6
「今日仕事終わったら、これ不動産屋に持ってって。俺、商店街の会合で遅くなるから」
お昼に弁当を買いに来た雄大が、私に一枚の紙を手渡しながら言う。
「え?」
「ほら、この前持ってなかったから。身分証のコピー、持って来いって言われてただろ?」
「ゆ、雄大が持って行けばいいじゃない」
「だから俺は今日、大事な会合だから」
「会合たって、どうせ飲み会なんでしょ?」
「ま、ぶっちゃけそうなんだけど」
雄大がそう言って苦笑いをする。米屋の三代目は、何かと人付き合いが忙しいらしい。
「とにかく早く持ってったほうがいいだろ。早く住みたいし」
私は雄大から渡された免許証のコピーをじっと見つめる。
「はいよ、いつものスタミナ弁当! 大盛りにしておいたからね」
「おおっ、おばちゃん、いつもありがと」
奥から出てきた咲田さんが、弁当を袋に入れて雄大に渡した。
「ふたりで部屋借りるんだって?」
「あー、すんません。琴音のアパートの大家って、おばちゃんだったよね?」
「そうだよ。琴音ちゃんが出て行ったら、あの部屋空いちゃうじゃない」
咲田さんがそう言って明るく笑う。
「あ、じゃあ今度、俺の友達紹介するよ? 一人暮らししたいってやついるから」
「それはぜひお願いしたいねぇ。頼むよ? 雄大くん」
「お任せください!」
そう言って胸を叩いた雄大が弁当を持って、私に手を振り商店街を歩いて行く。私はただぼんやりと、そんな雄大の背中を見ていた。
「いい子だねぇ」
私の耳に咲田さんの声が聞こえる。
「雄大くん。あの子のことは小さい頃から知ってるけど、本当にいい子だよ」
「……私もそう思います」
「まぁ、前の結婚は、ちょっと急ぎ過ぎたみたいだけどね」
咲田さんの笑顔を見ながら、私はまた胸が痛んだ。
仕事が終わると私は電車に乗って、二つ先の駅で降りた。早番だったから日暮れにはまだ早く、けれど夕闇がすぐそこまで迫っているのがわかった。
数日前に雄大と一緒に来た店の前で立ち止まる。
蒼太がこんな所で働いているとは思わなかった。住んでいる場所は和奏からの手紙で気づいていたけれど、ここからは少し離れた場所だし。
蒼太は声をかけなかった。私に気づいていたはずなのに声をかけてこなかった。
きっとそれが蒼太の答えなのだろう。そして私も……蒼太とは何ひとつ話さなかった。
小さく一つ息を吐き、私は店のドアを開いた。「いらっしゃいませ」と声をかけてきたのは、この前いた女性店員ではなく、あの蒼太だった。
「身分証のコピーいただきましたから、あとはこの書類にご記入願えますか? ご契約者様のお名前で」
「……はい」
カウンター越しに蒼太がいる。この前数人いた店の中には、今日はパソコンに向かっている年配の男性社員と、蒼太だけしかいなかった。
蒼太に渡されたボールペンで雄大の名前を書く。みっともないほど手が震えているのがわかる。
「ありがとうございます」
書類を受け取った蒼太がそう言った。
「では審査が終わり次第ご連絡しますから。連絡先はご主人のほうでいいですか?」
「えっ」
その言葉に顔を上げたら、私を見ている蒼太と目が合った。
「ご主人、じゃなかったですか?」
「違います。まだ結婚してないですから」
「そう……ですか」
蒼太が持っている書類に視線を落とす。私は居たたまれなくなって立ち上がった。
「では……よろしくお願いします」
そう言って下げた頭を上げても、蒼太はうつむいたままだった。
私は背中を向けて外へ飛び出す。どうしようもなく胸が痛い。
けれどすぐに私は立ち止まった。ゆっくりと振り返ると、明るい店の中が見えた。
「蒼太……」
顔を上げた蒼太が私を見ている。私の記憶が、恐ろしいほどの速さで過去に遡っていく。
――俺、琴音のこと、ずっと好きだったんだ。
桜の木の下。照れながらも、はっきりとした口調で言ってくれた蒼太。
――私も蒼太のこと……好きだから。
そう答えた私。あの頃の私たちの間に、嘘も隠し事も何ひとつなかった。
ただ好きで。大好きで。ずっと一緒にいられればいいと、それだけを願っていた。
「あのっ」
気づくと私はもう一度店の中に入り、カウンターの向こうに立つ蒼太に声をかけていた。
「この前の部屋……」
「え?」
「もう一度見せてくれませんか?」
「……今からですか?」
蒼太の声に私はうなずく。自分の足もとが、かすかに震えていることに気づく。
目の前にいる蒼太の視線が、そんな私の視線と重なった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます