第五夜 帰らなくては。
目を開けると私は小さな一人の少女だった。周りを見渡すとそこは一面枯草野原で真っ赤な太陽は地平線へと沈み始めていた。
風がワンピースの裾をめくる。その風は冷気と共にヴァイオリンの
ふとわたしは思う。帰らなきゃ。
わたしは走り出した。早く帰ってお父さんに抱きしめてもらいたい。
野原を抜け黒いビル群に出る。少し疲れた私は歩を緩めた。ふとまた耳にあの音が届く。Fの音から始まる綺麗な旋律はわたしの首の鳥肌を逆立てた。
帰らなきゃ。
「あ、ちょっと」
ふいに呼び止められ、わたしは振り向く。そこには一人の女性がいた。逆光で全身影に塗りつぶされ顔はわからない。
「ああ、やっぱり。やっと見つけたわ、私の娘。お母さんはとっても心配したの。さぁ、お家に帰りましょう。お夕飯はカレーよ。その後はヴァイオリンの練習をしましょうね」
この人はわたしのお母さんじゃない。わたしは早くお父さんのところに行きたいのに。
帰らなきゃ。
わたしは呼び止める女性を振り切り走り出した。ヴァイオリンの音が背中を追いかけてくる。
ビル群が終わり住宅街に出た。ブランコしかない小さな公園が家と家の間にぽつねんとあるのを見つけた。わたしはそのブランコに座り、下を向く。
帰らなきゃ。お父さんのところに。けど…。
「探したよ。何処にいたんだ」
顔を上げるとそこにはお父さんの顔があった。お父さんはわたしの頭を優しく撫でる。
「心配したんだからな」
「ごめんなさい…」
お父さんの声に、頭を撫でてくれている手に私は安らぎを覚えた。
「さ、帰ろう。今日は夕飯にカレーをつくってあげよう。それも甘いやつをね」
「やった。わたし、お父さんのカレー大好き」
わたしはお父さんに肩車をしてもらい家に向かった。太陽はすっかり沈み辺りは闇に包まれ寒くなっていた。お父さんの温もりがじんわりと伝わってくる。
いつの間にかヴァイオリンの音は消えていた。
「カレー、できたぞ」
台所から美味しそうな匂いが漂ってくる。わたしはカレーが待ち遠しくて床に届かない足を忙しなくぶらぶらさせた。白い皿に盛られたカレーが二つ、お父さんによって運ばれてくる。
そのとき突然、電話が鳴った。
「ごめん、今両手が塞がってるから代わりに電話に出てくれないかな。後でお父さんがかけ直しますって言っておいて」
「うん、いいよ。わたし、できる」
わたしは受話器を取り、耳を当てる。
「もしもし。今お父さんは忙し…」
わたしの言葉を遮るように受話器からあのヴァイオリンの不気味な旋律が流れてきた。そしてその音に交じって男の悪魔のような高笑いと女のすすり泣く声が聞こえた。
「どうしたの」
お父さんが聞いてきた。
「なんか、イタズラ電話だったみたい」
震える手をなんとか抑えながら受話器を戻し、わたしは答えた。
「そっか。じゃあ冷める前にカレーを食べよう」
青ざめた顔を見られまいとわたしはお父さんの方を向かずに返事をする。
「うん」
「いただきます」
わたしはカレーをすくったスプーンを口元に運ぶ。お父さんは嬉しそうにわたしを見て微笑んでいた。つられてわたしも嬉しくなって笑顔を返した。
そのときまた、あの音が流れてきた。お父さんには聞こえていないようだった。
「どうしたの。食べないの」
止まってしまったスプーンを持つ手を見てお父さんは言う。眉毛がへの字になっている。
ヴァイオリンの音は止まらない。短調でゆっくりとした怪しげな旋律。それは今までより大きな音量で流れてくる。
「具合でも悪くなっちゃったのかな。カレー、残してもいいよ」
そう聞いてくるお父さんの顔を私は見つめる。
「お薬、持ってこようか」
心配そうな顔をするお父さん。
わたしの、お父さん。
いや、これはお父さんじゃない。
私の前にいる人物はお父さんではない。これは知らない人の顔だ。私の父はこんな表情など持ち合わせていない。
「何か悩みでもあるのかな。お父さんに話してごらん」
父ではない男は立ち上がり、私を優しく後ろから椅子ごと抱きしめた。
私はもう小さな少女ではなくなっていた。
この人は誰だろう。
この人は知らない人だ。
私の父はこんなに優しい人ではない。
帰らなくては。
でも、何処に。
ヘ短調の旋律がより大きく鳴り響く。
悪魔の高笑いがそれに加わる。
女のすすり泣きが混じる。
そして私の目は覚めた。
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