海のかなた、雨のおわり

水瀬さら

プロローグ

プロローグ

 海が見渡せる丘の上に私たちの高校はあった。

 地方にある海辺の小さな町。小学校は二つ、中学校は一つ。そしてその生徒たちのほとんどが、町に一つあるこの県立高校へ通う。

 激しい受験戦争も経験せず、おだやかな町の雰囲気と同じように、この学校へ通う生徒も教師もどこかのんびりとしていた。

 通学手段はほとんどが自転車。町のどこから通っても、学校へたどり着くには坂道をのぼらなければならない。

 だけどそれが当たり前な私たちは、文句も言わずに毎朝自転車を押しながら、長い坂道をのぼった。

 学校帰りに遊ぶ場所もなく、放課後は部活に打ち込み、友達とのおしゃべりを楽しむ。そんな毎日。

 その頃の私たちはまだ、目の前にある美しくて狭い世界しか知らなかったのだ。


 ***


琴音ことねー、見て見て! 次、蒼太そうたが走るよー」

 吹奏楽部の部室でトランペットを吹いていた私に、友人の紗香さやかが声をかける。紗香は数人の女子生徒と一緒に窓辺に集まり、こっちを向いて手招きをしている。

「ほら、琴音早くー。蒼太走っちゃう」

「ちょっとぉ、いま練習中だよ?」

 トランペットを置き、少し怒った顔を作って窓辺へ向かうと、紗香が強引に背中を押した。

「琴音部長ー、固いこと言わないの! ね、あれ、蒼太でしょ? 声かけちゃえば?」

 紗香の声を聞きながら、ゆっくりと窓の外へ視線を動かす。


 四階にあるこの部屋からは、広い校庭が見下ろせた。そしてその向こうには、果てなく広がる青い海。

 私はここから見る景色が、この学校で一番好きだった。

「琴音、蒼太と付き合ってるってホント?」

「え、そうなの? いつの間に?」

 窓辺から校庭を見下ろしていた、同じ吹奏楽部の女の子たちが言う。

 私が苦笑いでごまかそうとしたら、また紗香にせかされた。

「ほらー、琴音。声かけちゃいなって」

「い、いいよ、そんなの。それよりみんなパートに戻りなよ」

 そう言いながら、ちらりと校庭を見る。野球部とサッカー部が向こう側を半分ずつ、そして手前の校舎近くで陸上部が練習をしていた。


「琴音が呼ばないなら私が呼ぶよ。おーい、蒼太ー!」

「あ、ちょっと、紗香……」

 紗香が両手を高く上げて、それを大げさに振っている。周りの女の子たちがくすくすと笑い出す。

「お、蒼太選手、こっち見ました!」

 紗香のおどけた声を聞きながら、私も校庭を見下ろした。

 青く晴れた空の下、スタートラインに立った蒼太がこちらを見上げ、すぐに照れくさそうに顔をそむける。

「あ、蒼太、照れてる。かわいー」

「琴音の顔見たからだよ」

「違う違う、そんなんじゃないって」

「ねぇ、いつから付き合ってんの?」

 女の子たちの声に混じって、短いホイッスルの音が鳴る。

 窓の外へ視線を戻すと、蒼太が走り出したところだった。


「やっぱ蒼太、速いよねぇ」

「小学校の頃から速かったもんね」

 知ってる。町中の人たちが集まって行われる町民運動会で、蒼太は毎年リレーの選手だった。

 自分よりも年上で体の大きな人たちを、次々と追い抜いていく小学生の蒼太。私はいつもその姿を、遠くから見つめていた。

「ねぇ、琴音。どっちから告白したのよ?」

 女の子たちの声と、ばらばらに響く楽器の音。それを聞きながら、私は蒼太の姿を追いかける。


 誰よりも速く百メートルを走り切った蒼太がこちらを見上げた。

 ふたりの視線が一瞬だけ重なり合い、またすぐに蒼太は背中を向ける。

 夏の始まりの風が吹く。窓辺のカーテンがふわりと揺れる。

 遠くに見える海。長い坂道。埃っぽい校庭。風を切って走る蒼太の姿。

 代わり映えはしないけれど、こんなおだやかな毎日が私は好きだった。

 そしてこんな毎日がずっと続くと、十七歳の私は信じていた。

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