春、そして再び夏

 校庭の隅にある桜の木からは、花びらがはらはらと舞っていた。

 私はその木の下に立ち、真新しい高校の制服を着た彼の姿を目で追っている。

 クラスの中では目立たないけど、足が速くて、笑顔が優しい男の子。

 私はそんな彼の姿を、こんなふうにいつも追いかけていた。小学生の頃からずっと。

 男友達と歩いている彼が、ふとこちらを振り向く。一瞬だけ目が合って、どちらともなく視線をそらした。

 友達が私を呼んでいる。私は桜の木の下から走り出す。

 春の青空。舞い散る花びら。真新しい制服の群れ。

 私が見る風景の中にいつも彼がいるように、彼の見る風景に私がいればすごく嬉しいのに。

 柔らかな風に吹かれながら、あの頃の私はただそんなことを願っていた。


 ***


 目覚まし時計の音を聞き、ベッドの中で目を開ける。一瞬ここがどこだかわからなくなり、寝返りをうって部屋の中を見回す。

 ああ、そうか。ここは和奏の家。

 目覚まし時計を止めるために伸ばした手が、枕元に置いてある冷たいガラスのドームに当たる。

 住んでいたアパートを引き払い、この家に住むことになってから一ヶ月。

 寒かった冬が過ぎ、季節は春へと変わっていた。


「おはよう」

「ああ、おはよう、琴音」

 一階へ下り、キッチンで背中を向けている母に声をかける。洗面所からはドライヤーの音がする。

「珍しい。和奏、もう起きてるの?」

「そうなのよ。今日はバイトの面接があるんですって。かなり大きい会社の、事務のお手伝いらしいの」

 そう言って、テーブルに朝食を並べる母が、ほんの少し笑顔を浮かべる。

 ここ数ヶ月、部屋に引きこもり続けていた和奏が、外へ出るようになったのはつい最近のこと。

 今まで正社員として働いたことのない、今年二十六になる和奏は、バイトも長続きしたことがない。

 そんな彼女が、自分から面接を受けると言い出した。少しは気持ちが落ち着いてきたのだろうか。

 無事に合格して、今度こそは長続きすると良いのだけれど。


「面接ならスーツ着て行ったほうがいいんじゃないの? お堅い会社なんでしょ?」

 キッチンへやってきた和奏に私が言う。和奏はいつも着ているルーズなカーディガンにロングスカートのままだ。

 二十五にもなって世間知らずな和奏は、きっとこの服装で面接に出かけるつもりだろう。

 和奏はちらりと私を見て、面倒くさそうに言う。

「じゃあ貸してよ」

「いいよ。私もそんなには持ってないけど」

「商店街のお弁当屋さんじゃ、スーツ着る機会なんてないもんねぇ」

 和奏がそう言い捨てて、二階へ上がって行く。

 彼女のこんな嫌味にももう慣れた。というか、腹が立たなくなった。私が少し変わったのだろうか。

「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい。ああ、風がまだ冷たいからコート着て行きなさいよ」

 背中を向けたまま、母が言う。

「わかった」

 私も背中を向けたまま、母に答える。

 一緒に暮らすようになっても、私と母のわだかまりが完全に溶けたわけではない。だけど今はまだ、こんな距離感でちょうど良い。


 精神的に不安定な妹の、少しでもそばにいようと、私はこの家で暮らすことを決めた。そしてその時、私は蒼太のお父さんに十年ぶりに会った。

 母と蒼太のお父さんがあの町を出てから、私は一度も会ったことがなかったから。

 蒼太のお父さんは私の前で深々と頭を下げた。

「琴音ちゃんには、つらい思いをさせてしまった。一度ちゃんと謝りたいと、ずっと思っていた」

 そんな蒼太のお父さんを見ても、一緒に顔を伏せている母を見ても、私は何も感じなかった。

 あんなに憎んでいたふたりだったのに。母たちが出て行ったあとの、父の悔しさも知っていたのに。

 十年という月日は私の気持ちを、自分でも思わぬ方向へ変えていた。


 駅まで歩いて電車に乗り、咲田さんの弁当屋へ通う。あの店までの通勤時間は、かなりかかるようになってしまった。

「交通費も出せないし、通勤も大変だし、辞めたかったら辞めてもらってもいいのよ?」

 咲田さんはそう言ったけれど、私は「もう少しここで働かせてください」と言った。

「交通費はいりません。私このお店が好きだし。咲田さんがよければ、私をもう少しここで使ってください」

「そりゃあ、琴音ちゃんがいてくれたら大助かりだけど」

 私の前で咲田さんがそう言って笑った。


「ちーっす、広岡米店でっす」

 朝の仕込みをしていると、裏口から雄大が入ってきた。

「いつもご苦労様です」

「いえいえ、こちらこそ毎度っす」

 どさりとお米をおろした雄大がそう言って、私たちは顔を見合わせて思わず笑う。

 二か月前に別れた雄大とは、今でもこうやって笑い合える仲だった。

 いや、もしかしたら雄大は、すごく無理してくれているのかもしれないけれど。


 いつまでも待つと言ってくれた雄大に、別れ話を切り出したのは私のほうだった。

「やっぱり行くのか? あいつのところへ」

 そう言った雄大の前で、私は首を横に振る。

「なんで? 決めたんだろ、琴音が。俺に気ぃ使うことねぇよ」

 雄大の声は私を責める調子ではなく、すごくおだやかで優しかった。

「ううん。違うの。私はあの人の所へは行けない」

「行けない?」

 しっかり話さなきゃと思っていたのに、私の声は涙声だったかもしれない。

「もういないの。いなくなっちゃったの、蒼太。もうどこにいるのかわからない……」

 突然蒼太はいなくなった。家族にも私にも行き場所を告げずに。

 あの冬の日、私の指先を握って、「大丈夫だよ」と言ったきり。

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