9
浜辺に建つ古びた小屋は、意外と雨漏りもせず丈夫にできていた。
中に入って扉を閉めると、幼い頃に遊んだ秘密の隠れ家を思い出し、ちょっとだけワクワクした気分になる。
けれど、それと同じくらい、後ろめたい気持ちもあった。私たちはもう、何も考えずに遊んでいただけの小さな子どもじゃない。
「パン、もう一個買って来ればよかったな」
壁に寄りかかって座り込んだ蒼太が、スポーツドリンクを一口飲んで私に差し出す。
「私は大丈夫。お腹もすいてない」
小さく首を振って、私は蒼太の隣に座る。
かすかな潮の匂いと雨の音がした。肩と肩が触れ合って、それだけで胸が痛くなる。
雨は止む気配がなかった。私たちは寄り添うように座ったまま、しばらく雨の音を聞いていた。
「俺さ……」
突然蒼太が独り言のようにつぶやく。
「こんな雨の日に、ふっと思い出すことがあるんだ」
私はゆっくりと顔を向け、隣に座る蒼太を見る。
「いつもじゃないんだけど、ふとした時に」
「何を?」
「お母さんを、待ってた日のこと」
蒼太の口からお母さんの話を聞くのは小学生以来だ。
蒼太は私に、少し照れくさそうに笑いかけて続ける。
「俺、死んだお母さんの思い出は、ほとんどないんだけど。でもその日のことだけは、なぜだか今でも覚えてる」
私はまだ小さかったはずの蒼太の姿を思い浮かべる。
「俺はたったひとりで家にいて、お母さんが帰ってくるのをずっと待ってた。こんなふうに雨の音を聞きながら」
耳を澄ますと、屋根を叩く雨音が聞こえた。
「それで……お母さんは帰って来たの?」
つぶやく私に、蒼太はもう一度小さく笑う。
「それは覚えてない。ただずっと待ってたことだけ覚えてる」
蒼太の声が雨音に溶けていく。
雨の中、お母さんの帰りを待ち続けていた蒼太。蒼太の中で降り続く雨は、まだ終わっていない。
「蒼太……」
手を伸ばし、すぐ隣にいる蒼太の手を握りしめる。
耳に聞こえる雨の音が、どうしようもない不安をかきたてた。この手を離したらもう二度と、蒼太に会えなくなるような気がした。
蒼太が蒼太のお母さんに、もう二度と会えないように。
「私たち、これからも変わらないよね?」
蒼太の視線が私に移る。しばらく私を見つめたあと、蒼太はつぶやいた。
「変わらないよ……ずっと」
そのまま私たちは見つめ合った。見つめ合いながら、私はすがるように蒼太の手をもっと強く握る。
そんな私の唇に、蒼太の唇が触れた。少し震えている、ひんやりと冷えた冷たい唇。それだけで泣きそうになる。
私は両手を広げ、蒼太を体ごと受け止めた。
言葉だけでは物足りなかった。もっと深く、繋がり合えるものが欲しかった。
「好きなの……私……蒼太のことが」
蒼太は何も言わずに、私の濡れた体を抱きしめる。
触れ合った肌と肌。蒼太の吐く息と私の吐く息が、混じり合ってひとつになる。
けれど、近づけば近づくほど切なくなることがあるなんて、その時私は初めて知ったのだ。
目を開けると雨の音の代わりに波の音が聞こえてきた。
外は薄明るくなっていて、雨が止み、夜が明けたのだと私は気づく。
ぎしりと軋む床から体を起こした。薄いTシャツ一枚を隔てた背中と、動かした下半身に鈍い痛みが走る。
ぼうっとした頭で昨日のことを思い出しながら、小屋の中を見回してみる。
「蒼太?」
抱き合うように眠っていたはずの蒼太の姿が、そこにはなかった。
外へ出ると強い海風に体があおられた。空がうっすらと青みを帯びている。
そして誰もいない広い砂浜に、蒼太がぽつんと座っているのが見えた。
私は裸足のまま、ゆっくりとその背中に近寄る。
「蒼太……」
蒼太は海の先を見つめていた。昨日とは違う、おだやかすぎるほどの海を。
私が黙ってその隣に座ると、蒼太は前を見たまま静かにつぶやいた。
「父さんも……こんな気持ちになったのかな」
「え?」
「こんなふうに俺の母さんと……それから琴音のお母さんを、好きになったのかな」
蒼太が切ない表情で私を見る。私はそんな蒼太の顔をじっと見つめる。
「俺、少しわかった気がする。俺の父さんの気持ちが」
「蒼太……」
「人を好きになる気持ちが」
蒼太のかすれる声が耳に聞こえる。
「許してあげなきゃいけないのかな……あんな親父のこと」
私は首を横に振る。
「私は……私は絶対許せない。私のお母さんのこと」
最後に見た和奏の、勝ち誇ったような顔が頭に浮かぶ。
「琴音……」
「私は帰らない。あんなお母さんのところへ帰りたくない」
「お金もないのに?」
私の隣で蒼太が言った。
「ここでずっと暮らすつもり? そんなの無理だ。ありえないよ」
「だったらもっと遠くに行く。働いてお金稼いで、お母さんに頼らないで生きていく」
「無理だよ」
そう言うと、蒼太はすっと立ち上がった。
「もう帰ろう。俺、ちゃんと親父と話してみるから。だから琴音もちゃんとお母さんと話さなきゃ駄目だ」
私は黙って蒼太を見る。蒼太は私に静かに笑いかけると、背中を向けて歩き出した。
本当はわかっている。どんなに走っても、どんなに自転車をこいでも、私たちはこの狭い町から抜け出すことはできない。
あのスノードームのような、閉じ込められた世界の中で、自分でガラスを割ることもできずに、いつまでも生きていくしかないのだ。
蒼太の隣に駆け寄って、その手にそっと触れてみる。蒼太は前を見つめたまま、私の手を手繰り寄せるようにして握りしめる。
昨日私を抱きしめてくれた、私よりも大きくて、とてもあたたかい大好きな人の手。
だけど私が蒼太と手を繋ぎ合ったのは、その雨上がりの朝が最後だった。
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