魔王の犬

ねごとや

本編

一番古い匂いの記憶。

生まれてから嗅いだと思われるのは、焦げた匂い。

そして、これもまた初めて耳にした音。

それはいまにして思えば、炎に追われて逃げ惑う人々のせわしない足音と悲鳴、大勢の人間達の体臭がない交ぜになった匂い。

でも、その後に嗅いだのはいまのご主人様の匂いなんだ。

ちょっと煤けた金属の匂い。それはご主人様の体を覆う甲冑の匂い。そして、汗臭い肌の匂い。

ご主人は、まだ生まれて間もない子犬だった僕を抱き上げてじっと見ていたんだ。この時、僕はご主人の顔のあたりまで持ち上げられていたんだけど、そのおかげで自然とご主人の目と視線が合ったんだ。そうすると何だかとても良い匂いをかいだ僕は、思わずご主人の鼻のあたりをぺろぺろと舐めてしまったんだ。

最初、ご主人は怒ったような困ったような顔をしていたのだけれど、すぐにまた元の厳つい顔つきに戻ると、僕を抱いたまま乗ってきた馬にまたがったんだ。

それからのこと。

ご主人様に拾われて数年が経ち、僕は自分で言うのも何だけれど、立派な成犬となっていた。

これは後になって知ったことなのだけれど、僕を拾ったご主人様はとても偉い人でたくさんの人間のリーダーでもあったんだ。だから、ご主人が僕を拾って、自分の犬にするって言った時、ご主人仕えている人間達は揃って反対したらしい。ご主人様が世話するまでもないから、自分たちが引き取るって。

それに、とても失礼な話なんだけど、そんな貧相な犬、ご主人には似合わないとまで言う人間がいたんだ。

でもご主人様は自分で面倒みるって言い張ったんだって。

これって、凄いことらしいよ。

ご主人様が偉い人って言ったけど、僕は犬だからご主人様がどう偉いのかは分らないんだ。でも、いっぱいの人間を従えているリーダーだってことは分る。僕は、リーダーは大好きさ。だって、犬だもの。

そんなご主人様もたまに他の人間から襲われることがあるんだ。

「勇者」とか「英雄」とか言われている連中だ。

こいつら、すごく嫌な匂いがするんだ。

でも、ご主人様はとても強いから、絶対に負けないんだ。

あいつら、いつも死ぬ間際にご主人様のことを「魔王」って言うんだ。

「魔王」って何だろう?とても偉い人間のことを言うのかな?



ご主人はいつもいろいろな人間達に囲まれている。

なかには凄く良い匂いの人間もいるし、そうじゃない悪い匂いの人間もいる。

だけど、ご主人様はどの人間にも、基本分け隔てなく接していた。

これって、僕たち犬には無理なんだよね。

せめて、僕のかいだ匂いをご主人様に伝えられたらいいのに……。

僕がそんなもどかしい思いを抱えて、ご主人様の側にいる時にも、あの勇者とかいう奴らはご主人様を狙ってくる。

全く、あいつら時とか選ばないからな。

特に食事時はカンベンして欲しいんだけどな。

いくら大人しい僕でも怒ってしまうよ。

だから、珍しく思いっきり吠えたてた僕なんだけれど、その僕に向かって、あいつら「おのれ、魔犬め!」とか言うんだ。

魔王の犬だから、魔犬ということだね。

あのいやな匂いのやつらから褒められても、あんまり嬉しくないな。

そのいやな匂いのやつらをやっつけたご主人様は、その夜、僕の頭をなでながら言ったんだ。

「全く、民のためとはいえ、魔王を演じるのも辛いものだ。」

その夜のご主人様は、いつもより疲れているように見えた。ご主人、疲れたら寝るのが一番だよ。

「それに、自分のことを絶対に正しいと思い込んでいる者どもというのは、実にタチが悪くてな……。」

ご主人のこの言葉を聞いた時、僕はあの勇者とかいうやつらから匂ってくるいやな匂いの正体が、少しだけ分ったような気がしたんだ。



ところでご主人様のもとには、いろんな人間が寄ってくる。

ご主人様の仕事の話し相手は人間のオスが多いけれど、時々メスが寄ってくることもある。大抵、年をとったオスが連れてくるんだけれど。

どうも、ご主人様のツガイの相手として連れてくるみたい。

でも、ご主人様は、そのほとんどのメスを相手にはしないんだ。

人間って、大変みたいだね。

僕達犬のオスなら、メスがお尻を向けてくれたなら、手当たり次第にさかるのに。

でも仕方ないかな。

だって、連れてこられたメスは、みんな綺麗に着飾っているし、体も綺麗に手入れされているみたいだったけれども、僕にとってのいい匂いはしなかったもの。

人間は僕達犬と違って、着ている毛皮を変える事が出来るし、僕達みたいに水にぬれるのを嫌がったり、石鹸の匂いを嫌がったりすることがないから、体も小まめに洗えるから、見た目はいくらでも綺麗にすることは出来る。でも、僕がご主人様に感じるいい匂いとか、あの勇者とかいう連中から匂う嫌な匂いと言うのは、そんなことでは誤魔化せないんだ。

ご主人様はもちろん人間だから、僕みたいに匂いを嗅ぎ分けるようなことは出来ないんだろうけど、匂いに代わる何かで人間を見分けていたんだろうね。

ご主人様は、賢いよね。

だって、ご主人様に擦り寄ってきたメスの中には、あの勇者とかいう連中ととてもよく似た匂いのしたのもいたんだもの。

でも、そんなご主人様もついにツガイの相手を見つけたんだ。



人間のオスとメスがツガイになるには、親が誰だとか、縄張りがどこだとか、前のリーダーが誰だったのか、とかいったことが大事らしい。人間って、本当に面倒くさいよね。

で、ご主人様もそういうしがらみというものから逃げられないと言うことで、人間から見ればとびきりのメスが次から次へと送り込まれて、どのメスとツガイになるか急かされていたんだけれど、ご主人は一向にさかる気配がなかったんだ。

それでも、何人ものメスが送り込まれてくる中、ついにご主人様の鼻にかなうメスを見つけたみたい。

これには僕もほっとしたよ。

ご主人様の選んだツガイの相手は、どこかの国の大臣の娘とかで、家柄ってやつ?(これも僕にはよく分らない)もいいらしい。でも、ご主人が選んだのはそういうことが理由ではないみたいというのは、犬の僕にも分る。だって、そのお相手、とっても良い匂いがしたんだ。それに、そのお相手は僕の頭も撫でてくれたんだけれど、その撫で方がとっても気持ちよかったんだ。

そういうことで、ご主人様はそのお相手とツガイになった。

お二人がツガイになったその夜から、ご主人様のお部屋には、僕とご主人様に、そのお相手が加わることになったんだ。

そうそう、ご主人様のツガイのお相手は、奥方様とかお妃様とか人間は言うらしいよ。だから、僕はこれからお相手のことを奥方様と呼ぶことにするね。

奥方様は、犬の僕がいても嫌な顔一つせず、僕に対してもとても優しくしてくれたよ。

いままでご主人様とさかろうとしたメスの中には、あからさまに僕を邪険にするやつもいたのに。

何でも、人間、特にメスから見ると、僕の顔は大層恐ろしいらしい。

でも、奥方様は、初めて僕の顔を見た時

「まぁ、何て面白い顔をしているのかしら。」

って感心していたんだ。

いや、いくら僕が犬だって、それが褒め言葉じゃないことくらい分っているよ。

分っているけれど……でも、いいんだ、うん。



ツガイのお相手が見つかったら、今度は子作りだね。

だって、そうじゃないと、さかる意味がないだろう?

この自然の摂理に従って、ご主人様も間もなくして子供を授かることになった。

でも、人間が子供を産むのって凄く大変なんだね。

僕、びっくりしたよ。

普段はおっとりしている奥方様が、髪を振り乱して苦しがるんだもの。

でも、その甲斐あってか、授かったのは丸々と立派な体格の男の子。

その男の子、おちびさんを目にした時、僕は久しぶりにご主人様が心から笑ってくれるのを見ることが出来たんだ。

おちびさんって、凄いな。

ご主人様、おめでとうございます。

ところで僕の方はどうなんだって?

僕は、この頃には子供は十匹以上は作っていたさ。

そういうことで、ご主人様と僕、そして奥方様に加えておちびさんと、三人と一匹の時間はゆっくりと過ぎて、僕はとてもいい気持ちで過ごしていられたんだ。

ゆっくりとだけど、大きくなっていくおちびさんは、最初の内こそ寝てばかりいたけれども、やがて起き上がり歩くようになると、やたらと僕に抱きつくようになったんだ。

正直、いくらおちびさんの力でも、ぎゅっとされるのはあまりいい気分じゃないけれど、おちびさんが持つご主人様に似た匂いを近くで嗅ぐのは嫌いじゃなかった。その様子を見て、僕の困っている顔を見るのが面白いのか、ご主人様も奥方様もくすくすと小さな笑い声をあげたんだ。

ご主人様が凄いのはもう言うまでもないけれど、このおちびさんもなかなかに凄いね。

でも、こうした楽しい暮らしもそんなには長く続かなかったんだ。



僕達犬は、いつも人間達の言葉に耳を傾けている。

だからといって、人間達の言葉を全て理解しているかというと、そういう訳じゃない。犬だからね。

でも、その場の人間達の醸し出す雰囲気とでもいうのかな。それは僕にとってとても重要な判断材料なんだ。そして、その雰囲気は言葉で作られることが多い。だから、やっぱり言葉というのは、僕達犬にとっても大事なんだよ。

それに何より、犬とご主人様とは特別な関係なんだ。

うまく説明できないけれど、僕達犬は、離れていてもご主人様のことは分るんだ。

もちろん、具体的に何をしているとか、何が起こっているとかいうようなことではないんだけれど……。

そして、ある日。僕はとても嫌な感じを受けたんだ。

それがご主人様に関係することだというのは、考えなくても分った。

その嫌な感じから暫くすると、今度は凄く悲しい気持ち……。

理屈とかじゃない。

僕は、全てを感じ取ったんだ。

だから、僕は凄くしょんぼりしたし、遠吠えもした。

そんな僕を、ご主人様がいなくて寂しがっているのかと勘違いして慰めてくれる奥方様。意味の分らないまま、奥方様を真似るように僕の頭を撫でるおちびちゃん。

僕はその全てが悲しかったんだ。



僕がご主人様の異変を察知してから、二、三日ほどしてからだろうか。

勇者だとか英雄だとか言われている連中にご主人様が殺されたという報が、奥方様に届いた。

奥方様は、泣き崩れたり取り乱すようなことはなく、しっかりとした態度で使者の人間に応じていたよ。

でも、一日が終わり、誰もいなくなった部屋で奥方様は大声で泣き崩れたんだ。

奥方様、立派でしたよ。

大丈夫、ここには僕とおちびさんしかいませんから。



ご主人様が殺されてからというもの、城の中はすっかり慌しくなってしまった。

リーダーが殺されたということで、次のリーダーが誰かということで揉めていたし、一方であの勇者とか名乗る連中が次から次へとご主人様が統治していたところに攻め入ったという報が入ってくる。

あの連中、とうとうこのお城の近くまで攻め入ってきているみたい。

だって、風の強い日なんか、あの嫌な匂いがこの城にまで届くくらいなんだから。

そして、初めてその匂いを嗅いだ日からというもの、お城の中の喧騒はさらに激しさを増し、気がついたら周りをあいつらの仲間に取り囲まれていたんだ。



ご主人様はたくさんの人間を従えるリーダーだったのは言うまでもない。

だから、この城にいるのはご主人様の子分ばかりだ。

その子分たちの中にも色々いて、いい匂いの子分もいれば、悪い匂いの子分もいる。

ある日、いい匂いの子分が来て、奥方様となにやらひっそりと相談しあっていたんだ。

その相談していた内容は、その日の夜のうちに分かったんだけれど、奥方様とおちびさんをお城の外に逃がそうというお話だったんだ。

最初、奥方様はおちびさんだけは逃がして、自分は残る積もりだったみたいだけれど、いい匂いの子分に諭されて一緒に脱出する気になったみたい。奥方様、その判断は正しいですよ。人間の成長は僕達犬に比べれば、実にゆっくりしています。僕達犬なら、おちびちゃんくらいの歳にはとっくに母犬のもとを離れているけれど、おちびちゃんにそれを期待するのは無理がありすぎです。それに、おちびちゃん、まだ一人で狩りも出来ないんですから。

僕?僕は勿論、奥方様達と一緒に行くさ。

ご主人様をお守りすることは出来なかったけれど、せめて奥方様とおちびちゃんは守ってあげたいじゃないか。

いよいよ城から脱出という段になり、僕が決意も新たにしていると、突然別室から奥方様の悲鳴が聞こえてきた。

何ごとかと、飛び込んでみるとそこにはうずくまった奥方様とおつきの女中。そして、焦げ臭い匂い。

「奥方様、何てことを!ご自分で手を焼かれるなんて……。」

「だって……。」奥方様はとても痛くて苦しいはずなのに、笑顔で女中に応じていた。「わたし、商人の女房ということにして国境を抜けるのでしょう?これくらいしないと……。」

「確かにそのような手はずになっていましたが、だからといってどうしてわざわざお手をやけどまでしなければならないのです?」

「だって、手に皺も豆もない女房なんて変じゃない?あの人や皆が良くしてくれたおかげで、わたしの手はひびわれひとつない。でも、それだと却って不自然よ。いまさら、豆やひび割れなんてつくれないし……だけど、やけどしたということにすれば……。」

「そういうことなら、あらかじめご相談いただければ……。」

 おつきの女中の言葉に奥方様は首を横に振る。

「あらかじめ細工して、それが相手に漏れたら意味がないでしょう?こういうことは直前にしないと。」

女中が息を呑み、呆然とするのもお構いなしに、奥方様は立ち上がり

「ねえ、こんな勝手なことして申し訳ないのだけれど、簡単な手当てだけしてくれないかしら?あまり大仰にすると、却って怪しまれるから。」

奥方様は、とても痛くて苦しいはずなのに、その立ち姿には微塵の揺らぎもなかった。

ご主人様、奥方様はひょっとしたら、ご主人様よりも凄い人なのかもしれません。



僕達の乗った馬車には、僕とおちびさん、そして奥方様だけ。

馬車は奥方様自らが鞭を手綱を握られている。

火傷した手でお辛いだろうに、奥方様は愚痴ひとつ言わなかった。

本当は、おつきの人間なりがつくべきなんだろうけれど、奥方様はそうした申し出を全てお断りになったんだ。

「何かあったら、私と一緒にいる方にまで累が及びましょう。ならば、私だけで……。皆々様は、それぞれ頃合を見計らってお逃げくださいませ。本日まで、本当にありがとうございました。私もあの人も、とても幸せでありました。」

戦そのものは、もう負け戦が決定的なのは誰の目にも明らかだったと思う。あとは手を引く頃合をどう見計るか?奥方様は、そうしたことも見抜かれていたようだ。

限られた人間相手だけだったとはいえ、別れの挨拶を済ませた奥方様と僕達は、そのまま夜の闇にまぎれて国境へ。

途中、予想していたことだったんだろうけれども、馬車は国境を警備する勇者とかいう連中の仲間の軍隊に行く手を塞がれた。

警備兵の連中は、無遠慮に馬車の中を覗き込み

「何だ、ガキと犬しかいねえのか。」

なんて言っている。

「うへえ、不細工な犬だなぁ。」

何だかとっても失礼な声も聞こえる。

全く、失礼なやつらだ。

僕は憤慨したけれども、横でおちびさんが何だか怖そうにしていたので、この時まではぐっと我慢していたんだ。僕が何か騒ぎを起こしたら、奥方様の身が危ないからね。でも、馬車の外から聞こえるこのだみ声は僕をさらに苛立たせる。

「姐さん、あんなガキがいるとは思えねえな。亭主はどうした?」

「亭主は、一足先に田舎の方に行って、私どもを待っております。何しろ、戦と言うことで慌てて出てきたものですから。それに私のこの手、手の治療がありましたので、このように遅れた次第です。」

「ふ~ん……。」

気のない返事をしながらも、男の息づかい一つ一つに下心が見え隠れしていた。

「なぁ、姐さん。姐さんほどの器量よしなら、田舎で商売なんかしなくても、良い稼ぎが出来るぜ。何なら、この場で俺が……。」

「お戯れはおよし下さい。」

僕の身体は自然に立ち上がり、自分でも気がつかない間にキバを剥き出しにしていた。

こいつ、奥方様に何をしようというんだ?

でも、これでもまだ僕は自分を抑えていた方だと思う。

あの匂いを嗅ぐまでは……。

「おい、何をしている?」

さっきまでの連中にはなかった声が響いた。そして、同時に僕の知る匂いも。

「そのご婦人から手を離せ。お前達に国境警備を任せているのは、何も女に手を出させるためではないぞ。しかも職権を乱用しおって!」

その匂いは、かつてご主人様を襲った勇者とか言う奴と同じ匂い。

「ご婦人、部下の至らなさを詫びさせて頂く。早く行くが良い。」

「ありがとうございます。」

「道中に気をつけてな、亭主殿によろしく。」

何が亭主殿によろしくだ。お前が、そのご主人様を殺したんじゃないのか?

僕の身体の中に力が、怒りが漲り、馬車を飛び出そうとしたその瞬間--。

何かが僕の頭の上に乗った。

そして、その感触は僕のよく知っている感触。

瞬間、あの勇者の嫌な匂いは消え、僕のよく知る、そして僕が一番好きな匂いで馬車の中が満たされた。

それはご主人様の匂い。

そして、僕の頭の上にあるのは、ご主人様が僕の頭を撫でてくれた時の感触。

何だか、僕の中に溢れそうなまでにふくれあがった怒りが急に萎んでいったんだ。

そうして、落ち着いた僕が視線を移すと、そこには僕の頭を撫でているおちびさんの姿。

でも、ついさっき感じたのは、おちびさんの小さな柔らかい手ではなく、ごつくて大きくて、でも暖かいご主人様の手だったんだ。

おちびさんは、僕の頭を撫でながら

「だ~め。」

と笑っている。ご主人様とよく似た匂いを出しながら。

ああ、ご主人様、あなたは奥方様やおちびさん、そして僕のことまで、いまでも見守ってくれているのですね。



それからのこと。

奥方様と僕とおちびさんは、いくつもの国境を越え、いつしかずいぶんと北の方にまでやってきていた。

ここまで来てしまえば安心と奥方様は思ったのか。

立ち寄った村で、村長(むらおさ)と何やら話をし、手持ちの金銀のいくつかと引き替えに村はずれの荒れ地と小屋を買い取ったんだ。

これからは、この村で暮らしていくつもりらしい。

奥方様は、種籾を手に入れるために近場の家々を回り、ついでに畑に手を入れるための道具も調達してきたんだけれど、小屋に帰ってきた奥方様の目は涙でにじんでいたんだ。とても大きな悲しみの匂いもする。

とても酷いことを言われたり、されたりしたんだろうか?

心配して鼻を鳴らす僕を見て、そして泣き出しそうな顔をしているおちびさんを見て、奥方様はにこりと笑って、そして順番に頭を撫でてくれた。僕はその心遣いがとても嬉しくて、そして悲しかったんだ。



奥方様に分け与えられた土地は荒れ放題。小屋にしても同様で、何というか僕達犬でももう少しましなねぐらを用意できるんじゃないかと思うような有様だった。

でも、奥方様は愚痴一つこぼさず、少しずつ少しずつ手を入れて、二人と一匹のための住処を作っていった。畑の方も同様で、最初は鍬をふる仕草も頼りなかったし、ただでさえヤケドで荒れた手は血豆だらけになっていたけれども、時が経つとともにすこしずつ様になって、少しずつ仕事も早くなり、そして、三度目の秋を迎えてようやく初めてのまともな収穫を迎えた時には、奥方様は日に焼けた立派なお百姓になっていた。でも、日に焼けて真っ黒になっても奥方様は相変わらず綺麗だったし、僕やおちびさんに向ける優しさは変わらなかったんだ。

秋を三回も迎える頃には、おちびさんもずいぶんと立派になっていて、水引をしたり、肥やしをまいたりとずいぶんと奥方様の手助けが出来るようになっていた。

だから、この頃には僕もずいぶんとのんびり過ごせるようになっていたんだ。

そして、この頃から僕のお昼寝の時間がだんだんと長く、そして回数も多くなっていった。



この土地に来て、果たして何度目の秋だったんだろう?

僕は最近、よく数が数えられなくなっていた。

犬だから、分る数ももともと知れているけどね。

僕はすっかり足腰がよわくなっていたし、目も霞むようになっていた。もう、あまりものを見ることも出来ない。出るのは目やにばかりだよ。最近は耳も頼りない。

でも鼻はまだまだ大丈夫だよ。

だから、奥方様やおちびさんが近づいてきたら、ちゃんと分るし、風が運んでくれる匂いで麦の穂並みが畑をいっぱいに飾っていることも分るよ。ああ、今年も豊作ですね、奥方様。これで冬支度も大丈夫。僕が心配することも毎年減っていって、とても嬉しいですよ。

ふと最近はあまり嗅がない匂いが漂ってきた。

少し考えて、奥方様の流す涙の匂いだと気がついた僕はちょっとだけ目を開けて奥方様の顔を見る。

奥方様はしゃがんでいて、一生懸命に僕の身体をさすっていてくれたんだ。いつからなのかな?僕、全く気がつかなかったよ。

ああ、隣にいるのはおちびさんだね。

最近は、すっかり大きくなって、もうおちびさんとは呼べないけどね。

何だ、おちびさんも泣いているのか?

ダメだな。もう同じ年格好の子の誰よりも喧嘩が強い立派な男の子なのに。本当に、中身はいつまでもおちびさんなんだな。これからは、変な奴が来たりしたら、おちびさんが追い払うんだよ。狐とかオオカミとかイタチより危ない人間は、いっぱいいるんだからね。僕に代わって、奥方様を守ってあげて。

ああ、何だか眠いや。僕、もう寝るね。いっぱい頑張ったもんね。休んでもいいでしょう?

やだなぁ、奥方様、そんなに泣かないで下さいよ。

僕は、疲れたから寝るだけなんですよ。

いつものお昼寝です。

だから、あまり泣かないで下さい。

本当に眠るだけなんだから……。

少しの間だけ……。

だから……おやすみなさい……。



今度のお昼寝はいつもよりもずっと長かったのではないだろうか?

というのも、目が覚めると、そこには奥方様もおちびさんもいなかったからなんだけど。

いや、それどころか、ここは小屋の中でもない。畑の麦の匂いも漂ってこない。

僕が不思議に思っていると、何だか遠くの方から、甲冑を着た人が歩くガチャリガチャリとした音が聞こえてきた。

そして、懐かしい匂いも。

一度たりとも忘れたことのない匂い、そして僕が一番好きな匂い。



ご主人様!!



気がついたときには、僕は全速力で駆け出していた。

視界の先でご主人様は、わざわざ僕のためにかがんで待っていてくれた。

その胸に、僕は迷うことなく飛びついた。

ああ、ご主人様、ご主人様……。

僕はとにかく顔と言わず、身体と言わず、舐められるところはところ構わずなめ回していたと思う。

その間、ご主人様は、笑って僕の頭をなで続けてくれたんだ。

「ご主人様、ご主人様、帰ってきてくれたんですね。」

僕がそう言うと、ご主人様はこの時だけは悲しそうに首を振った。

「帰ってきてくれたんじゃないんですか?奥方様も、おちびさんも待ってますよ。奥方様もようやくここでの暮らしに慣れたし、おちびさんなんか、村中の子供の中で一番喧嘩が強いんですよ。」

「いや、残念だけど、俺は帰れないんだよ。」

ご主人様は、本当に悲しそうにそう言うと、また優しく僕の頭を撫でてくれた。

「そうか~。帰ってきたんじゃないんだ……。」

僕もとても悲しかった。でも、どうして僕はご主人様とお話が出来ているんだろう?

「こんな風になって、ようやく俺もお前の言っていることが分るようになったんだよ。一緒にいた時は、分ってやれなくて悪かったな。」

まるで僕の考えが分るかのように、ご主人様は答えてくれた。

う~ん……不思議だけれど、便利だからまぁいいか。

「でも、ご主人様、どうしてここにいるの?」

「それはね。お前を迎えるためなんだよ。」

「ご主人様が?」

「そうだよ。」

「奥方様とおちびさんは?」

ご主人様は、ここでも首を横に振った。

「あの二人はまだまだ頑張らないといけないからね。今日はお前だけを迎えに来たんだよ。」

「ふうん……僕、頑張ったから、いままで一生懸命頑張ったから、ご主人様は迎えに来てくれたの?」

「そうだよ。」

「僕ね、僕、僕、頑張ったよ、一生懸命頑張ったんだよ。」

「知っているよ。」

「嬉しいな。ご主人様にそう言ってもらえると嬉しいな。」

僕は目一杯尻尾を振って喜んだ。だって、本当に嬉しかったんだ。

「でもご主人様、一つだけ謝りたいことがあるんだ。」

「何だい?」

「ご主人様を守ることは出来なかったよ……。」

僕がしょんぼりしてそう言うと、ご主人様は頭を撫でていた手を下ろし、今度横から僕の顔をそっと撫でてくれたんだ。

「気にしなくて良いよ。俺は気にしていない。それにお前は、あの二人をずっと守ってくれたじゃないか。」

「本当に?」

「本当だよ。さあ、あまり長居してはいけない。そろそろ行こうか。」

「うん、分ったよ。僕、ご主人様と一緒に行く。」

「良い子だ。」

ご主人は立ち上がり、ゆっくりと僕に背を向けて歩いていく。僕は、というと、その後を一生懸命ついて行った。

「ねえ、ご主人様、僕、ご主人様とずっと一緒にいられるんでしょう?」

後ろから僕がそう声をかけると、ご主人様はふと立ち止まり、少し寂しそうな顔を見せた。

「残念だけど、そうはならないんだよ。」

「えー!!どうしてですか?」

「俺のいる場所は地獄だけれど、お前は違う。お前はもっといいところに行くんだよ。」

「やだ、僕、ご主人様と同じところがいい。」

ご主人様は困った顔をして

「でも、お前の行くところは地獄なんかとは比べものにならないほど良いところなんだよ。これからはそこでゆっくりと休みなさい。」

と言ったんだけれども、それだけじゃ僕だって引き下がれない。

「やだ!ご主人様と一緒がいい!!」

「わがままを言わないでくれ。これは決まったことなんだ。地獄なんて、ろくなところじゃないぞ。」

「そんなに嫌なところなの?」

「ああ。」

「地獄って、美味しくないの?」

僕がこう聞くと、ご主人様は苦笑いしながら

「そうだな……少なくとも美味しくはないな。いや、お世辞にも美味しいとは言えないな。」

と答えてくれた。

そうか……美味しくないのか……。

そのことは、僕にとってはちょっとショックだったけれども……。

「いい!我慢する。」

僕の気持ちは変わらなかった。

「美味しくなくても我慢する!ご主人様と一緒がいい!」

ご主人様は、びっくりしたような、嬉しいような、怒っているような不思議な顔をして僕を見ていた。この表情は、ご主人様と出会った時に僕が見たのとおなじだったんだ。僕は何だか嬉しくなって、もう一度同じ事をご主人様に訴えた。

「ずっとご主人様と一緒がいい!」

ご主人様は、またぷいと僕に背をむけて今度は少しだけ速く歩きながら、

「好きにしろ!」

とだけ、言った。

「うん!好きにする。」

僕は嬉しく嬉しくて、目一杯尻尾を振りながら一生懸命ご主人様を追いかけた。

「ねえ、ご主人様。僕、ご主人様といっぱいお話ししたいことがあるんだ。」

「そうかい?」

「うん!」

ねえ、ご主人様、僕はご主人様となら、どこにだって行けるんですよ。

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