その後のことは記憶が曖昧だ。

 たぶん蒼太の運転する車でアパートを見に行った。雄大と一緒に部屋へ入り「やっぱり新築はいいねぇ」なんて言った気がする。

 そのあと店に戻った雄大が「ここに決めます」と即決して。申込書を記入しながら「足りない書類は後日持って来てください」と蒼太に言われて。

 だけどどうやってこの部屋まで帰ってきたのか思い出せない。

 乗ったはずの電車も、雄大と歩いたはずの道も。

 それなのに目を閉じれば、制服を着ていない蒼太の背中だけが、はっきりとまぶたの裏に浮かぶのだ。

 

「琴音?」

 目を開けると薄闇の中で、私に覆いかぶさる雄大の姿が見えた。

 いつの間に降り始めたのだろう。街灯の灯りに照らされた窓を、雨の雫が流れている。

「どうかした?」

 私は雄大に微笑んで、首を横に振る。

「どうもしないよ?」

 そんな私をじっと見つめ、雄大は口元をゆるませて言う。

「嘘つけ。また泣きそうな顔してるくせに」

 雄大の唇が私の髪に触れる。キスのような吐息を何度も感じながら、私は十年前、和奏に言われた言葉を思い出す。

 ――うそつき。どうしてそんな嘘つくの。

 そう、私は嘘つきだ。ずっとずっと遠い昔から。


 かすかに聞こえる雨の音。

 押し寄せる不安から逃げ出したくて、ぎこちなく身体を寄せ合った遠い日。

 離さないでと何度も心の中で願いながら、彼の手を握りしめた。

 あの日もこんなふうに、雨の音がずっと響いていた。

「ごめんなさい……」

 ついつぶやいた声に、雄大が唇を離して私を見る。

「なんで謝るの?」

 私は最低だ。この人に身体を預けながら、別の人と抱き合った日のことを思い出している。

 視線をそむけた私に、雄大がふっと笑った。

「謝る必要なんてない。琴音が話したくなったら話してくれればいいよ。俺はいつまででも待てるから」

 どうしようもなく切なくなって、こらえていた涙がついにこぼれる。私の頬を流れる雫に、雄大がそっと口づける。

「雄大……」

 こんな気持ちのまま、この人と付き合ってはいけない。

 頭の中ではそう思うのに、そのあたたかい肌にすがるように、私は雄大の身体を必死に抱きしめていた。



「あー、もう、何で起こしてくれなかったんだよ!」

 ばたばたと着替えをしている雄大に上着を差し出す。

 窓から入り込む雨上がりの日差しが、この狭いワンルームを照らしている。

「私も今起きたんだもん。目覚ましかけるの忘れてて」

「お前、仕事は?」

「今日は休み」

 ぺろっと舌を出しておどけて見せたら、雄大が「あーっ」と頭を抱えた。

「ずるいぞ、お前だけ!」

「いいから。早く支度しなよ。またお父さん、じゃなくて社長さんに怒鳴られるよ?」

 上着をはおる雄大の背中を玄関へ向かって押す。


「ああ、でもさ」

 背中を向けて靴を履きながら雄大が言った。

「こういうのも、いいよなぁ」

「え?」

 振り向いた雄大が立ち上がって、私に嬉しそうに笑いかける。

「早く一緒に暮らしたいよな」

「……うん。そうだね」

 雄大の前で笑顔を見せる。そんな私に向かって雄大は自分の唇を指さした。

「ん?」

「え? 何?」

「キスだよ、キス。行ってらっしゃいの」

「バカじゃないの?」

 広げた右手でパチンと雄大の唇を叩く。

「お前なー、もう少し優しくしてくれたっていいだろが?」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 遅刻だよ、遅刻!」

 ふっと笑った雄大が、右手を上げて部屋を出て行く。私はそんな雄大の背中に、笑顔で手を振る。

 静かにドアが閉まると、部屋の中が急に静まり返った。私はゆっくりと手を下ろし、その場に立ち尽くす。

 かすかに残る彼の匂いに、ものすごい罪悪感を感じながら。

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