4
お腹がしくしくと痛む。気分もなんとなく憂鬱だ。生理が近づいているからかもしれない。
「和奏ちゃん、喜んでくれた?」
蒼太の声が耳に聞こえて、ハッと我に返る。顔を向けるとすぐ隣で、私のことを見ている蒼太と目が合った。
「うん。まぁね」
そう答えて、押していた自転車のハンドルをきゅっと握る。
空は夕焼け色だった。海も同じ色に染まっている。それはとても美しい光景のはずなのに、私はどうしてだか切ない気持ちでいっぱいになる。
「ねぇ、蒼太」
「うん?」
「最近、和奏と会った?」
蒼太が不思議そうな顔で私を見ている。
「会ってないよ。だって和奏ちゃん入院してたんだろ?」
「その前とか」
「もうずっと会ってないな。最後に会ったのは……和奏ちゃんが中学に入学した頃だったかなぁ」
「そっか……」
蒼太の答えを耳にしながら、私は何を聞きたかったのだろうと考える。
「和奏ちゃんがどうかした?」
「うん、ちょっとね。あの子、私と蒼太が付き合ってるの知ってたから」
「ふーん、どこかで見られたんじゃない?」
きっとそうだ。こんなに狭い町の中、一緒に歩いている姿をどこかで見られていたって不思議じゃない。
――でも蒼太くんだけは、やめといたほうがいいと思うけどなぁ?
じゃあ、あれはどういう意味? どうして和奏は、あんなことを私に言ったの?
胸の奥がもやもやして、気分が悪くなる。
「俺さ、ちょっと羨ましいんだよな」
そんな私の隣で蒼太が言う。
「琴音には仲のいい妹がいてさ。俺ってひとりっ子だし、父親とふたり暮らしだし」
「ああ……」
そうだったのだ。蒼太にはお母さんがいない。
小学生の頃、いつも授業参観にお父さんが来ている蒼太の家が不思議で、私は遠慮もなく蒼太に聞いたことがある。
「蒼太んち、お母さんいないの?」
「うん。うちのお母さん、死んじゃったから」
顔色も変えず、当たり前のように蒼太は言った。
五歳の時に、突然の事故で亡くなったというお母さんのことを、蒼太はほとんど覚えていないらしい。
「お母さん、また欲しいと思わない?」
それも小学生の時に言った言葉。蒼太は少しだけ考えて私に答えた。
「よく、わかんない」
お母さんのいる生活というものを、蒼太は知らなかったのだ。
「蒼太さ、毎日ご飯とかどうしてるの?」
私のことを羨ましいと言った蒼太に聞く。
「ああ、昔は父さんが早めに会社から帰って作ってくれてたけど、今は自分でなんとかしてる」
「料理するの?」
「たまに。ほとんどコンビニ弁当かスーパーのお惣菜だけどな」
誰もいない家で、たったひとりでお弁当を食べている蒼太を想像して寂しくなった。
「うちもね、和奏に付き添ってお母さんがいない時は、私がご飯作ってるんだ」
「へぇー」
素直に感心したような表情で、蒼太が私を見る。それがなんだか照れくさい。
「今度ご飯作ってあげようか?」
「ほんとに作れるのかなぁ、琴音が」
「あ、信じてないでしょ? 私けっこう料理できるんですけど」
ふたりで顔を見合わせたら、なんだかおかしくなって少し笑った。
いつの間にか坂道を下りきり、私たちは海沿いの道まで来ていた。
堤防に沿って続く道は自転車で走ればあっという間だけど、こうやって蒼太と並んで歩くと、知らなかったことをたくさん知ることができる。
歩く時間によって微妙に変わる海の色。風に乗って流れてくる潮の匂い。
自転車を押しながら歩く私の歩幅に、蒼太が合わせてくれているってこと。
ふたりで並んで歩いていると、さっきまでのもやもやした気持ちがすぅーっと消えていく。
砂浜に打ち寄せた波が、静かに引いていくように。
そして私は思うのだ。
私と蒼太が惹かれ合うのは、同じような想いを抱えているからなんだと。それは誰にも気づかれたくない秘密みたいに、いつも胸の奥底にしまってあるもの。
「誕生日」
夕焼け色の空の下で私はつぶやく。蒼太との別れ道が近づいている。
「なにか欲しいものある?」
蒼太は黙って前を見ている。私はそんな蒼太の横顔をじっと見つめる。
「……に、いたい」
「え?」
よく聞き取れなくて聞き返す。
蒼太は空を見上げて、呼吸を整えるように息を小さく吐いてから、もう一度言った。
「琴音と一緒にいたい」
「え……」
「一日中ずっと……琴音といたい。それだけでいい」
どうしていいかわからずに、自分の足元を見つめる。そんな私の耳に蒼太の声が響いた。
「ダメ……かな?」
「……ダメなんかじゃ、ないよ」
うつむいたままそうつぶやく。波の音がかすかに聞こえる。
「私も……蒼太とずっと一緒にいたい」
どちらともなく立ち止まる。私の家はこの道を左へ曲がらなければならない。蒼太とはいつもここで別れるのだ。
「じゃ、じゃあ」
なんとなく気まずくなって私は苦笑いをした。よく考えたら今、ものすごく恥ずかしいことを言い合った気がする。
止めた自転車を動かそうとハンドルに力をこめる。するとそんな私の前に蒼太の顔が近づいてきて……。
「じゃあ、また明日」
「……うん」
私に背中を向けた蒼太が、いきおいよく走り出す。私はその場に立ち尽くしたまま、オレンジ色に染まる蒼太の背中を見送る。
やがてその背中が見えなくなると、私はそっと自分の唇に指を当ててみた。
私いま――蒼太とキスしたんだ。
一瞬だけ触れ合ったやわらかな感触は、夢ではなく確かな現実。
幸せなはずなのに、なぜか再び私の頭に和奏の言葉がよみがえる。
――お姉ちゃん、きっと傷つくよ?
ハンドルをもう一度握り返し、自転車を押して歩き出す。
忘れようと思えば思うほど、その言葉は私の中で大きく膨らんで、またお腹がしくしくと痛み始めた。
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