8日目

 ハンパない眠気を殺しながら体を起こす。月曜日の朝。僕が一番嫌いな朝。

 携帯のアラーム音が無遠慮に鳴り響く。僕は手探りだけでそれを止める。

 一限からあるので六時には起きないと間に合わないのだ。

 さっさと行動したいのだが、昨日知ってしまった事実を未だに受け入れられずにいた。

「学校、行く気になれねぇな」

 弱々しく吐く。

 それと同時にピコん、とLIMEが送られてきたことを知らせる通知音がなった。

 誰だよ、と思いながら表示される名前を確認する。《千尋》。

 心臓が跳ね上がる。ど、どうしてこのタイミングで……。

 全身から冷や汗が流れる。

『今日は学校、サボっちゃダメだよっ!』

 内容を確認すると、そう送られていた。

 僕の心境が読み取られているような内容でタイミングだ。

「どっかで見てる……とかはないよな?」

 部屋中を見渡す。とりあえずそういったことは無さそうだが、相手が相手なだけに不安がよぎる。

 一抹の不安をかき消すように僕は「あっ!」と叫び、学校へ行く準備を整えていく。満員電車に揉まれることを頭をよぎり、ゾッとする。

 それでもお決まりのパンとインスタントコーヒーの朝食を流し込むように食べる。

 胸中は不安の渦が取り巻いているが、僕はそれを気にしないようにした。

 * * *

 一限を終えると僕は恒例行事のごとく、図書室へと足が向かう。無意識的に足が向かう。

 そして図書室へと着いた僕は先週と同じ五十代半ば程の白髪混じりのおばちゃんに学生証を見せる。おばちゃんは一週間経っても学籍番号を打ち込むのに慣れた様子は無く、人差し指で一文字ずつ丁寧に打っていた。

 思い出すな、ちょうど一週間前のこの時間。可憐でモデルのようなスタイルの千尋と会ったんだ。

 思い出に浸っているうちに番号の打ち込みが終わっていたようで、おばちゃんに何度も声をかけられていた。

「すいません」

「いいのよ。ゆっくりしてってね」

 嗄れた声で告げる。おばちゃん、こんな声だったんだな。

 とりあえず中に入り、本を探すことをせずに先週、千尋によって座られていた僕の特等席に腰をかける。今日は空いていて、ホットした。

「これからどうすっかな」

 見上げながら呟く。何故かこのまま見つめていたら天井を透かして宇宙まで仰げるような気がした。

「だーれだ」

 視界が奪われ、そんな声がした。聞き覚えのある、いつも僕を落ち着かせてくれている声が僕の耳元でした。

 視界を奪ったのは声の主の手のひらだ。暖かく、紛れもなく血の通った人間の手だ。

 それを感じることで安堵を覚える。

「千尋……だろ?」

 しかし全ての不安を消し去ることはできず、声が少し上擦ってしまった。

「せーいかーい!」

 図書室に似合わない楽しげな声でそう言う。

 嬉しい、というより何故ここにという気持ちのが大きかった。

「ねぇ、今から時間ある?」

「えっ、……うん」

 弱弱しい笑顔を見せてから千尋は言った。

「よかった。じゃあ、ちょっと付き合って」

 これで最後にするから。

 千尋が最後にそう呟いたことに僕はその時、全く気づかなかった。

 * * *

 彼女が僕に付き合ってほしいと頼んできた場所は僕が昨日一人で歩き回った街だった。

 二人で降り立った夘時駅。

 ほんの数日前に二人で来た時にはこんな気持ちにはならなかったのに……。

 楽しく、わくわくしてたあの頃と違い、今日は珍妙な気分で不安が掻き立てられる。

「ここ、覚えてる?」

 駅から出て、千尋が指さしたのは二人ではじめてここに来た時に僕が頭痛を訴えた場所。

 駅前にあるとは思えないほど閑静な公園だ。

「覚えてるよ。僕が気失った場所だよね」

 確認の意をとる。しかし、千尋は僕の思っていた行動とは違ってかぶりを振った。

「違うの?」

「違わないけど、違う。もっと他に覚えてることない?」

 普段見せない儚い表情。指先で触れるだけでも崩れ落ちてしまいそうな、そんな感じがひしひしと伝わってくる。

「わからない。覚えてないっていうのは違う気がする。薄らとだけど、何かあったという断片的なことが脳裏をかすめるんだ。でもだからといって話せることがあるか、と言われるとそうでもないんだ」

 自分の中の全てを吐露する。千尋は真摯にその言葉を受け止め、「そっか」と漏らした。

「私の……」

 千尋が何かを付け加えたのがわかった。でも僕は、それを追求することなくただ黙っていた。

 二人の間に流れる沈黙は怖いくらいに長かった。

 互いに言葉を発そうとしない。言葉を発さないから見つめ合うなんてことをするわけでもなく、互いがそれぞれに違う景色を見つめていた。

「なあ」

 その沈黙を破ったのは僕だ。

「記憶にある昔話をしていいか?」

 千尋は目を丸くし、驚く。

「……う、うん」

「名前も覚えてない。けど恐らく僕が小学校一年生の時だ」

 学年を聞いた彼女はわかりやすく反応する。それを横目で確認しながら言葉を紡ぐ。

「仲良くしていた同じ年頃の子がいたんだ。そして僕らはよく夕方までこの公園で遊んでいた」

 ここで一旦言葉を切る。千尋は何も言わず黙って僕が続けるのを待つ。

「そこでさ、オレンジの燃ゆるような夕焼け空を見たんだよ」

 頭が締め付けられ始める。少し顔を歪めながら僕は続ける。

「茜色が闇色に染められるまでずっとずっと、馬鹿みたいに見てた。それで夏には星も一緒に眺めたんだ」

 千尋の表情が愁いの色に染められていく。

「その子は星、好きだったの?」

 千尋が訊く。哀しみがまとわりついた声だ。

「あぁ。アルタイルが好きだった。夏の夜空に一際明るく輝き、煌めくアルタイルが好きだった」

 春の夜空にアルタイルを探す誰かが思い起こされる。

「そ、そうなんだ」

 そう相槌をうつ彼女の瞳からは涙がこみ上げている。

「それで小学校二年になる時に僕は引越しをすることになったんだ。県外とか海外とかそんな大きなことじゃなくて、二時間弱離れたところにだったんだけど……。当時の僕たちには永遠の距離にすら感じられたと思う」

 千尋はうんうん、と遠い昔の記憶をたぐり寄せるかのように頷く。

「それでさ、僕は両親に反抗したんだ。引越しをやめることを。仲良かったその子と離れないで済むように」

 昨日アルバムを見たことで蘇った断片的な記憶をペラペラと話す。ここまで話しても気が飛ぶような頭痛に襲われることもなく、自分でも驚くほどに次々と思い出が口から出る。

「私も……、そう願った」

彼女は小さく言葉を落とす。

「それで約束したんだ。《結婚しよう》って。小学生が思いつきそうなことだよ。親から離れて誰かと一緒にいる方法をそれしか知らないんだから」

 自嘲気味に語る僕を千尋は「そんなことない」とフォローしてくれた。

「でも今ならもう少し違った方法が取れてた気がするよ」

「それは……そうだね」

「だろ? まぁそんなことよりも、僕はその子と一緒に暮らすと言ってその子の家に行ったんだ」

 僕は記憶が薄い部分を語り始める。突然として頭痛が訪れる。

「って……。んはぁー、はぁー」

 激しい痛みに言葉が紡げなくなる。

「でも、その子の親は君の親にそれを伝えていて、作戦失敗に終わった。でしょ?」

 千尋は僕の代わりに言葉を繋げ、訊く。

「あぁ」

 痛みをこらえ、やっとの思いで声を絞り出す。

「それで、それがどうしたの?」

 千尋は優しい口調でそっと訊く。

 僕は痛みが和らぐのを少し待ってから口を開いた。

「その……その子が、君なんだ。千尋」

 天上の一番高い位置にまで来た太陽が僕たちを真上から照らし出す。

 灼熱を帯びた不可視の光が僕たちの肌を焦がす。僕はただ千尋が言葉を放つのを待つ。

 どれくらい経っただろう。頬は熱を帯び、赤くなっているのが分かる。

「そっか」

 それだけ待って彼女から発せられた言葉はそれだけだった。

 愁いを帯びた哀しみの篭った声だった。

「思い出しちゃったんだね」

「あぁ」

 突如として千尋が瞳からは真珠のような綺麗な水玉を涙として流す。

 思いもよらない彼女の行動に僕は戸惑う。

「えァ……えっと……」

「らいじょうぶだよ」

 とめどなく流れ出る涙を手の甲で拭い、千尋は小さく答える。

「で、でも……」

 僕は心配になり、一歩千尋へと歩みよる。しかし、千尋はそれを拒むように一歩退く。

「ごめん、でも……。もう、会えないや」

 千尋はそれだけ残して駆けていった。

「えっ……」

 千尋の言葉の意味を一瞬で理解することができず、彼女を追いかけ出すまでに数秒のタイムラグがあった。

 でも僕はまだ追いつけるとタカをくくっていた。相手は女性。陸上選手とかなら話は別だが、普通の人なら追いつけると、そう考えていた。

 しかし、それは甘かった。公園から出た彼女を追うように僕も数秒後に公園を出た。そして辺りを見渡す。だが、人の姿なんて見えやしない。耳をすませても地を駆ける音も、荒い息遣いも聞こえてこない。

 でも僕は簡単に諦めることはできず、公園周辺を疾駆る。

 午後の授業をサボり、手当り次第に探し回ったが夕刻をすぎる頃になっても探し出すことはできなかった。

 * * *

 自宅についた時、外は既に暗黒にのまれていた。そして空には白く丸い月が浮かんでおり、暗黒に一点の光を与えていた。

 まだアルタイルは見つけられない。

 もうあと一月も経てば見られるようになるだろう。

 ドアの開く軋み音が鳴る。聞きなれたそれを耳にしながら僕は部屋の中へと入る。

「はぁー、疲れた」

 ため息と同時に言葉をこぼす。

 そしてLIMEが届いていないかチェックする。来ていたのは工からだけで、本命の千尋からは来ていなかった。

『話したいことがある、明日お昼。大学図書館で会おう』

 なんて送ろうか悩んだ末にこう送った。実際話はあった。今日のこと、何にも解決してない。あと少しで分かったかもしれないのに。僕はあと一歩が怖くて踏み出せなかった。でも、怖かったのは僕だけじゃなかった。その場にいられなくなり、逃げ出したってことは多分彼女も怖かったんだ。

 都合のいいように解釈してるってことは分かっている。でも、そうであって欲しいと僕は強く願っているのだ。千尋が千尋ならば。

 しかしこの日、千尋から返事が来ることも既読がつくことも無かった。

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