第三夜 時の止まる砂丘

目を開けると目の前には妻が横たわっていた。頬を触っても彼女が長いまつ毛を持ち上げいつもの朝と同じように「おはよう」と言ってくれることはなかった。彼女は氷のように冷たかった。


妻は死んだ。まだ若い美しさを残したまま召されてしまった。

彼女の最後の言葉は「貴方のことを愛している」でもなく「今までありがとう」でもなかった。

「死にたくない」

彼女はそう言って最後の息を吐いた。


私は妻を心の底から愛していた。彼女が私に望んだことは何でもした。それだけ彼女を愛していて、今もその気持ちは変わらないでいる。

今回も私は彼女の望みを叶えることにした。彼女を生き返らせるのだ。


まず私は妻を時の止まる砂丘に埋めることにした。妻をガラスの棺に入れ、時の止まる砂丘へと運ぶ。その砂丘の中心には枯れた桜の巨木が一本だけ立っていた。


枯木の傍に穴を掘り棺を入れる。暫くの間、会えないけれどすぐ会えるからね。生き返らせてあげるからね。私はそう呟きながら棺に砂をかぶせた。

これで妻の遺体は腐らない。時の止まる砂丘の砂はその名の通り、埋めたものの時を止める作用があるのだ。


生き返らせる方法だが、一つ案があった。あのオルペウスの神話である。妻を亡くしたオルペウスが死の世界の神ハデスの元まで行き、妻を返してもらう話。しかしその話では掟をオルペウスが破ってしまい、死の世界から正の世界へ戻る道中で妻は蛆虫の湧く死体へとなり結局二人は幸せになることはできなかった。

私の妻が蛆虫の湧く死体になる心配はない。時の止まる砂丘に埋めたから。


後はハデスに会って妻の魂を返してもらうだけだ。


私は死の世界へと続く洞窟へ入っていった。死の世界へ行く途中には大きな川がある。その川には渡し船があるのだが渡し守が死人しか乗せてくれないと聞いている。

神話ではオルペウスが竪琴を弾いて渡し守を眠らせた。私は竪琴を弾けない。なので私はクロロホルムの缶を持ってきた。


舟はこちらの川岸にあった。渡し守が舟の上に立っている。

渡し守が後ろを向いた瞬間、私はクロロホルム缶を投げようとした。

「別に生者でも乗せてあげますよ。最近多いんですよね」

彼は後ろを向いたまま言った。

「まぁ、ここを渡れてもケルベロスの餌になるだけでしょうけど」


川を渡ると渡し守が言った通り、ケルベロスが待ち構えていた。3つの頭を持つ犬、この世界の番犬ケルベロス。

私は懐からソーセージを取り出した。犬は嬉しそうに鳴いてソーセージに飛びついた。


ケルベロスの脇を抜け、一本道を歩く。道の周りには草も何も生えていなく全てが灰色だった。死者たちがこちらを恨めしそうに見つめてくる。

やがてハデスの住む屋敷が見えてきた。見張りや門番はいなく私はすんなりと屋敷の中へ、いとも簡単にハデスの座る椅子の前に着いてしまった。

「何の用だ?大体予想はつくがな」

ハデスは腹にずっしりとくる声で言った。

「妻の魂を返して下さい」

「やはりそれか!そんなに妻が愛しいか。そうか、そうか」

「妻は、私が愛する人は、一人しかいません。彼女の魂を体に戻してやってください」

「オルペウスは私に竪琴を演奏した。お前は私に何ができる?と、言いたいところだが特別だ。お前の妻の魂を返してやろう」

ハデスは意外と物分かりが良いようだった。

「これを持っていけ。これはお前が来るときに渡った川の水に少し私が手を加えたものだ」

ハデスは小瓶を私に渡した。

「これをお前の妻の口に流せ。魂が戻ってくるぞ」

「有難うございます。本当に。これで私は幸せに戻れる」

「世界には沢山の女がいると言うのにその一人に固執するお前は可哀そうだ」

「いえ、それが愛ってものなのです」

「ほう。ではその愛がもたらす幸せとやらを水を飲ませるときにもう一度思い出してみるんだな」

私はハデスにもう一度礼を言い、死の世界を後にした。

途中でケルベロスがすり寄ってきた。ソーセージが余程気に入ったようだ。

そんなことより私の頭の中はこれからの幸せでいっぱいだった。


地上に戻った私は早速時の止まる砂丘へと行った。

妻の棺を掘り返す。妻は相変わらず美しいままだった。ガラスの蓋を開ける。

もらった水を口元へ持っていこうとしたとき、ふとハデスの言葉を思い出した。

「愛がもたらす幸せとやらをもう一度思い出してみるんだな」

確かそう言っていたはず。そんなのは簡単だ。

まず、私が妻に一目惚れしたとき。告白して「はい」の答えをもらえたとき。結婚したとき。彼女の望みを叶えたとき。彼女の希望を叶えたとき。彼女の頼みを遂行…

あれ。私は気が付く。

妻に感謝されたことがあっただろうか。彼女にただ一言「ありがとう」と言ってもらえたときがあっただろうか。

ない。

私と結婚したのは私の資産目当てではなかっただろうか。

違うとは言い切れない。

何かがおかしい。

妻は私と一緒にいたとき本当の笑顔を見せたことがあっただろうか。

私は妻を確かに愛していた。妻は私を愛していたのだろうか。

妻は最近「友人との旅行」が多かった。


「死にたくない」

妻の最後の言葉。私とずっと一緒にいたいから「死にたくない」のか。いや違う。きっと違う。

ただ妻は自分のために、そして私の知らない誰かのために死にたくなかったのだ。


ハデスの声が耳に木魂する。

「世界には沢山の女がいると言うのにその一人に固執するお前は可哀そうだ」


私は水を桜の枯木にかけた。

枯木はみるみると精気を取り戻し、満開の桜が咲いた。


そして私の目は覚めた。

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