十年後、冬
1
聞こえるはずのない波の音が聞こえてくる。
雨上がりの夜明けの空。私は扉を開けて外へ出る。
鼻につく潮の香り。素足を包むやわらかな砂の感触。どこまでも果てしなく続く広い海。
それは昨日のことのようにはっきりと蘇るのに、あの笑顔だけがどうしても思い出せない。
波打ち際に座る彼の背中。声をかけたいのに声が出ない。
決して振り向いてはくれないその人の笑顔が、私はとても好きだったはずなのに。
***
目を開けると、部屋の中はうっすらと明るかった。夜が明けたのだ。
一晩中続いていた雨音も、今はもう聞こえない。
寝なれないベッドで寝返りを打つと、隣で寝息を立てている男の顔が見えた。
――幸せそうな顔して寝てる……。
起こさないように静かにベッドを降り、細長い窓をほんの少し開く。
吹き込んだ風は冷たく、いつの間にか秋もずいぶん深まったのだと気がつく。
高いビルに囲まれた朝のホテル街。潮の香りも波の音もない無機質な街。
私がこの街で一人暮らしを始めてから、もう五年が経つ。
「琴音?」
ふいに名前を呼ばれて振り向いた。ベッドの中で寝ぼけたような顔をした彼が、私のことを見ている。
「どうかした?」
「別に何も」
そう言って私は彼に微笑みかける。作り笑顔を作るのは昔から得意だ。
そんな私を見て、彼はあきれたように笑う。
「嘘つけ。泣きそうな顔してる」
そしてベッドをポンポンと叩いて私を呼んだ。
「こっちおいで。あっためてやるよ?」
「なにそれ」
ふっと笑って、それでも私は彼の元へ行く。
ベッドの上に座ると、彼が私に毛布をかぶせ、その上から包み込むように抱きしめた。
私の作る嘘の笑顔は、この人には通用しないのだ。
「いらっしゃいませぇ」
東京の外れの街。駅から続く商店街の片隅にある小さな弁当屋。手作りが売りのこの店が私の職場だ。
「すみません。いつものください」
私の前に立つ男が言う。
「はい。スタミナ焼き肉弁当ですね。少々お待ちください」
営業スマイルで私が答えると、ちらりと周りを確認してから、男が私にささやいてきた。
「琴音。昨日はよかった」
私は黙ってレジを打つ。
「できれば今夜はお前の部屋で……」
「五百四十円になります」
苦笑いしながら財布を取り出す彼は、同じ商店街にあるお米屋さんの息子で私の彼氏。
冬でも浅黒い肌と鍛えられた体つきは、何かスポーツでもしていたかのように見えるが、そうではないらしい。
「毎日米運んでるからな。お前みたいな細っこいやつ、簡単に担いでやるよ」
そう言って白い歯を見せて笑う一つ年上の彼とは、付き合ってもう三年になる。
ただ年の割に子どもっぽいところがあって、頼りになるのかならないのか未だによくわからない。
だけど時々するどく私の心を見抜いたりするから、どうにもこの男、侮れないのだ。
私が働き始める前から、雄大はこの店へお米の配達をしていた。
そのうち顔見知りになり、言葉を交わすようになって、やがて雄大は配達以外にも店へ現れるようになった。自分の配達した米で作られた弁当を買いに。
雄大が言うには私を落とすために、毎日せっせと通っていたそうだ。だけど付き合うようになった今でも、彼はほとんど毎日この店へ弁当を買いに来てくれる。
実家暮らしの上、家族経営の店で働いているから、お母さんの作ってくれたお昼を家族揃って食べるのが彼の家の日課。
でも「二十四時間親と一緒で、いい加減息が詰まる」のだそうで、ここで買った弁当を公園でひとり、のんびりと食べるのがいいのだと言う。
「サラダもつけといたから」
「え?」
「私のおごり。野菜もちゃんと取らなきゃダメだよ」
出来上がった弁当にサラダもつけて雄大に渡す。雄大はふっと微笑んで、もう一度私の耳元でささやく。
「昨日の琴音、すっごくかわいかった」
「も、もう、ヘンなこと言うのやめて!」
「ヘンな想像してるのお前だろ?」
雄大がおかしそうに笑って手を振る。私は小さく舌を出してから「ありがとうございましたー」と声を上げる。
「相変わらず仲がいいねぇ。ふたりとも」
奥で揚げ物をしているこの店の女主人、咲田さんが言った。
「そんなことないです」
「いつ結婚するの? おばちゃん早く孫を見たいわぁ」
「孫って……気が早すぎですよ」
私の言葉に咲田さんが笑う。
私はこの咲田さんに、実の母親以上にお世話になっていた。
父を亡くして、ひとり東京へ出てきた私に、誰よりも親切にしてくれた人。
私が住むアパートの大家さんで、私がこの店で働くことを勧めてくれた人。
私は彼女のおかげで、見知らぬ街でたったひとりでも生きてこられた。
店先に立ち、真昼の空を見上げる。ビルに囲まれた狭い空は、どこかくすんで見える。
商店街のざわめきを聞きながら、私はふっと耳をすました。
けれど懐かしい波の音はやっぱり聞こえるはずもなく……私はまた前を向いていつもの仕事を続けた。
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