12
思ったよりも風邪をこじらせてしまった私は、三日後にやっと職場へ復帰した。
「もうね、雄大くんが心配して心配して大変だったのよぉ」
「おばちゃん、そんなことないって」
咲田さんと雄大の会話を聞きながら、病み上がりの心があたたかくなる。
「とにかく良くなってよかったわ」
「ご迷惑おかけして、すみませんでした。また今日から頑張ります」
「いや、頑張らなくていいの、琴音ちゃんは。あなたすぐ頑張りすぎるから」
咲田さんがそう言って笑う。
そんなことないのに。私にはこのくらいしか、できないだけ。そしてこのくらいでは足りないほど、咲田さんにはお世話になっているのだ。
「琴音」
咲田さんが調理場へ向かうと、弁当の入った袋を持った雄大が言った。
「今夜、会えない?」
私は黙って雄大を見る。
「この前の話の続き。ちゃんとしたい」
「うん」
「仕事が終わる頃、迎えに来るよ」
雄大がいつものように笑いかけ、背中を向ける。私はそんな雄大の姿が、見えなくなるまで見送った。
仕事を終えて、咲田さんに挨拶して外へ出る。頬に当たる北風が冷たい。
薄闇の中、雄大の姿を探してみたが見当たらず、まだ来ていないのかと思った瞬間、私のスマートフォンに着信が入った。
「ごめん! やっぱり今日行けなくなった。急に人と会うことになっちゃって」
「また会合?」
スマホを耳に当てながら、マフラーを巻く。商店街にはクリスマスのイルミネーションが飾られていた。
「ああ、まぁ、そんなとこ。明日また連絡するから」
「うん」
「悪いな」
雄大が慌ただしく電話を切って、私は小さく息を吐く。どこかでほっとしているのだ、私は。
手袋をつけて自転車をこいだ。冷たい風を切って住宅街の中を走る。
私がこの町に来てから五年間、毎日のように通った道。雄大とあの部屋に住むことになったら、もうこの道を通ることはなくなる。
――一緒に暮らすんだろ? この部屋で。
そうだ。私は雄大と暮らす。今さら蒼太に会ったからといって、何も迷うことはない。
揺れ動く心を振り払おうと、強くペダルを踏み込む。
けれどアパートの前に着いた時、そこにいる人影に私は息をのんだ。
「蒼太?」
自転車のブレーキ音と私の声に、植え込みの淵に座り込んでいた蒼太が顔を上げる。街灯の薄暗い灯りに照らされて、蒼太の顔は青白く見えた。
どうして蒼太がここに?
蒼太は立ち上がると、戸惑う私の前に近づいてきて言った。
「ごめん。ちょっと、話したいことがあって」
「え……」
「もう具合はいいの?」
「あ、うん。大丈夫。この前は送ってくれてありがとう」
私の言葉に、蒼太がほんの少し口元をゆるませる。
「どこかあったかいところ行かない? コーヒーでもおごるから」
蒼太の吐く息が白い。いつからここで待っていたのだろう。
私はそんな蒼太の前で、ただ小さくうなずいていた。
蒼太のあとについて、今来た道を戻る。
蒼太は車で来ていなかった。電車に乗って、駅から歩いて、私のアパートまで来たのだろう。私と話をするために。
少し後ろから蒼太の姿を見つめる。変わってないな、と思った。制服はもう着ていないけど、あの小さな町で、並んで歩いた蒼太の姿と。
「琴音」
黙って歩き続けていた蒼太が、前を見たままつぶやく。駅前の商店街の近くまで、私たちは来ていた。
「後ろ、振り向かないで聞いて」
「え?」
「和奏がつけてきてる」
「うそ……」
思わず振り返りそうになって、あわてて動きを止める。
「なんでそんなこと……」
不気味さと同時に怒りが沸いてきた。
「私、和奏にやめてって言う」
「いいよ、言わなくて」
「どうして?」
蒼太は考え込むように前を見たまま、つぶやいた。
「そこの角曲がったら走ろう。全速力で」
「え……」
少し先を歩く蒼太が、商店の角を曲がる。私もその後をついて行く。
すると蒼太が私の手をとり耳元で言った。
「走れ」
「ええっ……」
蒼太に引っ張られるように走り出す。
夜の街を、人ごみの間を、クリスマスのイルミネーションの中を。
飛ぶように過ぎていく景色。耳に聞こえるクリスマスソング。握られた手の強さとあたたかさ。頬に当たるつめたい風。
――蒼太。
心の中でその名前を呼ぶ。何度も、何度も。
そして私は目の前の背中を見つめながら、真夏の空の下で誰よりも速く走っていた、蒼太の姿を思い浮かべていた。
「はぁっ……もう無理ぃ」
息を切らして立ち止まり、情けない声を上げる。
一体どれくらい走っただろう。そんなに遠くへは来ていないけど、ビルや商店の間をすり抜けるように、ぐるぐるとあちこちを走り回った気がする。
こんなに全速力で走ったのなんて、何年ぶりか。
「ここまで来れば、大丈夫だろ」
蒼太も私と同じように、息を切らしながら言う。
「なんだか……ドラマみたい……」
私の言葉に蒼太が静かに笑う。ああ、そうだ。こんなふうに笑う人だった。
教室の中でも、校庭でも、友達と笑っている蒼太の姿を、私はいつも見ていた。
「陸上選手にはついていけないよ」
「俺だってこんなに走ったの久しぶり。もう昔みたいには走れないよ」
目の前に立つ蒼太を見る。私に笑いかけていた蒼太が、まだつないでいた手に気づき、それをさりげなく離した。
蒼太の手のぬくもりが、消えていく。私たちはもう、隣にいられるだけで幸せだと思えた、高校生ではないのだ。
「どこか店に入って話そうか」
「……うん」
蒼太が背中を向けて歩き出す。私たちの間にはまた、微妙な距離が生まれた。
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