10
一日ぶりに家へ帰ると、母がダイニングテーブルに向かってぼんやりと座っていた。
「琴音……」
私に気づいた母が顔を上げる。
「どこに行ってたの! 一晩中、連絡もしないで」
私はそれには答えずに、黙ってリビングのほうを見る。昨日の朝、投げ捨てられた置物も割れたガラスも、片づけられることなくそのままになっている。
その状態を見ていたら、またじわじわと怒りが沸いてきた。蒼太にはちゃんと話せと言われたけれど、この母親と話し合うなんて私には無理だ。
「琴音! 返事をしなさい!」
「うるさい!」
母に向かって「うるさい」などと口にしたのは、生まれて初めてだ。自分で自分がもうわからない。
そんな私のことを、母が唇をかみしめ、今にも泣き出しそうな目で見ている。
ずるい。そんな顔をするなんて。泣きたいのはこっちのほうなのに。
「お母さん。知りたかったら教えてあげる」
悔しくて、私は精一杯強がった声で母に言う。
「私、朝までずっと、好きな人と一緒にいたの。お母さんが男の人としてたこと、私もしてたの」
母が顔を赤くして唇を震わせている。私はそんな母の前で、今までで一番出来の悪い作り笑顔を作る。
「お母さんが好きなことしてるから、私も好きなことしてるだけ。何か文句ある?」
「琴音!」
母の声を無視して背中を向ける。ふと蒼太に言われた言葉が頭をよぎる。
――琴音もちゃんとお母さんと話さなきゃ駄目だ。
できない。そんなの。私はやっぱり、母のことを許せない。
あふれそうになる涙をこらえ部屋の中へ駆け込む。するとすぐにドアが開き和奏が入ってきた。
「お姉ちゃん?」
「入ってこないでよ!」
「やだなぁ、何イライラしてるの?」
和奏は勝手に部屋に入り込み、私の姿をあきれたように見る。
「どうしたの、その格好。砂だらけじゃない。海水浴でもしてきたの?」
顔を背けた私に、和奏はすっと手を伸ばす。
「これ、同じもの買ってきたよ」
ちらりと視線を動かすと、和奏の手に、私が買ったものと同じスノードームが乗っていた。
「私がせっかくもらったのに、お姉ちゃん壊しちゃうから。でもこれ、お姉ちゃんに返すよ。私もういらないし」
「だったらなんでわざわざ……」
「だってお姉ちゃんの大事な思い出なんでしょ? 蒼太くんとの。思い出まで壊れたら悲しいもんねぇ」
和奏が意味ありげにそう言って、無理やり私の手を広げ、ガラスのドームを押し付ける。
そして小さく私に笑いかけて言った。
「お母さん、本気であの男の人と、この町出て行くつもりみたい。近所の人にまで噂されて、もうここにはいられないよね」
私は黙って和奏を見つめる。
「私は連れて行ってもらえるけど、お姉ちゃんはもらえないね。ていうか、お姉ちゃん、あのお母さんと一緒に暮らすなんてもう嫌でしょう?」
当たり前だ。不倫した親と一緒になんか暮らしたくない。
「でも蒼太くんはどうするかなぁ」
「え?」
「あの人、蒼太くんのお父さんなんでしょ? お父さんが出て行ったら、蒼太くんも出て行くんじゃないのかなぁ。この町から」
「蒼太は……行かないよ」
私たちはこれからも変わらない――そう言ってくれた蒼太のことを思い出す。
そんな私の前で、ふっと息を吐くように和奏が笑う。
「そうかな? お姉ちゃんはここに残ってお父さんと暮らせばいいけど、蒼太くんにはお母さんがいないでしょ? 他に身寄りもないみたいだし。お父さんとうちのお母さんと私と、一緒に行くんじゃないのかなぁ」
私は和奏の顔を見る。和奏はさらに笑顔を作ってこう言った。
「ごめんね? お姉ちゃん。なんか私、蒼太くんのこと取っちゃったみたいで」
手に持っているドームに力を込める。叫びたい衝動を無理やり抑えて和奏に言う。
「あの写真……」
「写真?」
「あの写真ばら撒いたの、和奏じゃないの?」
「何言ってるの? お姉ちゃん、バカみたい」
おかしそうに笑いながら、和奏が背中を向ける。
「バイバイ、お姉ちゃん。可愛げのない妹がいなくなってせいせいするでしょ? お姉ちゃん本当はずっと、私のことが大嫌いだったんだもんね?」
和奏の声が胸の奥に響く。
「これからも、うわべだけの笑顔作って、いい子ぶって生きればいいよ。お姉ちゃんは」
私の目の前でドアが閉じられ、和奏の姿が消えた。
――お姉ちゃん本当はずっと、私のことが大嫌いだったんだもんね?
ベッドの上にどさっと倒れこんだ。うつぶせになったまま目を開けると、小さなスノードームの中で雪がキラキラと舞っていて、いつの間にか涙があふれていた。
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