16
「いらっしゃいませ」
蒼太のいる店にひとりで来た。女性店員の声と共にこちらを向いた蒼太が、驚いた顔をして私の前に駆け寄ってくる。
「な、なんで……」
つぶやくようにそう言ったあと、蒼太は私にカウンターの前の席を勧めた。
「あの、今日はどういったご用件で?」
私は一回深く息を吐いてから、目の前にいる蒼太に頭を下げた。
「すみません。あの部屋、キャンセルさせていただきたいんです」
「え……」
「すみません」
顔を上げると、戸惑った表情をした蒼太が見えた。
「何か、あの部屋に問題でも?」
「いえ、そういうわけではなくて……」
「よろしければ理由を教えていただけませんか?」
私は蒼太の視線を避けるようにうつむいた。
「いろいろあって……引越し自体をやめることにしました」
「どうして……」
蒼太の声を聞きながら、もう一度私は頭を下げる。
「本当にごめんなさい」
そんな私のことを黙って見ていた蒼太が、そばにあったメモ用紙に何かを書いた。
「わかりました。残念ですけど、また機会があったらお願いします」
そして私の手に、さりげなくそのメモを握らせて言う。
「どうもありがとうございました」
立ち上がった蒼太に見送られるように外へ出る。
店の前で手の中のメモを開くと、懐かしい蒼太の字でこう書いてあった。
――もうすぐ仕事終わるから、裏の駐車場で待ってて。
店の裏の駐車場には、店名が入った社用車の他に、何台かの車が停めてある。その中に、私も一度だけ乗ったことのある蒼太の車も停まっていた。
車通勤してるんだ。薄暗くなった中、ぽつんとひとりで立ちながら、そんなことを思う。
走ってくるからいい、と言って、自転車通学さえしていなかった蒼太のことをなんとなく思い出した。
「琴音!」
名前を呼ばれて振り返る。そこには急いで職場から飛び出してきたような蒼太がいた。
「さっきの話」
蒼太が白い息を吐き出しながら、私の前に立って言う。
「どういうこと?」
「どういうことって……お店で言った通りだよ。私たち引越しするのやめたの」
「なんで!」
少し怒ったような蒼太の声。
「彼氏と何かあったの?」
「別に何もないよ」
「俺と会ったから……とかじゃないのか?」
私は黙って蒼太を見る。暗闇の中で見る蒼太の顔はなんだか苦しそうだ。
「俺と会ったせいで、彼氏とうまくいかなくなったから、じゃないのか?」
「違うよ。蒼太に会わなくても……いつか私たちはこうなったと思う」
蒼太がじっと私を見ている。
「私が悪いんだ。中途半端な気持ちのまま、ずっとあの人と付き合っていたから。でもこのままじゃダメだって思って……」
顔を上げて蒼太を見る。あの夏、最後に見た蒼太の顔を思い出す。
町を出て行くと言った蒼太のことを、信じることができなくて、それを言えなかった。
私に背中を向けて去って行く蒼太を、追いかけることができなかった。
好きだったのに――誰よりも、好きだったのに。
「蒼太、私……」
言いかけた瞬間、私を呼ぶ声が聞こえた。
「お姉ちゃん?」
振り向くと薄闇の中、駐車場へ向かって歩いて来る、和奏の姿が見えた。
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