5
次の日は今にも雨が降りそうな曇り空だった。
私は泊まらせてもらっている紗香の家を出て、以前住んでいた住宅街を歩いた。
父が亡くなって売りに出したあの家は、今は年老いた夫婦がふたりで暮らしているという。
父と住んでいた頃、荒れ放題だった庭には草花が植えられ、ささやかだけど美しい花が、昨日の雨粒を抱えて咲いていた。
建物も古くはなっていたが、大切に使ってくれているのがわかる。
それを見た私の胸がじんわりと熱くなった。
嫌なことも多かったあの家だけど、家族四人、幸せだった日がなかったわけではない。
幼かった私と和奏。それを優しい目で見守る父と母。柔らかく差し込む日差しの中、笑い声が絶えなかった頃もあったはずだ。
私は家に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。
いつも自転車で駆け抜けた住宅街を抜けると、やがて潮の匂いがかすかに漂い始めた。
学校帰りに通った海沿いの道は、十年前より少しだけ変わっていた。
新しい店が何軒か建ち並び、海を見下ろせる丘の途中に、紗香が言っていた老人ホームができている。
けれど夏休みによく行った広い空き地と堤防は、昔のまま変わっていなかった。
ひとりで歩く私の耳に波の音が聞こえた。海の色はどんよりとした曇り空を映し、少し波を立てながら、どこまでも果てしなく続いている。
父とふたりで暮らしていた頃、私はひとりでよく、この堤防に座っていた。
海の彼方をにらむように見つめて、どうやったらこの町から出ていけるか、ただそれだけを考えていた。
結局父が亡くなるまで、私はこの狭い町から逃れることはできなかったのだけれど。
歩道の向こうから人影が見えた。私は前を向いたまま歩き続ける。
車椅子に乗ったお年寄り、それを押す男の人。
紗香の言った通りだった。
すれ違う寸前に、私に気づいた彼が驚いた表情を見せて足を止める。
「蒼太……」
すれ違いざまにその腕をつかんだ。
「あの堤防で待ってる。蒼太が来るまで」
何か言いたげな彼にそれだけ伝え、そっと手を離し歩き続ける。
後ろは振り向かなかった。鼻をかすめる潮の香りに、どうにかなってしまいそうだった。
堤防に座って海を見る。曇ったままの空からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
私はバッグを開け、中から小さなスノードームを取り出した。
ゆっくりとそれを振ると、ガラスの中で雪がキラキラと舞い落ちるのが見える。
ふたりで顔を寄せ合って、季節外れだねと笑ったあの頃がよみがえる。
「……それ、和奏にあげたやつ?」
後ろを振り向くと、そこに蒼太が立っていた。
東京にいた頃よりも髪が短くなって少し日焼けした蒼太は、校庭を駆け抜けていたあの頃を思い出させる。
「ううん、あれは私が割っちゃって、同じものを和奏が買ってきたの。わざわざ私に突き返すために」
誰にでもなくふっと笑う。
「その労力を他のことに使えばいいのにね。ほんとバカなんだから、あの子」
じっと私を見ていた蒼太が、堤防の上にあがり、私の隣に座った。
蒼太と並んで海を見る。制服を着ていたあの頃のように。
こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
「なんで俺がここにいるってわかった?」
前を向いたまま、右側の耳で蒼太の声を聞く。
「なんとなくだよ……だって蒼太、何も私に教えてくれないんだもの」
蒼太が黙って海を見る。きっと蒼太は見つけて欲しくなかったのだろう。もう二度と私には会わないつもりだったのかもしれない。
「蒼太。私、彼と別れたの」
「え……」
「だから私が蒼太に会いに来てもいいんでしょう?」
蒼太の視線が私に移る。私たちの視線が、今日初めてぶつかった。
「和奏もなんとか元気にやってるよ。始めの頃は泣きわめいて大変だったけど」
海風に流れる私の声を、蒼太が黙って聞いている。
蒼太に頼り切っていた和奏。その支えがなくなって倒れてしまうのかと心配したけれど、今では自分の足で歩き始めている。
結局は、私が手助けなどしなくても。
「蒼太は……和奏のためを思っていなくなったんだよね?」
蒼太が私から視線をそらしてうつむいた。
「和奏と私のためを思って……私たちの前からいなくなったんでしょう?」
私はそう思っていた。私と和奏が分かり合うためには、自分がいないほうがいいと考えたのだろうと。
「だけどね、何も言わないで出て行くなんてひどいよ。私はまだ、蒼太に何も伝えてないのに。だから会いに来たの。帰れって言っても、私蒼太に言いたいこと言うまで帰らないからね」
蒼太がゆっくりと顔を上げる。
「俺に……言いたいことって、何?」
蒼太の顔をじっと見つめる。校庭の隅の桜の木の下で、蒼太が私に言ってくれた言葉を思い出す。
「好きなの。私まだ……蒼太のこと」
振り絞るように伝えた私の声を、蒼太は黙って聞いていた。
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