2色目 天才トランペッターは俺
豊島 健一は、優れたトランペッターだ。
都内の有名私立高等学校を卒業し、難関音楽大学への進学を難なくクリア、父は大物アーティストを数多く世に出した、大手音楽事務所経営者、母を有名ヴァイオリニストにもつ彼は、現在、大学二年の冬を迎えようとしていた。
「灰色はないだろ」
「え? そう?」
明治の西欧を思わせる、落ち着いた雰囲気の喫茶店は、息抜きにと友達とのサイクリング途中に見つけた、隠れ家のような店だった。それからは、何かにつけここを訪ね、苦い珈琲を啜るのが習慣となっていた。
「そうだよ、灰色のジーンズを買うぐらいなら、前見てた黒のが良いに決まってる」
大学に入ってから知り合った彼は、橋本 千裕といって、オーケストラサークルのメンバーであった。専門はトロンボーンだ。
千裕はファッションに厳しく、それらのジャンルに鈍感な俺のセンスを、こうしていつも指摘していた。
「今日はイケてると思ったのになぁ、またハズレかぁ」
「ハズレもなにも、お前はモダンでいいんだよ、モダンで」
いつもお洒落な千裕は、オレンジのダッフルコートに、藍色のジーンズを履いていた。俺はというと、白のワイシャツに、上に茶色のコート、灰色のジーンズだった。大して、おかしい服装でもないと思うのだが、千裕はやけにこの服装を否定した。
「というか健一に相談」
「ん? なに?」
「今度の演奏会で弾く楽曲なんだけどさ、お前のソロがあんじゃん?」
「あぁ、中間部の四小節目からだろ?」
「あの部分の高音なんだけどさ、一人ヴィブラートのうるせぇ奴がいるんだけど、フルートの奴と俺は見た」
「同意だよ、残念なことに、うちのオケにはフルートパートに出しゃばりな奴がいるからね」
楽曲内には中間部やトリオといって、静かなメロディーが主体となる箇所がある。その部分では、よく各楽器ごとのソロがあったりと、伴奏も、もちろんソリストも緊張する場面でもある。そんな場所で、目立とうなどとは許し難いことだが、ある意味雰囲気が出たり、ありがた迷惑である場合も多いため、線引きが難しい。
俺たちの所属するオーケストラには、フルートパートに、千裕の幼馴染である七瀬 薫という奴がいて、そいつがパートを仕切っている。楽器の腕もなかなかのもので、責任感が強く、やる気に溢れる彼女は、花形楽器の一つであるフルートに相応しい人格を持っていた。
「あいつにはいつか、ガツンと言ってやるつもりなんだけどな」
幼馴染の千裕によると、彼女に口で勝てる者はいないと言う。そんなことは実際に彼女を見てしまえば一瞬でわかる事だった。大きくハキハキした声は、愛らしく、時に厳しく響くため、聞く者の心を自由自在に誘導してしまうのだ。彼女を前にして、文句など通るはずもない。
「あーあ~、俺も上手くなりてえなぁ、ボーンが泣いとる」
「十分上手いじゃんか」
「お前にゃ言われたくないね、天才トランペッター豊島 健一さまさま~」
「そういうの、嫌なんだけど」
俺は、恥ずかしさにテーブルの上の珈琲を一気に飲んだ。熱さと苦さで、口内は大パニックになり、激しく咳き込んだ。
「相変わらずだなぁ健一は」
そんなことを千裕が言ったのと、時を同じくして、千裕のスマホが鳴った。俺といる際は必ずマナーモードにするはずの千裕が、何故だか今日は、スマホの音量を最大にしていたらしく、店内に、謎めいた着信音が響き渡った。
この着信音に、俺は覚えがあった。
千裕は、慌てて轟音を鳴らし続けるスマホを、服の布に押さえつけ、誰からの電話かを恐る恐る確かめた。
「……か、薫からだ……」
千裕は、恐怖に顔を強張らせ、震える声を上げながら、俺を見上げた。
「…………出ろよ、うるさいし」
俺の冷たいフォローに、千裕は絶望的な表情を浮かべ、ようやく電話に出た。ボソボソと小さな声で「もしもし」と言った千裕の声を待たずして、向こう側の人間の、高くてキンキンとした叫び声が聞こえた。
『アンタ達! どこ行ってんの! 今からリハーサルだってのにまったく!』
電話越しからでも鮮明に聞こえてくる、その台詞に、思わず「あぁ、七瀬だ……」と呟いた。
『もう、準備進んでるから、さっさ来なさいよね! どうせ、豊島も一緒なんでしょ!?』
「……あぁ、そうだけど」
『何処にいんの?』
「旅に……」
『何処にいんの!?』
「……最寄駅から、木の葉北公園をずっと行った先の、喫茶店です」
呆気なくバラされてしまった、俺たちの秘密基地に、俺は思わず席を立ち上がり、千裕に遅すぎたが人差し指を口の前で突き立て、シーッと声にならない悲鳴をあげた。
『今から行く、じっとしといて』
そこで電話は切れたようで、血の気の去った顔の千裕が、スマホをテーブルに置き、しばらくの間、店内に沈黙が続いた。
「なんで言ったんだよ」
「だって、薫怖ぇし……」
「……ま、そうだな、あいつって強ぇよな……」
大学生にもなって、女一人にこうもビビりまくる男共は、世間的にどうなのだろうか……と俺は思った。
それから数分もしない内に、白ワンピースの女が、鼻息を荒げて俺たちを迎えに来た。
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