11

「もうー、三日も部活休んで何してたのよぉ?」

「ごめんね、紗香」

 まばらに響く楽器の音を聞きながら、私は紗香に笑って言った。

「コンクールまで一週間もないのに、部長がいなきゃ話になんないでしょ?」

「コンクールか……」

「そう! コンクール! しっかりしてよ、部長さん!」

 紗香やみんなには悪いけど、正直今は、そんな気持ちではない。

 母は和奏を連れて、家を出て行くと言った。それを父は止めなかった。そして私は母に、一緒に行こうとは、最後まで言われなかった。


「部長ー、呼ばれてますよぉ」

 下級生の声に顔を向ける。部室の入り口を見ると、そこに制服を着た蒼太が立っている。

「なぁにー、蒼太ぁ。今部活中なんですけどー」

 紗香がにやにや笑いながら蒼太に言う。けれど蒼太は硬い表情を変えようとしない。

「ごめん。ちょっと出てもいい?」

「いいけどぉ? あんまりいちゃいちゃしないでよー、部長さん」

 周りの友達がくすくすと笑っている。私はそんな笑い声を背に、蒼太のいる廊下へ走った。


 外は良く晴れていた。強い日差しに一瞬目がくらみそうになる。

 四階の廊下の先にある非常階段で、私は蒼太と向き合った。

「ごめん。部活中に」

「いいけど……何?」

 胸がドキドキしてすごく苦しい。蒼太の口にする言葉を、聞きたいけれど聞きたくない。

「うちの父さん、この町を出て行くことになった」

 ああ……心の中でつぶやいて、深く息を吐く。

「噂が会社にも広まって、仕事にならないって。東京に親戚がいるから、とりあえずはその人にお世話になるって……琴音の、お母さんと一緒に」

 東京……そんな遠くに? 涙が出そうになるのを必死にこらえて、私は蒼太につぶやく。

「……蒼太は?」

 一瞬うつむいて黙り込んだあと、蒼太が私に答えた。

「俺も……一緒に行く」

 汗ばんだ手で、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。真夏の日差しが頭から照りつけ、何かにつかまっていないと倒れてしまいそうだった。


「なんで……」

 ため息と一緒に言葉を吐く。

「なんで行っちゃうの? 私たちは何も変わらないって言ったでしょ? このままずっとこの町で学校に通って、今まで通り暮らせないの?」

「暮らせないよ」

 蒼太の声が苦しそうだ。

「琴音にはお父さんがいるけど、うちには母さんがいないから。俺はまだ、ひとりでは暮らしていけない」

「でも……」

「わかるだろ? この前だってそうだったじゃないか。どんなに遠くに行こうとしたって、結局はどこへも行けなくて……俺たちはまだ、親がいなくちゃ生きていけないんだよ」

「じゃあいいの? 蒼太は。私と離れ離れになってもいいの?」

 わがままを言っているのはわかっていた。これでは駄々をこねている子どもと同じだってことも。


「……琴音は、一緒に行けないの?」

 蒼太の声が耳に響いた。

「和奏ちゃんは行くんだろ? 琴音もお母さんと一緒に行けばいい」

 私は黙って蒼太を見つめる。

 あの親父のことを絶対許さないと言った、蒼太の声を思い出す。

「蒼太は、よく平気だね……」

 言葉に棘があることは気づいていたけど、もう止まらなかった。

「あんなひどい親に、よくついていけるね? 信じられない。私は絶対お母さんとなんか行きたくない!」

「仕方ないだろ! 俺だって行きたくはないけど……じゃあどうすればいいんだよ!」

 遠くから楽器の音が響いてきた。そろそろ全体練習が始まる。

 このまま部室に戻って、何もなかったことにして、トランペットを吹いていられたらいいのに。

 蒼太はグラウンドで走っていて、私は窓から時々それを見て。たまに目が合って。みんなから冷やかされて。

 夕暮れの道を自転車を押しながらふたりで帰って。触れ合うだけのキスをして。照れくさそうに蒼太が笑って。「また明日」って手を振って別れる。

 だけどもう、そんな日常は戻ってこない。泣いても叫んでも、戻ってこない。

 どうして……どうしてこんなことになってしまったのだろう。


「……本当は好きでもないんでしょ?」

 どうにもできない自分自身が悔しくて、私は思ってもいない言葉を口にした。

「本当は蒼太、私のことなんか好きでもないんでしょ? やることだけやって満足したから、もう私なんてどうなってもいいって、そう思ってるんでしょ?」

 蒼太が黙って私を見ている。私はそんな蒼太から視線をはずす。

 じりじりと体中が熱かった。蝉の鳴き声が耳に障る。

「……もういいよ」

 沈黙を破るように、蒼太の震える声が聞こえた。

「もういい」

 蒼太が背中を向けて、私の前から去って行く。

 嘘だよって駆け寄って、その体を抱きしめれば、もう一度やり直すことができたのに。

 離れ離れで暮らしても、何も変わらないよねって、笑って言えたらよかったのに。

 私にはそれがどうしてもできなかった。


 焼けつくような太陽の下、私はその場にしゃがみ込む。

 耳に流れてくるのは、コンクールの課題曲。

 戻らなきゃ。戻ってみんなと一緒に演奏しなくちゃ。

 だけど私はそこから動くことができなくて、止めることのできない涙がぽたぽたと足もとに落ちるのを、他人事のようにいつまでもずっと見つめていた。

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