5
その後のことは記憶が曖昧だ。
たぶん蒼太の運転する車でアパートを見に行った。雄大と一緒に部屋へ入り「やっぱり新築はいいねぇ」なんて言った気がする。
そのあと店に戻った雄大が「ここに決めます」と即決して。申込書を記入しながら「足りない書類は後日持って来てください」と蒼太に言われて。
だけどどうやってこの部屋まで帰ってきたのか思い出せない。
乗ったはずの電車も、雄大と歩いたはずの道も。
それなのに目を閉じれば、制服を着ていない蒼太の背中だけが、はっきりとまぶたの裏に浮かぶのだ。
「琴音?」
目を開けると薄闇の中で、私に覆いかぶさる雄大の姿が見えた。
いつの間に降り始めたのだろう。街灯の灯りに照らされた窓を、雨の雫が流れている。
「どうかした?」
私は雄大に微笑んで、首を横に振る。
「どうもしないよ?」
そんな私をじっと見つめ、雄大は口元をゆるませて言う。
「嘘つけ。また泣きそうな顔してるくせに」
雄大の唇が私の髪に触れる。キスのような吐息を何度も感じながら、私は十年前、和奏に言われた言葉を思い出す。
――うそつき。どうしてそんな嘘つくの。
そう、私は嘘つきだ。ずっとずっと遠い昔から。
かすかに聞こえる雨の音。
押し寄せる不安から逃げ出したくて、ぎこちなく身体を寄せ合った遠い日。
離さないでと何度も心の中で願いながら、彼の手を握りしめた。
あの日もこんなふうに、雨の音がずっと響いていた。
「ごめんなさい……」
ついつぶやいた声に、雄大が唇を離して私を見る。
「なんで謝るの?」
私は最低だ。この人に身体を預けながら、別の人と抱き合った日のことを思い出している。
視線をそむけた私に、雄大がふっと笑った。
「謝る必要なんてない。琴音が話したくなったら話してくれればいいよ。俺はいつまででも待てるから」
どうしようもなく切なくなって、こらえていた涙がついにこぼれる。私の頬を流れる雫に、雄大がそっと口づける。
「雄大……」
こんな気持ちのまま、この人と付き合ってはいけない。
頭の中ではそう思うのに、そのあたたかい肌にすがるように、私は雄大の身体を必死に抱きしめていた。
「あー、もう、何で起こしてくれなかったんだよ!」
ばたばたと着替えをしている雄大に上着を差し出す。
窓から入り込む雨上がりの日差しが、この狭いワンルームを照らしている。
「私も今起きたんだもん。目覚ましかけるの忘れてて」
「お前、仕事は?」
「今日は休み」
ぺろっと舌を出しておどけて見せたら、雄大が「あーっ」と頭を抱えた。
「ずるいぞ、お前だけ!」
「いいから。早く支度しなよ。またお父さん、じゃなくて社長さんに怒鳴られるよ?」
上着をはおる雄大の背中を玄関へ向かって押す。
「ああ、でもさ」
背中を向けて靴を履きながら雄大が言った。
「こういうのも、いいよなぁ」
「え?」
振り向いた雄大が立ち上がって、私に嬉しそうに笑いかける。
「早く一緒に暮らしたいよな」
「……うん。そうだね」
雄大の前で笑顔を見せる。そんな私に向かって雄大は自分の唇を指さした。
「ん?」
「え? 何?」
「キスだよ、キス。行ってらっしゃいの」
「バカじゃないの?」
広げた右手でパチンと雄大の唇を叩く。
「お前なー、もう少し優しくしてくれたっていいだろが?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 遅刻だよ、遅刻!」
ふっと笑った雄大が、右手を上げて部屋を出て行く。私はそんな雄大の背中に、笑顔で手を振る。
静かにドアが閉まると、部屋の中が急に静まり返った。私はゆっくりと手を下ろし、その場に立ち尽くす。
かすかに残る彼の匂いに、ものすごい罪悪感を感じながら。
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