雨はしとしとと降り続いていた。

 私は二階へ上がり、蒼太が半年前まで使っていた部屋に入る。

 身の回りの、ほんのわずかなものだけ持って、この部屋を出て行ってしまった蒼太。

 部屋の中は半年経っても、蒼太が使っていた時のままだ。

 私はふと、十年前に蒼太から聞いた話を思い出す。

 小さい頃、雨の音を聞きながら、蒼太はたったひとりでお母さんの帰りを待っていた。

 その話を、海辺の小さな小屋の中で、やっぱり雨の音を聞きながら私は聞いた。

 不安で押しつぶされそうになりながら、不器用に体を寄せ合って。

 あの日、私が誰かにすがりつきたかったように、きっと蒼太も誰かに支えて欲しかったんじゃないかと思う。


「待ってるんだよ、お母さん。蒼太くんが帰ってくるの」

 振り返るとそこに和奏が立っていた。和奏はきっちり髪を一つにまとめ、仕事用に買ったスーツを着ている。

 髪型と服装だけ見れば、彼女は立派な社会人に見える。数か月前の彼女とは別人のようだ。

 事務の仕事の面接に受かった和奏は、その会社でもう二か月働いていた。仕事の内容は簡単なお手伝い程度らしいが、入社してからアルバイトを休んだことはない。

 最近は精神的に安定しているのか、急に泣き出したり、パニックを起こしたりすることもなくなった。

「帰ってくるわけないのにね。蒼太くんはもう、こんな家に」

「そんなことない。もしかしたらまた突然、帰ってくるかもしれないじゃない」

 私の前で、和奏がバカにしたように笑う。

「お姉ちゃん、本当にそう思ってるの? 蒼太くんはもう、私たちには関わりたくないんじゃないの?」

 私は和奏の前で黙り込む。

 雨の音が聞こえる。静かな部屋にはその音しか聞こえない。


「今、お姉ちゃんが使ってるあの部屋だって……」

 和奏の声が耳に響く。

「ここに引っ越してきた時から、ずっと空けてたんだよ、お母さん」

「え?」

「いつかお姉ちゃんがこんなふうに、一緒に暮らすことになるかもしれないからって」

 そんな話、初めて聞いた。

 蒼太が出て行ったと聞いて、和奏がさらに不安定になるのではと思い、一緒に暮らしたいと私は母に申し出た。

 母は私に、あなたがそうしたいならすればいい、とそれだけ言った。

「お母さん、十年前にお姉ちゃんを置いてきたこと、後悔してたんだよ。だからずっと待ってた。お姉ちゃんのことを」

「そんな……」

 母は好き勝手にやっているのだと思っていた。好きな人と一緒になって、私と父のことを捨てて、和奏と蒼太と一緒に。

「お姉ちゃんと蒼太くんと私と。みんな一緒に仲良く暮らせたらいいと思ってたんじゃないの? そんなの無理に決まってるのにね?」

「和奏」

「みんな綺麗ごとばっかり。バカみたい」

 和奏が私を見てふっと笑う。そしてそれ以上何も言わずに、部屋を出て行った。


 雨の音を聞きながら階段を下りる。キッチンへ入ると、母がぼんやりとテーブルに向かって座っていた。

 母の髪にはずいぶん白いものが混じっていた。あらためて見る母の姿に、過ぎてしまった年月を感じる。

「お母さん」

 私はさっき和奏から聞いた言葉を思い出す。

 ――お母さん、十年前にお姉ちゃんを置いてきたこと、後悔してたんだよ。

 顔を上げた母が私を見る。

 母は幸せだったのだろうか? あの町を出てからの十年間。好きな人と一緒になって、幸せに過ごせていたのだろうか。

「蒼太から……連絡あった?」

 私の言葉に母が答える。

「ああ、この前あったわ。元気だから心配しないでって。あいかわらずそれだけ」

 母が深くため息を吐く。

「あの子十年間、文句も言わずに私たちと暮らしてきたけど、言いたいこともあったんでしょうね。私たちのこと恨んでたかもしれないし、和奏のことも無理やり押し付けちゃった感じだったし」

 十年前の夏。あの町を出て行くと決めた蒼太は、お父さんのことを許すと言った。だからお父さんについて行くと。

 だけどこの十年の間、蒼太が何を思って、何を考えていたのか、それは誰にもわからないのだ。


「ごめんね、琴音。あんた昔、蒼太くんと仲良かったんだってね」

 母がそう言って、力なく微笑む。

「お母さんたちがあんたと蒼太くんのことも、引き離しちゃったみたいだね」

「もう……十年も前の話だよ」

 私の声に母がもう一度笑う。

「あの子……蒼太くん。もしかしたらあの町に戻ったのかもしれないわ」

「え?」

「電話の向こうから聞こえたの。波の音が」

「波の音……」

 学校帰り堤防に座って、遠い水平線を眺めた。自転車に乗ってどこまでも、海沿いの道を走った。雨の降り続く浜辺で、ふたりだけで夜を明かした。

 私たちが生まれて、育った町。蒼太はきっとそこにいる。潮の香りが漂う、波の音しか聞こえない何もない町に、きっと蒼太はいる。

「私……行く」

 つぶやいた私の顔を母が見る。

「私、蒼太に会いに行く」

「琴音……」

 声に出したら心が少し軽くなった。

 そうだ。私が行こう。蒼太に会いに。いつまでもただ待っているだけじゃなく。私から駆け寄って、私が蒼太を支えてあげたい。

 私はもうスノードームの中の、どこへも行けない十七歳の少女じゃない。

 どこへでも行けるんだ。私はどこへでも、蒼太に会いに行ける。

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