兄妹の約束

1

 四日谷学園では、夏季休暇中に三年生のみ二週間の補講を実施している。参加自体は任意のものの、ほとんどの学生が進学を希望するため、出席しない生徒は数える程度しかいない。

 また、補講期間中には進路についての二者面談も実施される。もちろん四日谷の血族であったとしても一生徒である以上、例外ではない。三条家の長女・葵も、八月を目前にした気温三十度を超える真夏日に、本校舎の中で担任と向き合っていた。

「うん。第一志望から第三志望まで、どこも合格圏内だ。もう一ランク上の学校にしてもいいんだぞ」

 まだ若い担任教師。教科は数学で初めて三年を受け持つ。やる気がある分暑苦しいこの男を、葵は苦手に思っていた。

「両親と、おじいさまと話し合った結果ですから。進学後は二年ぐらい留学したいと思っていますので、サポートが手厚いところにしたいんです」

 嘘。単に照彦の息のかかった大学に行かなければならないだけだ。四日谷と懇意にしている大学で、ランクが高いところを上から三つ選ぶだけ。進路選択なんて簡単なものだ。担任は葵の言葉に満足したのか、うんうんと頷く。

「大学進学後はどうするんだ。やりたいこととかあるのか」

 お前なら選び放題だろう。言外にそんな言葉が聞こえる。金持ちの孫というだけでやたらと勝ち組のように思われるが、果たしてそうだろうか。安定した生活は送れるが、その代わり敷かれたレールから逸脱することは許されない。やりたい、など自分の意思を持つ隙間などないのに。

「兄が両親の事業を継ぐ予定ですので、そのサポートができればと。三条うちは福祉系をメインにしていますので、兄弟で協力し合いながら、多くの人のためになる会社に育てていけたらと思っています」

 面談のたびに繰り返し聞かれてきた質問と、それに対する返答。非の打ちどころのない答えをすれば、こんな時間いくらでも圧縮できる。一人当たり十五分割り当てられていた面談を半分の時間で終わらせると、葵は早々に教室に戻り、帰り支度を始めた。

「あーおいー!」

 先に面談を終わらせていたはずの波佐間はざま莉奈未りなみが鼻歌交じりに声をかけてくる。夏休みに入ってから染め直したらしい髪はかなり明るいピンクベージュになっていて、耳元では大ぶりのピアスが揺れている。長い髪を後ろで一つにまとめているだけの、優等生然とした葵とは真逆のような恰好。自分とまるで別の生き物のようなこのクラスメートも、葵は苦手だった。

「ね、ね。見てよ、これ。割れちゃってチョーショック」

 そう言いながら莉奈未は右手の人差し指の爪を見せてくる。サロンで仕上げたジェルネイルの先が少しひび割れていた。

「ああ、前に遊びに行った時の。大丈夫? 痛くない?」

とりあえず心配するふりだけはしておく。莉奈未の狙いなどはなからわかってはいるものの、それにやすやすと乗りたくはなかった。

「んー、痛くはないんだけど、このままだとどっかひっかかっちゃいそうで怖いなーって思って。ね、リペアしたいから一緒にサロンついてきてよ。二階堂の系列だし、割引利くんでしょ」

ほらきた、と葵は心の中でため息をつく。サロンについてきて、じゃなくてサロンのお金をだせ、だろうに。莉奈未はこうやってたまにたかりに来る。一緒に遊びに行くという体で葵にすべてのお金を出させるのだ。

「いいよ、行こうか」

「やったー! 葵、大好き! せっかくだし、終わったらカラオケ行こうよ。真保たちも呼ぶね」

莉奈未はさらっと人数を増やすと、葵の返事も待たずにスマホで連絡を取り始めた。まるで気の合わない友人たちとの時間は、葵にとって苦痛以外の何物でもなかったが、それでも彼女たちを無下には扱えなかった。

 葵は胃がきりきりと痛むのを感じたが、ぐっと堪える。莉奈未が持つトートバックには赤のバッチがついている。石持ちの宝石人種ジュエロイドは学園内でも貴重なのだ。莉奈未の機嫌を損ねてはいけない――。

「葵様」

 廊下のほうで葵を呼ぶ声がした。振り向くとそこにはそばかす顔の女生徒が立っている。

「迎えの車が到着しました。本日は家庭教師が来る予定になっておりますが」

今までの会話を聞いていたのか、不満そうな声でそう言う。

「えー。ゆいちゃん、それまじでぇ? 葵、今日無理なのぉ? 行けるよね。行けないんだったら二階堂君誘おうかな」

莉奈未はにやにやといやらしい笑みを葵に向ける。わざわざ隣のクラスの巴瑞季の名前まで出してくるなんて――断れるわけがない。

「いいよ、キャンセルする。行こう」

瞼のあたりが痙攣するのを指で押さえながら、葵はそう答えた。莉奈未はそれを聞いて満足げな表情をすると、葵と唯の肩に腕を回す。

「そうだよね、そうこなくっちゃ! っていうか唯ちゃんも行くよね、カラオケ」

莉奈未の言葉に、粂川くめがわ唯は露骨にうろたえた。同じ高等部三年ではあるものの、三条家の使用人である彼女は、主人の許可なしに外出することを許されてはいない。

「唯、いいから。兄さんには私から連絡するからあなたも一緒に来なさい」

「……はい。申し訳ございません」

眉根を寄せて頭を下げる唯の姿がやたらと癇に障る。そんなに嫌そうな顔をしないでよ、私だって嫌なんだから。声にならない苛立ちを葵は必死で飲み込んだ。

 唯に鞄を持たせると、葵はスマートフォンで兄の番号を検索した。どうせ兄さんは唯をどれだけ連れまわしても構わない、と言うのだ。両親も成績が落ちない以上は家庭教師を直前でキャンセルしようが何も言わない。

 唯は葵の背後で顔をしかめながら立っている。

 呼び出し音が耳元で響く。葵は奥歯を噛みしめながら、いっそ兄が許可しなければいいのに、と半ば自棄になりながら考えていた。

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