5
家へ帰ると部屋の中は薄暗かった。いつも母がいるキッチンにも人影はなく、食事の支度をしている様子もない。
私は誰もいないリビングで立ち止まった。窓辺に置かれた置物や写真たての中に、和奏にあげたスノードームが並んでいる。
「いらないってことね」
ふっと小さく息を吐き、和奏の部屋を見る。その部屋だけは人の気配がした。私はドアをノックして声をかける。
「和奏」
部屋の中には和奏がいた。ベッドの上で体を起こし、本を読んでいる。
「お母さんは?」
私の声に顔を上げた和奏がつぶやいた。
「さあ、デートじゃない?」
「デート? お父さんと?」
和奏がバカにしたように私に笑いかける。
「なわけないでしょ? ほーんとお姉ちゃんは何にも知らないんだから」
「な……」
なんでそんなこと言われなくちゃならないの? ぎゅっと右手を握りしめた私に和奏が続ける。
「お母さんだって女なの。好きだったお父さんに相手にされなくなったら、寂しくて他の男の人を好きになっちゃったりするんじゃないの?」
「何言ってるの? 意味わかんない」
「お姉ちゃん、本当に気づいてなかったの? お父さんとお母さんの関係が、もう冷めちゃってること」
気づいていなかったわけではない。いや、気づかないふりをしていただけ。
家族のことに興味を持たず、ほとんど家にいない父。病弱な妹に付きっきりで、家のことをおろそかにする母。
すれ違いの生活が、ふたりの間に亀裂を生んでいたことは、私だって気づいていた。
「お姉ちゃん、もっと現実に目を向けたほうがいいんじゃない? 蒼太くんとキスして浮かれてないでさ」
「和奏っ、なんでそんなこと……」
「あ、やっぱりしたんだ。ほんとお姉ちゃんって単純」
「いい加減にして!」
思わず声を上げた私の耳に、ドアの向こうから母の声が聞こえた。
「和奏ちゃん? いるの?」
部屋の中をのぞきこんだ母が私を見る。
「あら、琴音もいたの」
「お母さん……どこに行ってたの?」
いつもは着ないようなワンピースを着ている母からは、甘い女の匂いがした。普段香水なんて、つける人じゃないのに。
「ああ、学生時代の友達と、隣町でランチしてきたのよ。遅くなってごめんね。今夕食の支度するから」
母がそう言って背中を向ける。いつも一つに結んでいた髪を下ろし、軽くパーマもかかっている。美容院へも行ったのだろうか。
「お母さん……友達って、誰?」
私の声に母が振り向く。そして私の顔を無表情のままじっと見つめた後、笑顔になってこう答えた。
「友達は友達よ。琴音の知らない人」
母の足音が遠ざかって行く。呆然と立ち尽くす私の後ろで、和奏がくすくすと笑っていた。
*
気づけば一学期が終わっていた。夏休みに入ってからずっと、晴れて暑い日が続いている。
私は変わらず学校へ通い、蒸し暑い部室でトランペットを吹いていた。
もうすぐ夏のコンクールがある。余計なことを考えている暇はない。
そんなことを思いながら何気なく窓の外を見下ろしたら、校庭を駆け抜ける蒼太の姿が見えた。
「部長さーん、なに見てるんですかぁ?」
背中から紗香たちの声が近づいてくる。
「まーた彼氏のこと見てたんでしょう?」
「そんなんじゃないよ」
「いいなぁ、琴音はラブラブで」
「ねぇ、もうキスぐらいした?」
周りに集まってきた女の子たちがキャーキャー騒いでいる。
「してないよ」
「嘘だぁ!」
「さ、そんなことより練習練習。コンクールまであと少ししかないんだよ」
「はぁい」
散らばって行くみんなの姿を見送っていたら、紗香が私の背中に両手をのせて言った。
「よかったね。琴音」
ちらりと紗香の顔を見る。紗香はにこにこ笑っている。
「琴音はずっと、蒼太のこと見てたんだもんね?」
蒼太と同じように、小学校から一緒の紗香は、きっと私のことを私以上にわかっているはず。
「うん」
素直にうなずいた私の背中を、紗香がぎゅうっと抱きしめた。
「こんのぉ! のろけやがって!」
「なによぉ。紗香が言ってきたんでしょう?」
部室でふたりで笑い合う。
きっと私は幸せなんだと、自分自身に言い聞かせながら。
「琴音っ!」
誰もいない堤防の上に腰かけ、ぼんやりと海を眺めていた私に、遠くから声がかかった。
振り返ると、蒼太がこちらに向かって走ってくるのが見える。
夏の日差しの中、蒼太の着ている白い制服のシャツがやけに眩しい。
「ごめん。遅くなって」
「ううん。私もちょっと前に来たとこ」
学校からの坂道を下り海沿いに少し歩くと、立ち入り禁止の広い空き地があった。だらんと垂れたロープを乗り越え、その先にある堤防まで来れば、同じ学校の生徒に会うこともない。
午後の練習がない日は、ここで待ち合わせをして、私は蒼太とふたりでお昼を食べるようになっていた。
私が蒼太の分のお弁当も作って。
「あー、疲れたー。腹減ったー」
私の隣に座ってそんなことをぼやく蒼太は、子どもみたいでなんだかかわいい。
「ご飯、食べる?」
「うん」
どこまでも青く広がる海を見ながら、蒼太と一緒にお昼を食べる。
たったそれだけのことなのに、嫌なことを全部忘れられるってすごい。
お弁当を食べたあとも、ふたりでずっとそこに座っていた。
ぽつりぽつりと会話をして、顔を見合わせて笑い合う。
ずっとこうやっていられたらいい。何も多くは望まないから。ただおだやかに、毎日蒼太と一緒に過ごせたらそれだけでいい。
ふと重なった手と手が絡まり合う。前を向いたまま小さく深呼吸した私に、蒼太がそっとキスをする。
「ずっと一緒にいたい」
私から唇を離した蒼太がそう言って、熱く熱のこもった体を抱きしめる。ぎゅっと強く、苦しいくらいに。
「蒼太……」
名前を呼んだ私の唇をふさぐように、蒼太がもう一度キスをした。
さっきとは違う、深く舌を絡められる激しいキスに、気が遠くなっていく。
「蒼太……蒼太……」
うわ言のようにその名前を繰り返す私を、蒼太は壊れるほどきつく抱きしめた。
それはまるで、何かに怯えているかのように。私たちが離れ離れになることを、予感していたかのように。
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