蒼太の運転する車でこの前のアパートへ向かった。車の中で私たちは一言も口をきこうとしなかった。

 雄大が気に入った二階建ての新築アパート。その二階の角部屋に私は蒼太と入る。

 私……何をしているんだろう。

 意味もなくクローゼットの中を覗き込みながら、自分の行動がわからなくなる。

 蒼太が部屋の奥まで入り、ガラス窓を開けた。カララと小さくサッシの音が響き、夕暮れの風が部屋の中へ吹き込む。


「……元気だった?」

 耳に聞こえる蒼太の声。私は背中を向けたまま小さくうなずく。

「……蒼太は?」

「俺も……元気」

 途切れそうな蒼太の声に、私は静かに振り返る。

 部屋の中へ夕日が差し込んできた。窓辺に立つ蒼太の姿がぼんやりとオレンジ色に染まる。

 これは、夢かな……あんなに何度も夢の中で探した蒼太が、いま私の目の前にいる。

 けれど私はすぐに、そんな感傷を振り払った。

 違う。これは現実だ。

 私の頭に、和奏から送られてきた桜色の封筒が浮かぶ。

「和奏たちと……一緒に暮らしてるんでしょ?」

 窓辺の蒼太が、小さく息を吐いたのがわかった。

「うん。一応家族だから」

「あの子、元気みたいね。よく手紙が来る」

「元気だよ、和奏も。最近は寝込むこともほとんどないし」

 『和奏』……蒼太が和奏のことを呼び捨てで呼ぶのを初めて聞いた。

 私に蒼太の知らない十年があったように、蒼太にも私の知らない十年があったのだ。


「琴音は……結婚するの? あの人と」

 蒼太の声が夕焼け色に染まる部屋に響く。

「わからない」

「なんで? いい人そうじゃないか。一緒に暮らすんだろ? この部屋で」

 私はうつむいて黙り込む。涙が出そうになるのはどうしてなのか。

「お父さんのこととか……琴音ひとりで大変だったよな? 和奏が言ってた。お姉ちゃんは私よりもずっとつらい思いしてるから、幸せになって欲しいって」

 和奏が言ったという嘘くさい言葉に、私はふっと息を吐く。そんな私に蒼太がつぶやいた。

「俺も……そう思ってる。琴音には、幸せになって欲しいって」

 蒼太から顔をそむけて目を閉じる。十年前、真夏の太陽の下で最後に見た、蒼太の白いシャツが目に浮かぶ。

 あの日から私たちの運命は変わってしまった。そして私はもう二度と、あの暑い夏の日に戻ることはできないのだ。


「わかったようなこと言わないで」

 口から出たその言葉が、蒼太を傷つけることはわかっていた。

「私があの後、どんな思いをしたかなんて、蒼太にも和奏にもわかるはずがない」

「琴音……」

 蒼太に向きなおして、私は笑顔を作る。

「ごめんね? 最後に蒼太がくれたメモ無視して。でも許せなかったの。あの日会っても、蒼太は私を捨てたでしょ? あんな町に私を残して、自分だけさっさと出て行って。幸せだった? 蒼太は。この十年間、和奏と一緒に……幸せだったんでしょ?」

 蒼太が黙って私を見ている。握りしめた右手が震えているのがわかる。

 そう、もっともっと怒ればいい。私のことを恨んで嫌いになって……私の幸せなんて、もう願ってくれなくていい。

「ありがとう、心配してくれて。でも大丈夫。私もちゃんと幸せだから」

 蒼太に向かって、私は上手く笑えているだろうか。

「私、結婚するから。あの人と」

 そう言った私の前で、蒼太は苦しそうに顔を歪めて、そして静かに視線をそらした。


 本当は全部わかっていた。

 蒼太が私のことを、誰よりも大切に想ってくれていたこと。

 あの時、十代の蒼太が決めた選択は間違っていなかったこと。

 蒼太のことを信じてあげられなかった私が、間違っていたこと。

 蒼太は何も悪くない。悪いのは全部この私なのだ。


 蒼太の運転する車が駅前に停まる。一言もしゃべろうとしない蒼太を残し、私は車のドアを開く。

「送ってくれてありがとう」

 運転席に座る蒼太はハンドルを握りしめたまま、じっと前を見つめている。

 もうあの店に行くのはやめよう。契約や手続きは全部雄大にやってもらって……部屋を借りてしまえば、もう蒼太に会う必要もない。

 蒼太の横顔を最後に見つめた後、私は静かにドアを閉めた。

 あたりはすっかり暗くなり、ビルのネオンが闇に浮かんでいた。駅からあふれてくる人たちとすれ違いながら、私は駅前のロータリーを歩く。

 ふと空を見上げると、折れそうに細い三日月が見えた。

 泣くな。こんなところで泣いたら駄目だ。

 うつむいたら涙がこぼれ落ちそうで、私は無理やり顔を上げる。けれど夜空に浮かぶ三日月は、次第にぼんやりとにじんでいって……。


「えっ」

 突然腕をつかまれた。わけのわからないうちに引き寄せられ、強い力で抱きしめられる。

「そう……た?」

 蒼太が私の体を抱きしめていた。息ができなくなるほど強く。

「俺、ずっと後悔してた」

 私の耳元で蒼太が言う。

「あの町を出る朝、琴音に会えたら謝りたかった。だけどそれもできなくて……琴音を置いて町を出たこと……ずっとずっと後悔してた」

 目を閉じ深く息を吐く。倒れそうになる私の体を、蒼太がさらに強く抱きしめる。

「好きなんだ。今でもまだ……琴音のことが」

 制服を着ていたあの頃、校庭の桜の木の下に立ち、私のことを好きだと言ってくれた蒼太の顔が、もう一度頭の中に浮かんだ。

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