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 早朝六時半。七月に入ってからはこの時間も十分明るく、セミの鳴き声も聞こえる。一氏悠人は簡単な朝食を終えると、鏡の前で髪型を整えたのちにまっすぐ玄関へ向かった。誰かが階段から降りてくる音がするので振り返ると、ぼさぼさの髪をガシガシとかきながら兄の隼人があくびをしていた。医学部五年生の隼人は服装に頓着がまるでなく、中学の頃に買ったジャージをいまだに寝間着として使っている。無精ひげをそらず、背中は猫背でひどく丸まっている。まだ半分開いていない目をこすり、朝からしっかりと身なりを正している弟を一瞥するとかすれた声でとりあえず、といった風に挨拶をした。

「…………おはよう。早いね」

ひどくかすれた声。くたびれた浮浪者風の兄の姿にも動じず、悠人はさわやかな笑顔を向けた。

「おはよう。兄貴も珍しく早いな。昨日も研究室に泊まってたのかと思ったよ」

両親ともども医師の資格をもつ一氏兄弟は二人ともそれなりに勉強はできる。それにプラスして隼人はかなりの研究好きだった。大学では遺伝による疾患の研究を行っているが、没入するとほかのことに目もくれなくなるため、大学進学後は研究室にこもることが増えていた。

「……あー……うん。三時ぐらいに帰ってきた。さすがに五日風呂に入ってないからまずいかなって。帰ってきたらすぐ寝ちゃったけど」

 くたびれたTシャツをめくり、今度は腹をぼりぼりとかく。あばらの浮く体は薄く、青白い。

「医者の不養生って本当だな。兄貴、睡眠と食事だけはちゃんととれよ。そんなんじゃどこかでぽっくりいっちまうぞ」

心配しながらも明るい声色で悠人はいう。

「あー、うん。食べる食べる。というかお前もう行くの。早くね?田中さんまだ来てないじゃん」

気のない返事をしながら隼人は話を逸らす。田中さんは一氏のお抱え運転手で、悠人の登下校は基本的に彼に送迎をしてもらっている。

「最近電車で行ってるんだよ」

ニコニコと笑いながら答える。ああ、この感じはと隼人は一人で合点した。

「また誰かちょっかいかけてるのか」

半ばあきれた兄の表情を見ながら、悠人は気にも留めずに返す。

「べつにちょっかいをかけているわけじゃないさ。前に話しただろう。今年は石持ちが二人入ったって。その内の一人がまだ友達を作れていないみたいだから気になってさ。迎えに行ってるだけ」

「女の子だろ、どうせ」

「もちろん。背が高めのかわいい子だよ。性格もいいし、早くクラスになじめたらいいな」

目を細め嬉しそうに笑う弟を見ながら、隼人は大げさに肩をすくめた。

「ほどほどにしろよ、別にお前だってじいさんの資産に興味あるわけじゃないんだろう。二階堂や三条にくれておいてやれよ」

「兄貴」

鋭い声が響く。

「別に資産なんていらないさ。ただ俺は、力あるものが宝石人種ジュエロイドを守るっていうじいちゃんの主張には賛成だ。二階堂も三条もその意識が薄い。金のことばっかりを考えている。四日谷はまだましだけど桐吾は何を考えているのかわからないし。だから俺たち兄弟で宝石人種ジュエロイドを救うんだ。兄貴はそのまま研究を続けて、いつかいい薬を開発してくれよ」

遺伝疾患の研究と言いながら、その実、宝石人種ジュエロイド向けの治療・薬の研究をしていることを知った時の弟の羨望のまなざしはなんとも言えない不快感があった。そのときと同じようなきらきらした無邪気な視線を向けてくる弟を見ながら、隼人は嫌そうに顔をしかめた。

「お前まだ勘違いしてんじゃないだろうな。俺はそんな大層なことは考えてねぇよ。研究できればそれでいい」

踵を返し、隼人はシャワールームに向かってずるずると歩き出した。兄の背中に向かって悠人の「行ってきます」という明るい声が突き刺さる。

「はいはい、いってらっしゃい」

隼人はぼそぼそと応えたが、言い終わるよりも先に扉が閉まる音がした。

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