10

「琴音……」

 私の名前を呼ぶ懐かしい声。額に触れる、あたたかくて優しい手。

 その手は幼かった和奏のベッドに寄り添って、一晩中彼女の額を撫でていた。それを部屋の外から、私はずっと見つめていた。

 お母さん、お母さん。私のことも見て? 私もここにいるんだよ?

 私はこの手の感触を、ずっと前から欲しがっていたのかもしれない。

「琴音……ごめんね」

 朦朧とする意識の中で、私は確かにその言葉を聞いた。


 目を開けると母の顔が見えた。

 お母さん……年取ったなぁ。無理もないか。あれから十年も経っているんだもの。

「琴音」

 母が額に張り付いた私の前髪をそっとかき上げる。

「覚えてる? あなた倒れたのよ。うちの前で」

 ああ、そうだったんだ。頭を打ったのだろうか? 少し痛い。

「こんなに熱があるのに無理して。水分取った方がいいわね。何か飲める?」

 私はベッドに横たわったまま小さくうなずく。

「持ってくるから。ちょっと待ってて」

「お母さん……」

 部屋を出ようとした母が振り返る。

 私は何を言おうとしていたのだろう。十年ぶりに会った、実の母に。

「……ごめんなさい」

「何言ってるの?」

 じっと私を見つめた母が、静かに背中を向ける。

「謝るのはこっちのほうよ」

 母の足音が遠ざかる。もう一度目を閉じたら、私はまた深い眠りについていた。



「気分はどう? お姉ちゃん」

 ベッドの上に起き上がっていた私に和奏が声をかける。

 どうやら私は和奏の家の前で倒れて、和奏のベッドに寝かされていたらしい。

「大丈夫。もう帰らなきゃ」

 布団から出ようとした私を和奏が止める。

「ひとりじゃ無理でしょ」

「大丈夫。ひとりで帰れる」

「蒼太くんに送ってもらえば?」

 顔を上げて和奏を見る。和奏がふっと口元をゆるませる。

「いい。ひとりで帰る」

「無理するとまた倒れるよ? お母さんもそう言って、さっき蒼太くんに連絡してた。きっともうすぐ帰ってくるよ」

 私は首を振って立ち上がる。

「いいの。ひとりで帰るから」

「もう、強情なんだから。こんな時くらい素直になれば?」

 そう言った和奏の声と同時に、家の前に車の停まる音が聞こえた。

「ほら、帰ってきたよ、蒼太くん。お姉ちゃんのために、車飛ばして」

 私はじっと和奏を見つめる。和奏はそんな私に、いつものようにすれた笑顔を見せた。


 玄関を出る私を、母が見送ってくれた。私はそんな母に、振り返ることはできなかった。

 今度いつ会えるのかもわからないのに。

 すると私の背中に、母の声が聞こえた。

「琴音。これ、羽織って行きなさい」

 母が自分の着ていた上着を、私の背中からかけた。

「いらない。大丈夫」

「いいから。着て行きなさい」

 振り向かないまま小さくうなずき、私は玄関のドアを静かに閉めた。


 外はもう暗くなっていた。昼間はあたたかかったはずなのに、気温がぐんと下がり、北風が強く吹き付けている。

 庭を出ると蒼太が車の中で待っていた。

 立ち止まり躊躇う私に、蒼太は中から助手席のドアを開けて言った。

「乗って」

 母の上着を羽織ったまま、私は黙って車に乗り込む。蒼太は何も言わずに、ゆっくりと車を走らせる。

 窓の外を見た私の目に、部屋のカーテンをそっと閉める和奏の影が見えた。


 知らない道を蒼太の車で走る。十年前、蒼太のこぐ自転車に乗って、どこまでも走ったことを思い出す。

「寝ててもいいよ」

 ぼんやりと、フロントガラスの向こうを見つめていた私に蒼太が言う。

「家、だいたいわかるから」

「どうして?」

「和奏が教えてくれた」

 私は静かに運転席に座る蒼太を見る。すると蒼太が前を見たままつぶやいた。

「和奏……あの子、ちょっと変だろ?」

 蒼太の言葉に息をのむ。

「琴音の家も職場も、付き合ってる男がいることも……あの子は全部知ってる。調べてるんだよ、しつこく。それから俺のことも」

「蒼太のことも?」

「時々、あとつけられてるの、気づいてた」

 和奏が私を恨んで、私に執拗なほど執着しているのは知っていたけど。そんなストーカーまがいな行動を、蒼太にまでしていたなんて。

「あの夜、駅のロータリーで俺が琴音にしたことも……和奏は見てたんだろ?」

 赤信号で車が止まった。ほのかな灯りに照らされる蒼太の横顔を、私は黙って見つめる。

 ――プロポーズまでされた人がいるのに、蒼太くんと抱き合ったりしちゃって。それって浮気じゃないの?

 和奏から言われた言葉が頭をよぎる。

 何も口にしないまま、信号が変わった。静かに動き出す車の中、私たちはそれ以上一言も話さなかった。

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