十七歳、夏
1
部活が終わって校舎を出る。一年のうちで一番日が長いこの季節、外はまだ明るい。
「じゃあねー、琴音」
「うん、また明日」
昇降口を出て紗香に手を振る。するといたずらっぽく笑った紗香が、何かを思い出したように私に駆け寄ってきた。
「デートの約束した?」
「え?」
「蒼太と」
私が黙っていたら、紗香がバンバンと私の背中を叩いた。
「もうー、まだデートもしてないのぉ?」
「だって、全然そんな雰囲気じゃないし」
陸上部の小野寺蒼太と付き合い始めて一カ月。付き合い始めたと言っても、小学生の頃から知り合いだった私たちに、特別な変化はない。
変わったことと言えば、放課後待ち合わせをして、毎日一緒に帰るようになったことくらいだ。
「しょうがないなぁ、あんたたちはー」
ため息を吐きながら紗香が言う。
「明日!」
「明日?」
「そ、明日の土曜日、どっか行こうって誘いなよ」
「えー」
「えー、じゃないよ。蒼太はそういうの慣れてなさそうだからさ。琴音から誘うしかないでしょ?」
私だって、そんなの慣れてない。
*
蒼太は私が生まれて始めて付き合うことになった男の子だ。
一カ月前の、雨上がりの放課後。いつものように紗香と帰ろうとしたら、突然声をかけられた。
「話があるんだけど」
校庭の隅の桜の木の下で、私の目の前に立った蒼太。
雲の隙間から差し込む西日が、濡れた校舎と蒼太のシャツを、オレンジ色に染めていた。
照れくさそうに、私と目を合わせないようにしながらも、蒼太はハッキリした口調で私に言った。
「俺、琴音のこと、ずっと好きだったんだ」
ずっと好きだった? 私のことを?
体中がのぼせたように熱くなる。
「俺と……付き合ってくれないかな?」
私の前でそう言った蒼太が、ゆっくりと顔を上げた。
短めの黒い髪に制服の白いシャツ。私のよく知っている蒼太のはずなのに、目が合っただけで頭のてっぺんまで熱くなるのがわかる。
「急にそんなこと言われても……」
「……だよな。ごめん」
謝らないでよ。急にそんなこと言われて、驚いただけなんだから。
「い、いいよ」
「え?」
蒼太の声が裏返っていて、なんだかおかしい。でも私の声も相当震えていたと思う。
「いいよ。私も蒼太のこと……好きだから」
小学生の頃からずっと見ていた。
あんまり目立つタイプではないけれど、友達の中でいつもおだやかに笑っていて、陰ですごく努力をしている人。
みんなが帰ったあと、ひとり残って校庭を走っていた蒼太は、運動会や体育祭では誰よりも活躍して、毎年その時期になると急に女の子から注目を浴びる。
去年の体育祭のあとも、ふたりの女の子から告白されて、でもふたりとも断ったって聞いた。
もちろん蒼太はそんなことを自慢げに話す人じゃないから、本人の口から聞いたわけではないけれど。
そして私は思っていた。
きっと蒼太には好きな子がいるんだろうなぁ、なんて、心の中で思っていた。
*
紗香には適当に返事を返して、手を振って別れた。
小走りでひと気のなくなった校庭へ向かうと、いつもの桜の木の下に蒼太がひとりで立っていた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「何かあった?」
「夏のコンクールのことで先生と打ち合わせ。部長と副部長だけ残って」
「大変だな。部長も」
「じゃんけんで負けちゃったからね」
蒼太が私を見て小さく笑う。大声で笑っている蒼太は見たことないけど、こんな控えめな笑顔が私は好きだった。
「帰ろ」
「うん」
自転車置き場へ向かい、私は自分の自転車を押してくる。蒼太はそれを黙って待っている。
蒼太は自転車通学をしていなかった。歩いたらかなりかかるのに「走ってくるからいい」と言う。
だから帰り道はいつも、私は自転車を押しながら、蒼太と並んで歩くのだ。
夕暮れの坂道を、おだやかな風に吹かれて、オレンジ色に染まり始める海を眺めながら。
「明日……なんだけど」
突然蒼太が私の隣で言う。
「琴音、暇?」
「え、ああ、うん。別に暇だけど?」
紗香の言葉を思い出し、なんだか胸がドキドキしてきた。
「もし暇だったら、どこか行かない? ふたりで」
ああ、これが紗香の言っていた『デートの約束』というものなんだろうか?
蒼太からは誘ってもらえないんじゃないかと勝手に思っていたから、これはちょっと不意打ちだった。
「う、うん。いいよ」
そう答えて、ちらりと隣を見る。
私よりも二十センチくらい背の高い蒼太。私の顔を見ないようにしているのか、空をじっと見つめている。
その顔がすごく緊張しているみたいに見えて、蒼太も私と同じなんだと思ったら、隣にいる彼のことがとても愛しく思えた。
「ね、どこ行こうか?」
「琴音の行きたいところでいいよ」
そう言われても行きたいところなんて浮かばない。彼氏のいる子たちはみんな、どこへ出かけているんだろう。だいたい私たちが遊ぶような場所なんてこの町にはない。
「あ、そうだ。私、買い物に行きたい」
「買い物?」
蒼太が私の顔を見た。デートと言えるのかわからないけど、今思いつくのはそのくらいだ。
「妹の誕生日プレゼント、買いに行きたくて」
「
小学生の頃から知り合いだった蒼太。たいして子どもの数も多くない学校だったから、蒼太は私の妹の和奏のこともよく知っていた。
「最近和奏、あんまり調子が良くなくて、ずっと学校休んでるから」
「具合悪いの?」
「うん、まぁ、いつものこと」
三つ年下の和奏は、小さい頃から体が丈夫ではなかったが、精神的にも弱いところがあり、ストレスからよく呼吸困難を起こしたりしていた。
最近も学校を休みがちだから、今年の誕生日プレゼントはちょっと奮発してあげようかな、なんて思っていたところだったのだ。
「隣町に新しくできたショッピングセンターまで行きたいの。電車に乗って。いい、かな?」
隣の蒼太をちらりと見て、今度は私が答えを待つ。
「いいよ。行こうよ。和奏ちゃんの誕生日いつ?」
「日曜日」
「七月生まれかぁ。俺と同じだ」
「えっ、蒼太も誕生日七月なの?」
知らなかった。自分から誕生日なんて言いふらす人じゃないから、気づかなかった。
彼氏の誕生日より、妹の誕生日を優先しているみたいで悪かったかな。
あわてる私の隣で蒼太がふっと笑う。
「俺、三十一日」
「そう、なんだ」
「なんか、くれる?」
顔を上げると私を見ている蒼太と目が合った。
「……いいよ」
蒼太が静かに微笑んで、また空を見上げる。私は前を向いて、自転車を押しながら歩く。
目の前に広がる見慣れた海。ちょっと蒸し暑い風が、私の肩まで伸びた髪をやさしく揺らす。
蒼太はそれ以上しゃべらなかった。だけどそれは嫌ではなかった。無理におしゃべりしなくても、ふたりでこうやって歩くだけで、蒼太とは通じ合っている気がしたから。
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