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店の片づけをしてアパートへ戻る頃、外は冷たい北風が吹いていた。
そう言えば今日吹く風が「木枯らし一号」になるだろうと、朝の天気予報が伝えていたのを思い出す。
マフラーを首に巻きつけ自転車をこぐ。商店街を抜け下町風の住宅街を少し走ると、私の住む小さなアパートが見えてきた。
父が亡くなったのは五年前だ。私はそれまであの海辺の町で暮らしていた。
母が浮気相手の男と家を出てから、私と父の生活は一変した。
今まで仕事人間だった父が会社を休みがちになり、昼間から酒を飲むようになったのだ。
「お父さん、いつまで会社休むつもり? ちゃんと仕事に行ってよ」
「うるさい。お前なんかに何がわかる!」
酒に酔った父は、荒れると私に手を上げた。それまでの父は家族に無関心ではあっても、そんなことをする人ではなかったのに。
狭い町の中では噂話も絶えなかった。母のことも父のことも、誰もが悪く言っているように聞こえた。
学校にもなんとなく居づらくなり、私は登校する日が少なくなった。
「学校おいでよ、琴音。みんな待ってるんだよ?」
紗香は心配してそう言ってくれたけど、私はぎこちない笑顔を返すだけ。
部活やクラスの友達から、同情の目を向けられるのが、何よりも耐えられなかった。
――みんなお母さんが悪いんだ。
酔って荒れたあと、眠ってしまった父の隣で、粉々に砕けたグラスを片づけながら思った。
家族に関心のないように見えた父。でも父なりに、母のことを愛していたのではないだろうか。
不器用な父はそれを伝えるのが下手で、結局最後まで母に伝えることができず、自暴自棄になってしまった。
そんな父が亡くなったのは、母がいなくなって五年後のことだった。
体調を崩し入院した病院で、父の体にかなり進行した癌が見つかった。そのあとはみるみるうちに体が衰弱していき、父の最期を私はたったひとりで看取った。
今思えば、弱い人だったのだ。私の父は。そして母も。
――琴音は強いから大丈夫よね。
いつか聞いた母の言葉が頭をよぎり、泣くことさえできなかった私。
母にも和奏にも連絡せず、小さくなってしまった父を手の中で抱いた。
その年、私は家を捨て、ひとり海辺の町をあとにした。
アパートの集合ポストをのぞくと、桜色の封筒が目に留まった。
私はそれをぐしゃりと握りつぶし、バッグに押し込み二階への階段を上る。
鍵を開け、ワンルームの部屋の灯りをつけた。しんと静まり返っている部屋に、電灯の音がかすかに響く。
物のない殺風景な部屋。最小限必要な物以外は、全部あの町に捨ててきた。
私はベッドの上に座り、バッグを放った。その中から投げ出されたぐしゃぐしゃの封筒が目に留まり、再びそれを手にしてみる。
差出人の名前は見なくてもわかった。
小野寺和奏――かつて一緒に暮らしていた私の妹は、母の再婚によって姓が変わっていた。
「バカじゃないの」
中身も見ないでもう一度丸め、ゴミ箱の中に投げ捨てる。
どうせくだらないことが書いてあるだけだ。読んだら腹が立つのはわかりきっている。
どうやって住所を調べたのか知らないが、このアパートで暮らすようになって、和奏から定期的に手紙が届いた。
中身はどうでもいい近況報告や、私への嘘くさい慰めの言葉。父が亡くなったことは人づてに聞いたと言う。
そして最後には必ずこう書いてあるのだ。
――心配しないでね。蒼太くんは元気にやってるから。
ベッドの上に倒れこむ。
あの時、母たちの不倫写真をばら撒いたのは、やっぱり和奏だった。問い詰めたわけではないけれど、私にさりげなく気づかせるように、毎回写真が入っていたのと同じ桜色の封筒を送りつけてくる。
もう十年も前のことなのに。いつまで私を苦しめれば気がすむのだろう。
ベッドの上に横になり、何気なく枕元の棚を見る。目覚まし時計と並んで置いてあるのは、十年前のスノードーム。
――だってお姉ちゃんの大事な思い出なんでしょ?
こんなもの捨ててしまえばいいのに。思い出はすべて捨ててきたはずなのに。
十年も前のことを引きずっているのは、私も同じだ。
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