3色目 出会いは猫に連れられて
「一体全体、アンタ達はなんのつもりよ! 今日がリハーサルだって、何度も言ったはずでしょ!?」
「でも、リハーサルって言っても、本番は来年の四月だし、まだ……」
「時間が無いのよ! あなた達は確かに、あのオケの中では練習なんかしなくたって、ついてけるのかもしれない、だけど、これは個人の問題じゃないんだから!」
こうして、七瀬の説教と、それに対しての千裕の反論を、黙って聞くこと数十分が経過していた。
正直、七瀬の言うことは正しかった。
オケは、個人戦であり、ソロと違って、全体で一つの曲を仕上げる。つまり、一人のレベルがどれほど高かろうと、周りがその一人のレベルに、ついていけなくては意味が無いのだ。七瀬はそう言っている。
だが、俺や千裕は、小学時代から主に個人での活動を中心としていたため、そう言った面がよく分からないということもあってか、こうやって度々、吹奏楽育ちの七瀬と意見がぶつかり合うのだ。
「わ、分かったよ……今回のは悪かった」
「何よ、今回のはって、いつもでしょ!」
「はいはい、すみませんでしたー」
こんな口論をしていても、彼らの仲の良さは一目瞭然だった。意見をぶつけ合うというのは、そういう基本的な関係ができてないと、まず無理だ。
七瀬は、片親がロシア出身だとかで、顔立ちがくっきりとしている。黒髪ストレートに紅い唇がよく映えていて、本人曰く「日本美人」だとからしい。
「とりあえず、これからは絶対にサボらないこと! 分かった!?」
「「は~い」」
それだけ言うと、七瀬は少しだけ梅くさいシャンプーの匂いを残し、ミーティングルームへと後輩達に囲まれ、吸い込まれていった。
そんな七瀬の後ろ姿を、いつまでも眺め続ける千裕に気づき、俺は千裕に体当たりを食らわす。
「な、何すんだよ健一!」
「好きなら好きって言えばいいじゃ~ん」
「はぁ!? ん、んなわけねぇだろ馬鹿ぁ!!」
その後、俺たちは講師の奴が廊下を通りかかるまで、しばらくじゃれ合い、結局のところ、定時までおとなしく練習をし終え、飲もう飲もうと外へ出た。
冬が近づき、寒さもそろそろピークを迎える、と先日の天気予報士が言っていたのを思い出す。
俺は、誰かにもらった灰色のマフラーを口元まで引き上げ、はぁと白い息を吐いた。息は、一瞬だけ、僅かな緩さを残し、夜の黒へと消えていった。
飲もうと言われても、居酒屋などといったところには、大して用も無かった俺たちは、あてもなくふらりふらりと立ち寄った店の前で、両の顔を見合わせて笑った。
「開いてるはずねぇってのー!」
千裕はそう言って、既に酔ったのかというぐらい、大声でゲラゲラと笑った。俺もそんな阿呆っぽい千裕を見て、同じように笑った。
クローズと書かれた、いつもの喫茶店の前で、俺たちは意味も無く笑っていた。
俺たち、というか、千裕が笑っていることに、俺が付き合ってやってるというわけだが……千裕のストレス発散法が大声をあげることだと知っている俺は、黙ってそれに付き合ってあげなくてはならなかった。千裕が、俺にそうしてくれていたように。
「俺、帰るわ」
「うん、明日」
「明日な」
短い会話の後、千裕は自慢のロートバイクに跨り、俺と反対方向に漕ぎ去っていった。
千裕と別れた後も、俺は家に帰る気になれず、喫茶店周辺の、のどかな住宅街をぶらぶらと歩きまわった。深夜ではあったが、暖かな電灯が幾つも並んだ通りは、明るく感じた。
他人の家を盗み見るなどという趣味は無かったが、ここの住民がどんな生活を送っているのかが気になり、更に奥へ奥へと進んでいった。ついには、ここを道と呼んでいいのかと思えるほど狭い通りに出てしまい、慌てて引き返そうと向きを変える。
ニャァァァオ
不意に後ろから聞こえてきた猫の声に、振り返る。そこには、全身灰色の短い毛に覆われた、青の瞳の猫が座っていた。綺麗に撫でつけられた毛並みから見て、飼い猫だ。首元には銀の首輪がされてある。
猫は、俺がしゃがみ込んで軽く手を叩くと、おとなしく近寄ってき、グルルと喉を鳴らした。猫を抱き上げ、とりあえず周辺を散策し始める。
ニャァァオ
とある、赤い屋根の店前で、猫が腕の中から飛び降りた。ここが住処だったのか、躊躇無く店の門を潜って行く猫を、俺は静かに見送った。
店の名前は、看板らしきものが霞んでいてよく見えなかったが、何かしらの長い綴りが見えた。店内を窓ガラス越しに遠目で見てみると、趣のあるショーケースの中に、金やら銀やらの楽器達が見えた。ホルンやサックス、クラリネットやユーフォニアム、オーボエ、フルート。
「楽器店……?」
こんなところに楽器店があるなど聞いたことも無かった。一見、市販の店というよりは、オーダーメイド感のあるこの店に、俺は釘付けになり、その場から動けなくなった。
思い出したように携帯を上着のポケットから取り出し、現在地をマップで確認し、そこに印をつけた。
店内には灯りが一つだけ、ぼやけた視界の向こうにあって、人の気配は特にしないが、寒空の下にいる俺にとって、それはとても温かなものだった。
ふと腕時計を確認し、ちょうど二十三時を回ったあたりなのを見る。クローズという看板は下げられておらず、閉まっているようにも見えなかったため、俺は恐る恐る、店のドアノブを回した。
店に入ってまず目に入った、昔ながらの暖炉に、俺の体は癒された。
「あの~……誰か、いらっしゃいますか~?」
と、言ってみるが、反応はない。
やはり、閉まっていたのか、と今更ながらに焦るが、こうなったら、強引にでも店内を見て回ろうじゃないか、と好奇心の方が理性に勝ち、俺は一歩一歩慎重に前進した。
磨き上げられた楽器達と、壊れてしまったのだろうか、積み重ねられた楽器達とが、店内で温かなオレンジの光を、その表面に反射させていた。
カウンターらしきテーブルが見えたが、長いこと使われてないらしく、上には書類やらなんやらがほこりをかぶって眠っている。
「……本当に、楽器店なのか?」
そう口を漏らした時、ガコンッという音が奥の部屋から聞こえ、反射的にそちらの方を振り返った。木製の小柄な扉が一つ、きっと音はその向こうで鳴ったものだろう。
「誰か、いらっしゃいますか~?」
さっきよりも、少しだけ強めた声だったが、相変わらず応答は無かった。物が落ちた音のようだったが、独りでに落ちるはずも無く、人がいることは確かだった。
居留守……
俺は、半分ヤケになって、遠慮無く足音を立てながら、その扉へと近寄った。
「誰か! いらっしゃらないんです……か……」
扉を思いっきり開け、それと同時に発した声を、俺は慌てて押し殺した。
部屋の中で、誰かが倒れている……
白い肌は透けるように繊細で、流れる髪は綺麗なあめ色をし、伏せられた大きな瞳や、整った鼻立ちは、まるで西洋の人形のようだった。
目の前で、床にうつ伏せに倒れた小柄な少女に、俺は、息を呑んだ。
「……あ、あのぉ」
俺は、少女の顔を覗き込み、恐る恐ると声をかけた。先ほどの音は、彼女が床に倒れた音だと、ここにきてようやく理解し、急に、この少女の安否が心配になった。
「だ、大丈夫ですか?」
そう言って、軽く肩を揺さぶるが、もちろん反応はない。
け、警察……警察呼ばなきゃ。
携帯をガサゴソと取り出し、一を二回打ったところで、ふと何かが俺の膝に触れた。
ニャァアォ
灰色の。さっきの猫だった。
まるで、何も心配要らない、とでも言うように、俺を見て、彼女を見た。
よくよく彼女の呼吸を聞けば、一定のペースでスースーと発するこの音は、ただ眠っているだけだと、俺を安心させた。
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