「ええっ、お引越し?」

「あ、まだ引っ越し先は決まってないんですけど。すみません、突然で」

 弁当屋が開店する前、いま住んでいるアパートの大家でもある咲田さんに私は告げた。

「もしかしてついにゴールイン? 雄大くんと!」

 ワクワクした顔でそう言う咲田さんに向かって、私は苦笑いをする。

「いえ、違うんです。結婚はまだ先の話で。とりあえず一緒に暮らしてみようかって話になって」

「あら、まぁ、そうなの?」

 咲田さんのテンションが少し下がり、彼女は眉をひそめて私を見た。

「もしかして琴音ちゃん。やっぱり雄大くんがバツイチってこと気にしてるの?」

「それは……」

 咲田さんはバンバンと私の背中を叩いて言った。

「大丈夫よ! 琴音ちゃん! あの子がいい子だってことは私が保証する! なんたって毎日ウチのスタミナ弁当食べてるんだからね!」

 冗談だか本気だかわからない咲田さんの言葉に、私はまた曖昧に笑う。

「まぁ気にするなってほうが無理でしょうけど。でも過去を気にしてたら何もできなくなっちゃうから。ね、琴音ちゃん。そう思わない?」

 咲田さんの声が胸に沁みる。

 私が気にして何もできなくなっているのは、雄大の過去じゃない。それはきっと、私自身の過去。

「とにかく頑張ってよ。おばちゃん、あんたたちのこと、とってもお似合いだと思ってるんだから」

「ありがとうございます」

「結婚式には絶対呼んでよ?」

 咲田さんがにっこりと私に笑いかける。そんな咲田さんの前で、私は心から笑えていただろうか。


 その日、早番で店を上がった私は、やっぱり仕事を早く切り上げた雄大と駅で会い、電車で二つ先の駅にある不動産店へ向かった。

「ネットで見つけたんだけどさ。すっごい良さげな部屋なんだよ。仕事場からは少し離れるけど、広くて安くて綺麗なほうがいいだろ? 不動産屋に電話したら、今日見せてくれるって言うからさ」

 私は雄大の隣でただこくこくとうなずいていた。

 一緒に暮らそうと決めてからの、雄大の行動の早さには驚く。

 雄大は実家暮らしだし、私の住んでいるアパートはワンルームで狭いから、もう少し広い部屋をふたりで借りようという話にはなっていた。

 だけど実際暮らし始めるのはもう少し先かななんて、私は勝手に思っていたのに。

 そんなに私のことが心配なのだろうか。それとももしかしてこの人は、思ったよりもずっと行動力のある、頼りになる男だったりするのだろうか。


 雄大の後について、電車を降りた。

 二つ先のこの駅は、私たちの暮らす最寄駅よりも大きくて栄えている。何度か買い物に来たこともあるし、雄大と映画を観に来たこともある。

 そしてお目当ての店は、そんな駅前のビルの一階にあった。

「中見て気に入ったら決めちゃうぞ?」

「そんな。雄大、気が早すぎだよ。もっといろんな物件見たほうがいいんじゃないの?」

「いや、こういうのは第一印象が肝心なんだ」

 そんなことを言いながら雄大が店に入る。私はそんな雄大の後に続く。「いらっしゃいませ」という、感じの良い女性の声が耳に聞こえた。


「昨日電話した広岡です。今日部屋を見せてもらうことになっていて」

「はい、広岡さまですね。今担当の者が参りますから、おかけになってお待ちください」

 丁寧な女性店員に勧められ、雄大と一緒にカウンターの前に座る。

 私たちはどう見られているのだろうか。新婚夫婦か同棲を始めようとしているカップルか。

 どちらにしろ、新しい部屋での新しい生活に胸を躍らせている、幸せなふたりだと思われるに違いない。

 私は少しだけ心苦しくなる。

「ね、雄大。あの部屋見て。マンションなのに安くない?」

 そんな気持ちをごまかすように、店内に貼られている写真を見て雄大にささやく。

「そんなに安くもないよ。俺の見つけた部屋のほうが絶対いいって」

「すごい自信だね」

「おうよ。俺様の一押し物件だからな」

 おかしそうに笑う雄大の声を聞きながら、私はマンションの室内写真を眺める。

 明るい光の差し込む、広々としたリビング。そこにはいつもあたたかい笑い声が絶えなくて。

 雄大と一緒に暮らすのは悪くない。結婚するのも。

 きっと雄大は私の過去も含めて、全てを受け入れてくれるだろう。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、雄大の前にスーツ姿の男性店員が現れた。

「お待たせしました。昨日お電話いただいた広岡さまですよね」

「ああ、はい。そうです。部屋見せてもらいにきました」

 雄大の声を聞きながら、私はゆっくりとカウンターに顔を向ける。

「あ、わたくし、本日ご案内をさせていただく小野寺と申します」

 店員が雄大に名刺を差し出す。それから視線を動かして、それを私の前で止める。

「あ……」

 一瞬息を詰まらせた店員が、すぐに雄大と同じように、私に名刺を見せた。

「小野寺……蒼太といいます」

 私は黙ってその名刺を見つめる。

 名刺を持った十年ぶりに会う蒼太の手が、私と同じようにかすかに震えていた。

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