4
咲田さんに頭を下げて休暇をもらった私は、電車を乗り継ぎ、懐かしい海辺の町へと向かった。
雨に濡れた窓から景色を眺めながら、あの町の思い出を少しずつ思い出し、複雑な気持ちになる。
母と和奏が出て行ったあと。荒れてしまった父。周りの人から浴びせられた、心無い視線と陰口。
悪いのは私じゃない。私じゃない。悪いのは大人たちだ。
泣きたくても泣けなくて、誰かを憎んで、誰かのせいにして生きていた。そうしないと、心が崩れてしまいそうだった。
最後の乗り換えが終わりトンネルを抜けると、やがて窓の外に鈍い色をした海が見えてきた。
昔と変わらない小さな駅で降り、傘を差して長い坂道をのぼる。立ち止まって後ろを振り向くと、学校帰りに毎日見ていた景色が私の目に映った。
「琴音ー! 久しぶり!」
卒業した高校の校舎へ入り、楽器の音のする部屋をのぞいた瞬間、紗香が飛び出してきて私に抱きついた。
「琴音、琴音! 元気だった?」
「う、うん。元気だよ?」
「もー、すっごい心配したんだからねー!」
紗香は私をぎゅうっと抱きしめ、背中をぽんぽんと叩くと、潤んだ目で私を見た。
高校時代の親友である紗香は、卒業後も地元に残り、仕事の合間に吹奏楽部の指導者として学校に来ているそうだ。
この町に行こうと決めた時、一番に浮かんだのは紗香のことだった。けれど紗香とはもう何年も連絡を取っていない。どちらかといえば、私のほうが彼女のことを避けていたから。
恐る恐る連絡をしてみると、紗香はものすごく喜んでくれて、うちに泊まりにおいでよとまで言ってくれた。
「ごめんね、琴音。東京へ行ったあんたのことは、ずっと気になってたんだけど」
誰もいない教室へ入り、懐かしい椅子に腰かけた。部室から、聞き覚えのあるメロディーが流れてくる。
紗香たちと一緒に、何度も何度も練習したコンクールの課題曲だ。
結局あの年、私はコンクールに出ることなく、部活を辞めてしまった。部長という責任を途中で放棄して。
そしてそれは今でも、紗香をはじめとする部員のみんなに、申し訳なかったと思っている。
「こっちから連絡するのもどうかなぁなんて、ついためらっちゃって……」
紗香の声に私は首を横に振った。
「ううん。私こそごめん。ずっと連絡できなくて」
紗香は全部知っていた。私と蒼太の親のことも。蒼太が私の母とこの町を出て行ったことも。残された私と父が町中から噂されていたことも。父が寂しく亡くなったことも。私がひとりで町を出たことも。
紗香は全部知っていて、ずっと私を見守ってくれていた。
「紗香……」
紗香が私の隣で泣いている。私のために泣いてくれている。
「やだ、私はすっごく元気だから。だから泣いたりしないでよ」
「ウソ。琴音の『元気』と『笑顔』は信用できないもん」
泣きながらそう言って、紗香は私を見る。
「大丈夫だよ? 私、本当に元気だから」
私が笑って紗香を見たら、彼女も涙目で笑ってくれた。
「もうっ。連絡くらいしろよ!」
「ごめん」
紗香が私の肩をぽんっと叩く。開け放した窓から湿った風が吹き込み、校庭の向こうに海が見えた。
「で、琴音は、どうしてこの町に来たの?」
「え?」
楽器の音が途切れた時、紗香が私にそう言った。
「まさか私に会うために、わざわざここへ来たわけじゃないよねぇ?」
私は黙って紗香を見る。紗香は意味ありげに私に笑いかける。
「蒼太に会いに来たんでしょ?」
紗香の口から出たその名前に、体が震えた。
「蒼太……やっぱりこの町にいるの?」
「やだ、あんた知らないで来たの? 私はてっきり蒼太に会いに来たんだと……」
紗香はじっと私の顔を見てから、静かに口を開く。
「三か月くらい前だったかなぁ。海沿いの道で蒼太を見かけたの。お年寄りの乗った車いすを押してた。私、蒼太は東京にいると思ってたから、なんでって思わず声かけちゃったの。そしたら、あの辺に新しくできた老人ホームで、住み込みで働いてるって教えてくれた」
私はどんな顔をして紗香の話を聞いていたのだろう。かすかに震える手をもう片方の手でぎゅっと押さえる。
「その時私ね、琴音のことも聞いちゃったんだ。東京で琴音と会ったのって。そしたら蒼太言ってた。琴音とは十年ぶりに偶然会ったけど、もう会わない方がいいと思って、俺が琴音から逃げてきたって」
「蒼太がそんなことを……」
「ねぇ、あんたたち、東京で何かあったの?」
「なにも……」
何もない。まだ私は蒼太に、何も伝えていないから。
「私ね……蒼太に会いに来たの」
紗香が私の顔を見る。
「十年前のような想いはもうしたくない。蒼太に会って、ちゃんと自分の気持ちを伝えたいの」
「……そっか」
私の前で紗香が微笑む。何もかもわかっているような表情で。
「今度こそちゃんと伝えなよ? 今の琴音の気持ち」
今の私の気持ち。そう、それを今の蒼太に伝えたい。
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