6
湿気を含んだ風が吹く。海鳥たちが鉛色の空を飛ぶ。
やがて蒼太の声が耳に聞こえた。
「違うんだよ……」
私は息をのんで、その声に耳を傾ける。
「琴音は誤解してる、俺のこと」
それは私の思ってもいなかった言葉で、思わず蒼太の顔を見た。
「和奏のそばにずっといるとか、琴音と彼氏の邪魔するつもりはないとか、俺そんなこと言ってたと思うけど……あれ全部本心じゃないんだ」
蒼太は海の彼方を見つめたまま、私の隣で言う。
「和奏のことは、確かに大事だったよ。今だって、大事だって思ってる。だけど俺にすがりついてくる彼女の気持ちが重すぎて、ほんとうはあの場所から逃げ出したかった。できれば誰かに代わって欲しいって……そんなひどいことを考えてた」
蒼太がため息のような息を漏らす。
「それに琴音のことは……」
一度そこで言葉を切ってから、蒼太は続けて言う。
「駅のロータリーで抱きしめた時も、イルミネーションの中を駆け抜けた時も、最後の夜に指先を握った時も……このままどこかへ連れて行っちゃおうかと思ってた。琴音をあの彼氏から奪ってやりたかった」
私はかすかに震える手を、蒼太から隠すように握りしめた。
「でもそれって、俺の親父がしたことと同じだろ? 琴音を自分のものにするために、俺何するかわからない。きっと親父みたいに、周りの人たちを巻き込んで傷つける。そう思ったら、自分のことがどうしようもなく許せなくなって、それで……」
蒼太がうつむき、消えそうな声でつぶやく。
「もう琴音には……会わない方がいいと思った」
夜明けの浜辺で蒼太は言った。
――許してあげなきゃいけないのかな……あんな親父のこと。
そしてそんなお父さんについて行った蒼太。
だけどこの十年間、もしかしたら蒼太はお父さんのことを許せないまま、苦しんでいたのかもしれない。
誰にも打ち明けることもできずに、うわべだけの笑顔でごまかしていた、十年前の私のように。
「蒼太……」
隣にいる蒼太の手に触れようと、右手を伸ばす。けれど蒼太はそれを振り払う。
「だめだよ」
「どうして?」
「俺は琴音の知ってる俺じゃない。十年前とは違うんだよ。考えてることは嘘ばっかりで汚れてて、そのくせ行動に移せなくて逃げてばかり。こんな俺と付き合ったって、誰も幸せになんてなれない」
「いいよ。私、蒼太に幸せにしてもらおうなんて思ってない」
誰かを待ち続け、すがりつこうとするのはもうやめた。
「蒼太に幸せにしてもらわなくていい。私が蒼太を幸せにしてあげるから」
蒼太がゆっくりと顔をあげる。
どんよりと曇った空の下、私は蒼太の顔を見る。
海の彼方に憧れながらも、小さくて狭い世界の中で、おだやかに暮らしていたあの頃。
桜の木の下で私のことを好きだと言ってくれた蒼太も、校舎の窓からその背中を見つめていただけの私も、今はもういないけれど。
それでもこれから先の十年を、今の蒼太と一緒に過ごせたらいいと思う。
静かに手を伸ばし、もう一度蒼太の手に触れる。蒼太はその手を、今度は振り払おうとはしなかった。
「蒼太……」
つないだ手に、蒼太が力をこめる。何も言わずにただ、手と手を握りあう。
そっと目を閉じると波の音が聞こえた。潮の香りが鼻をかすめ、青く澄んだ空と海の風景がまぶたの裏に浮かぶ。
その日私たちは、お互いの手をつないだまま、いつまでも離そうとはしなかった。
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