れ切っていて隣に誰か越してきたのも知らないまま帰宅した隣人を演じることに決める。残念ながら私は知らない人とのコミュニケーションをとることが苦手だ。初対面の人に「初めまして、隣に住む伊原です〜よろしければお友達になりませんか?」と言えるほどの度胸も持ち合わせていない。なのでここはひとつ演じることにしよう。演じるといっても本当に今帰ってきたところであるのは間違いないけれど。

そんな私の演技は、隣人の姿を見た瞬間木っ端微塵になったうえにどこかへ吹き飛んだ。

「隣人さんですか? はじめまして」

さも当然のように出てきたのは、大きな肉の塊だった。色は不健康なピンクに近い肌色で、頭はなく、丸々と大きい肉塊には手足が付いている。だぷだぷに余った皮が目立つ、太い手足。もしかすると、大きい腹が顔なのかもしれない。肉塊が一歩足を踏み出せば、ぺちりと生々しい音がした。

その肉塊の姿を表現するのに、私はふさわしい表現を持ち合わせている。想像してほしい、丸々と肥え太った中年男性の胴体を。貧乳に悩む女性もびっくりなほど垂れた胸に、にっこり笑顔のように曲線を描く二段腹。目の前の肉塊はそれに限りなく近かった。背丈は私と同じくらいなので、160cmくらいなのだろう。可愛くて友達も多いタイプの女子大生なら悲鳴をあげ卒倒しそうな光景が目の前にあった。

「……あ、ご、ごめんなさい」

意外と声は高めなのか、とか考えて固まっていた私を見て怯えたと勘違いしたのか、肉塊さんはたふたふと肉を震わせてドアを閉めようとする。垂れ下がった胸肉のしわがしょんぼりした目に見えて、私は慌てて言葉を発する。

「あ、大丈夫、です」

「あ、それならよかったです、はい」

ほっとしたようにお腹のしわが微笑む。そしてそのまま、沈黙が続いた。私としては恐怖もあったがそれよりも肉塊さんにうぶ毛が生えているのかのほうが気になったし、肉塊さんはそんな私の舐めまわすような視線から逃げようにも逃げられないのか、ドアを開けた体勢のままじっとしていた。

うっすらと赤ちゃんのように透明なうぶ毛が生えているのを目視で確認した私が顔を上げると、肉塊さんはびくりと震えた。普通逆じゃないのかと思うけれど、とりあえず声をかける。

「ぬっぺふほふさんですか?」

肉塊さんはまたもフリーズした。解凍しても品質は保たれるのか、なんてくだらないことを考え始めた私に、肉塊さんは我に返って声を大きくした。

「ど、どうしてご存知で!?」

「百科事典で見たことあるんですよ。小さい頃に」

私がそれほど驚かなかった、いや驚いたには驚いたが悲鳴をあげるほどではなかった理由は、見たことがあったからだ。実際にではなく、絵で。

ぬっぺふほふという妖怪を知っているだろうか。人や医者に化けて人を驚かし、また、その肉を食らえば不老不死になれるという肉塊の妖怪。小学校入学記念で百科事典の『ようかい』の項にその姿が載っていたのを、私は覚えていた。ちょうどそれくらいの時に私は食べ物以外のものも口にし始め、病気かと両親に疑われていたので、その頃のことはよく覚えている。ついでに百科事典も千切って食べた記憶はある。表紙はツルツルして飲み込めなかったし、美味しそうだと選んだ『きょうりゅう』の絵は渋くて美味しくなかった。

「そうだったんですか、いやぁ、嬉しいなぁ。私も有名妖怪になれたわけだ」

しわがにっこりと優しい笑顔をつくる。もしかしてこれはしわではなく本当に口なのでは、と思ったが、声を発する時に開かれている様子はない。そもそもどうやって声を出しているのだろう。目もどこにあるかわからないし、前をどうやって見ているかわからない。もしかすると垂れた胸肉の下に目があるのだろうか。そうなるとすごく蒸れそうだ。

「本当によかったです、越してきていきなり問題を起こすわけにもいかないですし、ああよかった」

安心したのかぬっぺさんは微笑みながらしゃべり続ける。正体を知っていたからといって怖くなくなるわけではないのだが、隣人トラブルを回避して嬉しそうなところに水を差すほど私も嫌な女ではない。そういえば私はまだ名乗っていなかった。

「あ、そういえば遅くなりましたが、私は伊原です。大学生です」

「伊原さんですか。改めてよろしくお願いします」

ぬっぺさんに深々と頭を下げられて、私もつられて頭をさげる。そういえば百科事典にはぬっぺふほふの食べ物についても書かれていた。

「そういえば百科事典にはその、死体を食べるって書いてあったんですが」

「あー、大丈夫ですよ」

笑ってそう答えられるが、その大丈夫とはどういう意味なのだろうか。あなたは食べないですよという意味なのか、迷惑はかけませんよという意味なのか。後者だった場合、臭いは迷惑かけられそうだ。

「昔はそういうのも食べていましたけど、我々も変わりますから。今は美味しいものも多いですし、普通の食事をしますよ」

黙り込んだ私を安心させるためなのか、手をばたばたと横に振ってぬっぺさんは話す。普通の食事、ということはカレーなども食べるのだろうか。

「こんな見た目ですけれどステーキだって食べますし、1番好きなのは煮豚ですし! 安心してください!」

「あ、じゃあお店とかにも行くんですか?」

その姿で、と付け足してから相当失礼な質問だったと思ったが、ぬっぺさんは気にしていないみたいだった。ふるふると体全体を横に振り、部屋の中を指差す。

「自炊するんですよ、こう見えても割とユウヨウからは好評でして」

「ユウヨウ」

「ええ、時々家に来てくれるんです、あ! 騒がしくはしないので安心してください!」

やたら安心してと連呼するのは、私に通報されるのを恐れているのだろう。まあそんなことはしないし、したくもない。

「大丈夫ですよ、それよりユウヨウって何ですか?」

「ユウヨウ……ああ、友の妖と書いて、友妖です。そちらの友人と同じ意味ですね!」

ほー、と私が感心してみせれば、ぬっぺさんは途端に不安そうな声で聞いてきた。

「……あの、怖くないんですか?」

「怖いですよ」

「え!?」

私が激しく頷けば、ぬっぺさんは困惑した表情になる。表情といってもしわの形が変わっただけだが。

そりゃあ今だって怖い。例えば目の前に超巨大な恐竜がいて、その名前をティラノサウルスと知っているから怖くないというわけではないだろう。先ほど感じていた恐怖は未だ継続中であるし、死体は食べないと言われてもそれは本当か信用できない。けれどやっぱりこうやって話せているのは。

「私、友達いないんですよ。話の最中でもそこで出た単語から別のこと考え出したりして、会話が続かなくて」

「はぁ」

「でも、ぬっぺさんとは仲良くなれる気がしたので、こうやって話してるんですよ。こんなに知らない人に興味を持ったの初めてだし、ほら、友達になれるかもしれない人は離したくないし。だから多分今後慣れていきますし、通報とかだったりはしませんよ」

言い切ってからなんだか恥ずかしくなって、俯いて視線をつま先に落とす。そういえば今日は蜘蛛を1匹も見かけていない。あの、とぬっぺさんのか細い声がして顔を上げれば、ぬっぺさんが真っ赤になっていた。真夜中の暗さでもわかるくらいに赤くなりなが、ぬっぺさんはもじもじと体を揺らした。

「そ、そんなこと言われたの初めてで……嬉しいです、ありがとうございます」

ぽぽぽと湯気が上がりそうなほどに赤い。茹で豚ならぬ茹でぬっぺにならないか不安になってしまうほどだ。そういえばぬっぺさんの体はたっぷり脂肪があるように見えるが、茹でたらやはりチャーシューのようになるのだろうか。それとも意外にササミのようにパサパサしているのだろうか。

「あ、長い時間こんなに話しちゃってすいません! よければこれ、あの、引っ越し蕎麦です」

一旦部屋に戻ったぬっぺさんがそろりと出してきたのは、白い紙袋だった。受け取る時にぬっぺさんの手に触れたが、ひんやりしっとりとしていて意外に気持ちよく、思わず握手のように掴んでしまった。ヒャ、とびっくりしたぬっぺさんの声が面白く、思わず微笑んでしまう。

「その、長い時間すいません! ありがとうございます!」

「いえいえ、では今後ともよろしくお願いします。蕎麦、えっと、ありがとうございます」

真っ赤っかになったぬっぺさんの視線を受けたまま、自分の部屋に戻る。何故か人間よりも妖怪の方が上手く会話ができたのが不思議でならないが、きっと未知の恐怖で度胸が出たのだろう。

明日は講義もないし、のんびり夜更かししよう。ポイポイと鞄や服を脱ぎ散らかしてからテレビを点けて、夜食に選んだのは先ほどもらった蕎麦。紙袋の中を覗くと、小豆色のいかにも高級そうな箱があった。それに入っていた蕎麦はどうやら良いもののようで、本当に今食べて良いか数分ほど悩む。だかしかし、お腹が空いているので食べたい。圧倒的に食べたい。空腹には勝てず、最終的に食べることにした。

一口すすった瞬間、蕎麦の香りが爆発的に広がった。蕎麦ってこんなに弾力があるものだったか、と自分の中の『そば』フォルダが書き換えられていくのがわかる。適当に麺つゆとお湯を混ぜただけのつゆなのに、一気にお店の商品のように感じる。美味い、美味すぎる。ここの蕎麦を買おうと決め箱の裏を見るが、どこで作られた蕎麦か書いていなかった。もしかしてこれは、ぬっぺさんが作ったのではないか? そういえば、どうしてこんなボロアパートにしたのかも聞くのを忘れた。これは今すぐ確かめねばならないと決意したが、蕎麦が美味すぎて玄関まで行く気力がない。

まあ、明日でいいか。テレビの中で名前も知らない芸人がワハハと笑う。隣に妖怪が引っ越してきた日であろうと、いつものように夜更かしは続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖怪よ、奇妙であれ @kellymomen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ