メサイアの碧い栞

1

 二階堂の双子に絡まれた一件以来、諒太は学内ではほぼ僕につきっきりになり、下校時間も合わせてくるようになった。もちろん諒太が委員会で時間が合わないときもあり、その場合はさすがに先に帰っていたが、他のクラスメートとも話さずにすぐに移動するよう言われている。少々過保護な感じはしたものの、あまり心配させすぎてもいけないと思い、基本的には素直に聞いていた。自分自身、怖い思いをしたくはないというのもあったし。

 球技大会当日、早々に僕のチームは試合に負け、午後はただの待機時間となった。諒太は委員会の仕事で慌ただしく動いており、久々に学内で一人で過ごすことになった。

「何か理由を付けて保健室か図書室あたりに籠っておけ。先生の見える範囲に必ずいろ」

そう諒太が睨みをきかせてくるのを丁重になだめすかして、人が多いところにいる、極力ほかの人間に近づかない、どこかに連れていかれそうになったら大声をあげてすぐに逃げると約束をし、体育館2階の観客席に腰を落ちつけた。運営席を見下ろすと、諒太が先生と先生と話しているのが見えた。そのままコートに視線を移すとそこでは2年生のバレーの試合が行われていて、その中で悠人がサーブを打っている。まっすぐとんだボールは敵陣の後方に向かってきれいなカーブを描いた。スポーツマン風な見た目をしているが、やはり運動神経はいいらしく悠人のチームは順調にトーナメントを勝ち進んでいる。

 悠人は六月のあの日から廊下ですれ違ったりすると声をかけてきてくれたりした。彼はいつも人に囲まれていて、明るい笑顔を振りまいている。あのカフェで連れていた女生徒は彼女というわけではなく、仲のいいガールフレンドの一人と言っていたが、確かに彼の近くにはいつも違う女の子がいた。悠人のチームがセットポイントを取り、ベンチに戻っていくと何人かの女生徒が彼のにタオルやら飲み物やらを渡している。チームの男子生徒と談笑しながらも女の子たちにもさわやかに受け答えしているようだった。

 ふと、悠人が顔を上げると僕の右後方くらいに向かって手を振っている。その視線の先に目をやると、向居さんが一人で座っていた。

 そうなのだ。最近1年生の校舎でやたらと見かけるけど、なぜか彼女と一緒にいることが多いのだ。先週は学食で二人で向かい合ってランチを食べていたし、昨日は同じバスに乗り込むところを見かけた。

 結局まだ一度も向居さんと話せていない自分のことは棚に上げて、もやもやとした気分になる。コートに視線を戻すと悠人のチームはもう誰も残っていなかった。

 これは……話しかけるチャンスなんじゃないか。向居さんは相変わらず一人で座っていてぼんやりと試合を眺めている。周りの生徒はまばらだし、向居さんはまだバッチをつけているところを見たことがない。彼女の細腕で僕に危害を加えられるとはとても思えないし。

 心の中で言い訳をしながらぎくしゃくと立ち上がる。心臓が口から飛び出そうなくらいバクバク音を立てているのが分かる。彼女の座っている列に移動し、ゆっくりと近づく。あと3席ほどの距離に近づいたところで彼女がこちらに顔を向けた。

「あ、あの……ここ、座っていい?」

声が情けなく裏返る。女の子に話しかけたのは生まれて初めてかもしれない。

「いいよ」

彼女が薄く笑いながら了承してくれた。隣に座ると彼女のほうから制汗剤を使っているのか、石鹸のような香りがした。これだけでかなり舞い上がってしまい、その後の会話に詰まる。どうしよう、何か話しかけないと。頭の中でぐるぐると彼女に聞きたかったことが回る。そのとき、二年男子バレーの決勝戦のアナウンスが流れ、ホイッスルの音とともにコートの中に悠人のチームが戻ってきた。

「あのさ、悠人さんと付き合ってるの?」

……あ。考えていた中で一番最初に切り出してはいけない質問をしてしまった。

「わあああああ、ごめん、急に失礼なことを……」

わたわたと弁解する。どうしよう、絶対に引かれた。僕の慌て方がよほど滑稽だったのか、向居さんは噴き出してくすくすと笑った。

 やっぱり、笑うとかわいい。もともと目が大きく美形なほうだと思っていたけど、強すぎる眼力で損をしている気がする。

「付き合ってないよ。よく気にはかけてくれているみたいだけど。荻原君、前に二階堂さんに絡まれたんでしょう。それで私のほうにもちょっかい出すんじゃないかって気にしてくれていて。うちのクラスに二階堂さんの妹もいるから余計に気を使ってくれてるの。荻原君のことも心配してるみたい」

「あ、そうなんだ」

付き合っていないと聞いて少しほっとしたが、気にするのはそこじゃない。そうだよ、彼女も二階堂に狙われるんじゃないか。和史の体格では彼女を連れ去らうなんてことも簡単にできてしまいそうだ。

「大丈夫? 何か付け狙われたりとかしていない?」

一人でいるのは危険だからバッチを付けていない友達を作ったほうがいい、と言おうとして飲み込む。そこまで言ってしまうのは余計なお世話になってしまうだろうから。

「うん、今のところは何もないかな。最悪声をかけられたら生徒会に入ってることにしようと思って緑のバッチは持ち歩いている」

そういうと彼女はポケットからバッチを取り出した。なるほどそういう逃げ方もあるのか。

「クラスメートたちもこれでも気を使ってくれているんだよ。特に編入生の子たちとかは最初の頃は結構話しかけてくれたし……。でもクラスメートの大体はもうバッチを付けていたし、バッチ持っていないキャリアの子たちはあんまり巻き込んじゃいけないと思って。だからなんとなく一人でいたんだけどね」

 そういって向居さんは小さくため息をついた。

「あ、あ、ごめん。話しかけるの迷惑だったかな……」

彼女の様子にびくびくと言葉を返す。大丈夫だろうか、皮肉のように聞こえていないだろうか。彼女はまた口元に手を持っていきくすくすと笑った。

「そんなことない。ずっと荻原君と話したかったし。……それよりなんでそんなに緊張してるの、おかしい」

彼女はそのまましばらく笑い続けていた。なんだろう、そんなに挙動不審だっただろうか。少し肩の力が抜けて、僕も思わず笑いだす。

「……ねぇ、荻原君。なんでまだどこにも入っていないの」

 向居さんが急に笑うのをやめてまじめな声色でそんなことを聞いてきた。

「……え? なんでって」

「あの生徒会長の話を聞いて思ったんだけど、たぶんどこかに入ってしまうことが一番安全な気がする。無理やりトランサーにされるかもとかも思わなくもないけど、青や緑だったら交渉しようがありそうな気がするし」

そこまで言うと向居さんは黙り込んで、うつむきながら足を浮かせてぶらぶらと揺らした。確かに考えなかったわけではないのだ。生徒会の仕事は面倒くさそうだけどいったん緑に入ってしまおうかと思ったこともある。生徒会長とは入学式以来まともには話していないが、無駄に勧誘してこない分信用できそうな気もする。でもやっぱりまだわからないことのほうが多いし、何より利用されているようで癪だ。諒太も心配してくれているし。僕はまだどこにも入る気はないよ、と言おうとしたその時。

「……なんてね。私もまだまともに緑と青の人としか話したことがないし、どこまで本当のことを言ってるのかも分からないし。全体的に得体のしれない一族だからできれば関わりたくないかな」

彼女は眉をハの字にしながら苦笑する。その表情から、彼女が何か本音を飲み込んだような気がした。きっといろいろと一人で考えて、それをまだ誰にも話せていない。きっと僕にもまだ本当に言いたいことは話せないのだろう。

「ねぇ、向居さん」

ぐっとこぶしを握りしめる。かっと顔が赤くなる感じがしたけど、ここでちゃんと伝えておかないと。

「これからもたまに話したりできないかな。困ったこととか、嫌なこととかあったらお互いに話したいんだ。ほら、僕たち一番……なんていうか、境遇が近いというか……えっと、親近感があるというか……その……」

 体に石ができてしまったもの同士、支えあえたら。ただそれだけを伝えたいのに言葉がうまく出てこない。本は結構読んでいるはずなのに、自分の語彙力のなさに嫌気がさす。

 僕の情けない様子を見て彼女はしばらく呆けた顔をしていたが、すぐにくすくすと笑いだした。

「だからなんでそんなに緊張しているの。もう、笑わせないでよ」

しまいにはお腹を抱えて笑い出す。そんなにおかしいか。しょうがないだろう、こちとら女子とまともに話したことなんて片手で数えるくらいしかないのに。

「ありがとう、私も話したい。本当はいろいろ不安だったの」

向居さんは笑いすぎて目元ににじんでいた涙を指でぬぐいながらそう言ってくれた。その瞬間、なぜかひどくほっとした。一人じゃないと思えた。――ああ、僕も彼女も、入学式のあの日からずっと一人でいることにおびえていたんだ。


 その後も僕は向居さんと話し続けた。二階堂に絡まれた日の詳細や、諒太から聞いた四日谷一族についての情報、また最近読んだ本や面白かった映画についても話せた。気になっていた女子とこんなに楽しく話せるとは思っていなかった。僕は彼女との会話に夢中になっていた。だから気づいていなかったのだ。観客席からはコートも運営席もよく見える。つまりはその逆もまた然りということに。

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