5色目 彼女の名前は夏の花

「ごめんなさい……引き止めてしまって……」


 夕方の色は落ち、すでに夜の色が、窓の外を覆っていた。俺は、彼女にバレないように腕時計を確認し、素早く携帯の電源を落とした。練習をサボった挙句、連絡無しとなると、七瀬はもちろん、千裕もGPSで追ってくる可能性が大だ。


「いや、別にいいんだけどさ、その……何かあったの?」


 先ほどから気になる、彼女の暗く寂しげな表情。それが、日が落ちるほどに増していくのを、俺は知った。

 今時、こんな歳の女の子が、一人暮らしなのだ。ここは、高級住宅街だし、ある程度の治安の安定はあるかもしれないが、それでも不安になることだってあるのだろう。

 しかし、黙ったままの彼女に、俺は何か違和感を覚え始めてもいた。


 そんな理由じゃ……無いのかもしれない。


「名前……なんていうの?」


 気分を変えようと、そんな会話をふってみる。少女は、少しだけ顔の緊張を解き、俺を見上げた。


「……夏花……」


「な、なつ……名字は?」


「ないよ……夏花って言われてるの……だから、きっとそれが名前」


「……そっか」


 なんでこうも、話が切なくなるんだよ!

 追求したい気持ちもあるが、さすがに人のプライベートに顔を突っ込むのは、失礼すぎる。


「俺は、豊島 健一……夏花って呼んでもいいのか?」


「うん、な、なら私は……健……一……さんで」


 さん、かよ!


「分かった、そう呼んで」


 その時、不意に風が窓を鳴らし、ヒュルルという音を運んできた。外は寒そうだ。


「あのさ……やっぱり、聞かせてもらえないかな? 何があったのか」


 夏花は、俺の顔を、その黒い瞳で、しばらくじっと見つめ、顔を背けた。

 残念ながら、言う気は無いようだ。


 そろそろ居心地が悪くなり、俺は椅子から立ち上がった。急に不安そうな顔になる夏花に、大丈夫だよ、と一言添え、気に障らない程度に、店内を歩いた。

 楽器は長い間磨かれてないものから、つい昨日まで愛用されていたかのようなものまで幅広かった、どれも聞いたことのないようなブランド名が彫ってあり、夏花にこれらについて尋ねようと振り返った、その時……


「おっじゃましまぁ~す」


 そんな声が、店の玄関から聞こえ、俺は慌ててカウンター裏に身を隠した。


「あれぇ~夏花ちゃんは何処かなぁ~?」


 誰だ? 男の声だ……

 足音が、奥の部屋……つまり、夏花が、今いる部屋へと消えていく。


「ヤッベ……」


 夏花が怖がっていたのは、この男なのかもしれない。そう、瞬時に思い立った。


 今すぐ、夏花の所に行かなきゃ……

 俺が、その身をカウンターから起こした時だった。


「やめて!!」


 キシャーー!!


 夏花の叫び声と同時に、部屋から飛び出してきた物体に、俺は目を疑った。灰色の猫だ。

 猫はショーケースにぶつかると、グルルと、か弱い鳴き声を残し、静止した。

 続けて、部屋の中から夏花の啜り泣く声が聞こえてきた。

 何が、起こってる……?

 硬直しかける体に、慌てて鞭を打ち、部屋の方へと駆けて行く。


「どうかしたのか夏花ー!?」


 わざと大声をあげ、中の奴がどう反応するのかを伺うつもりだったが、何も反応は無い。むしろ、夏花の啜り泣く声さえも聞こえなくなり、急いで全開に開いた扉に手をかけ、中を覗いた。


「どうかしたの?」


「え、あ、いや……」


 そこにいたのは、夏花、ただ一人だけだった。確かに男がいたはずなのだが。

 というか、夏花本人さえも、何事かと不思議げな態度をとっている。


「幻……?」


「ん?」


「あ、いや……何でもない……たぶん」


「あはは……変なの」


 変なのはそっちだろ!


「引き止めちゃって……ごめんね、今日はもう、暗いし帰りなよ」


「あぁ、そうするかな」


 夏花の表情は、影が差したように暗かった。

 俺は、部屋を出ると、猫がいるはずのショーケースを見た、やはり、そこには力無く横たわった、猫の姿があった。

 俺は猫に駆け寄り、その体を抱き起こそうとするが、すっと伸びてきた白い腕に、止められる。


「なぁ、夏花……やっぱり……」


「いいの!……いいの……」


「いいって、何がどういいんだよ……お前、この猫大事に育ててたんじゃ……」


「いいの! いいから、早く帰ってよ!」


 俺は、そんな夏花に情けなく怯むと、「そうか……」と何故か肯定し、隅に置いてあった楽器ケースを掴むと、急ぎ足に店を出た。


 つか、引き止めたのはそっちじゃんか……!


 と、帰り越しに、ふと後ろを振り返ると、店の窓から、中の様子が伺えた。横たわったままの灰色の猫と、泣き崩れる夏花の姿……それらが、俺の頭の中でぐるぐると何度も回って、目眩がした。

 たったの一日しか、夏花のことを知らないくせに、まるでずっと昔から夏花を知っていたかのように、傲慢で知ったか振りな自分に吐き気がした。


 この夜は眠れそうにない

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