6日目

僕は背中にいつもと違う感触、痛いような感じがして目が覚めた。

 昨日の寒さが嘘のような、朝からじっとり汗をかくほど熱い朝だった。

「いって……」

 僕は背中を擦りながら目をこする。床に一枚タオルケットを敷いて、その上で寝ていたのだ。そりゃあ体も痛いはずだ。

 そしてベッドには千尋がすやすや寝息をたてている。

 そう、昨晩、僕たちはひとつ屋根の下で過ごしたのだ。別にこれといったこともせず、大人の階段を登るわけでもなく、ただ普通に一人ずつお風呂に入り、別々の場所で眠っただけだった。

 僕は大きく伸びをすると、立ち上がり寝巻きから着替えた。

 白い半袖Tシャツにジーパンといったシンプルな格好になると、いつものようにテレビをつけた。

「うわっ、今日土曜日か」

 すっかり忘れていた日付を平日なら必ずやっている朝番組が違っているのを目にして遅いながらも気づく。

 千尋が寝ているので大きな音をたてることを諫なわれる。

「どーするか」

 八時十六分の表示を見ながら小さく零す。

「んっ」

 そんな時、千尋のあでやかな声が僅かに漏れた。

「んんーー」

 それから大きな声が聞こえたので、振り返ると千尋が座って大きく伸びをしていた。

「あっ、おはよう。朝、早いね」

 僕の視線に気付いた千尋がそう言う。

「おはよう。早いってほどじゃないよ」

 八時だしね、と笑顔で答える。

 これが恋、というもので付き合ってるって言うのかな。僕はそんな事を考えてしまう。

 ぐぅー、と僕の腹の虫が鳴る。千尋は無邪気にケラケラ笑う。

「お腹、減ったね」

 そうだな、と答えると僕は炊飯器の中を確認する。もちろん空だ。

「空かー。パンも昨日食べちゃったな」

 あちゃー、という感じに頭を掻く。

「じゃあ、一緒に買いに行こ!」

 パッと立ち上がりながら千尋は言う。

「着替えるから、こっち見ないでよ」

 寝巻きとして貸した僕のTシャツに手をかけながら言う。ぶかぶかのTシャツから覗く千尋の谷間にチラチラと目がいってしまうのを抑えるの大変だったな、昨夜のワンシーンを思い返し、

「わかってる」

 と呟き、後ろを向く。

 予備の服なんてあるわけないので昨日の服と同じ物に着替えるようだ。

 服を脱ぐとき、布の擦れる音がした。服を脱いでいると分かっているので、その音が妙にエロく感じる。

「あーあ、後で服買いに行きたいな」

 同じ服を着るのが嫌なのか、服を着替えながらそんな事を漏らした。


 * * *


 近くのコンビニまで並んで歩いた。もちろん手をつないで。

 たかがコンビニ位でって思うかもしれないけれど、僕にとっては産まれて初めて出来た彼女だ。舞い上がらないわけがない。朝から上がるテンションに、嘲笑を浮かべコンビニに入る。


「ねぇ、これにしよっ!」

 コンビニ内はよく冷房が効いており涼しい。昨日までだったら寒かっただろうな、と思いながら千尋が手に取ったミニメロンパンを一瞥して、

「そんな小さくていいのか?」

 と訊く。

「朝からはそんなに食べられないよー」

「そうなんだ」

 女子ってそんなもんなんだ。

 初めて知ることに、感嘆ししながら僕はカツオのおにぎりとチョココロネを手に取る。

「何その異色的な組み合わせ」

 千尋はぎょっとした顔で訊く。

「もちろん別々で食べるけどさ、僕この二つどっちも好きだからさ」

 千尋は不思議な視線を僕に向けながら、私は食べないからいいけどさ、と呟く。

 それを気にせず、族はレジに向かう。

「ほら、千尋のミニメロンパンも出して」

 店員の前でそう言った。何だか見せつけているようで恥ずかしい気がしたけれど、それでもやってみたかったのでやってみる。

 千尋も満更じゃなく、嬉しそうに手に持ったミニメロンパンを出した。

 店員は若い男性だった。おそらく年代は僕たちと変わらない。故に、その男性はその様子に苛立ちを覚えたらしい。軽く舌打ちをされた。だが、そんなことは全く気にならない。

「ありがとうございました」

 支払いを終えた僕らに、怒り、という気持ちが大いにこもった言葉が投げられた。


「いただきます」

 僕の家に戻った千尋にインスタントコーヒーを淹れ、自分用にお茶を用意した。

 そしてその声と同時に千尋はミニメロンパンを、僕はカツオのおにぎりを頬張った。

 パリッ、というコンビニおにぎり特有のノリの音が心地よく響く。

「うん、やっぱりこの味だよな」

 焦げ茶色のカツオのおにぎりの具が露わになった所を僕は見つめながら言う。

「一口もーらい!」

 千尋は体を乗り出し、僕の食べさしのおにぎりにかぶりついた。

「ん、美味しいね」

 えへへ、と笑う。

「お礼に、私のも一口あげる」

 ただでさえ小さなメロンパンが更に小さくなったものを僕に差し出してくる。

 こ、これって……、間接キスってやつだよな。

 そんな中学生が思いそうなことが頭の中をぐるぐる回る。しかし、これぐらいでたじろいだら情けないだろう。そう思い、遠慮気味にかぶりつく。

「サクっとしてる」

 思いのほかにサクサクしていて驚く。

「でしょー」

 千尋は誇らしげに言う。そこがまた果てしなく可愛い。

 恋愛モードになると、いつも以上に可愛く、愛らしく見えてしまう。その人だけが特別になる。初めての経験だからかな。それともみんな『恋』するときはこんな感じなのかな。

 残り少なくなったおにぎりを食べながら僕は恥ずかしながらそんな事を考えていた。

 * * *

「ねぇー、どこか行こっ」

 お昼が近くなった頃、千尋はそんな提案をしてきた。

「そうだなー」

 気の抜けた返事をする。だが、それは遊びに行きたく無いわけじゃない。むしろ行きたい。じゃあ、何故こんな返事をしたのかと言うとどこに行けばいいのか分からないからだ。

 桜シーズンはもうほとんど終わり。どこの桜も緑が八割、ピンクが二割ほどで緑が圧倒的に強いのだ。

 僕はそれはそれで趣があっていいと思うのだが、彼女という存在と一緒に見るならやっぱりピンクがいい。

「何よー、その気の抜けた返事ー」

 芸能人のような整った顔立ちの千尋が顔を近づけ、少しむっとした表情で言う。

「あぁ、ごめん。どこ行けばいいのかなーって考えたから」

「ほんとー?」

「ホントだって」

 なら良し、と千尋はまじり気ない笑顔を浮かべる。

「それなら私、行きたいとこあるの」

 * * *

 千尋の行きたいところ。それは映画館だった。

 千尋は《偽りなき愛》という純愛映画が見たいらしい。それは、十五年前、《真実の愛》というタイトルで公開されていたもののリメイク作品だ。僕は彼女のその案に乗り、僕たちは最寄りの映画館に向かった。ローカル電車を三つ乗った所にあるこじんまりとした映画館。僕たちはそこで前から五番目の席を購入した。

 僕の右側に座る千尋。映画を見る際、隣に女性が座ることはあった。だが、好きな人が、恋人が隣にいるのは初めてだ。あり得ないほどのドキドキが僕を蝕む。

 隣に座るや千尋は僕の右手を軽く握った。

「こうすればずっとお互いを感じられるでしょ」

 口が裂けても言えないような恥ずかしいセリフを千尋は顔をこれ以上ないほど赤らめながら言った。

「お、おう」

 その恥ずかしさが繋いだ手から伝わってきたようで僕の顔も赤くなる。

 そこからはどちらからともなく話すことを止め、ただただ映画が始まるのを待った。

 周りからは二人は繋いだ手で会話しているかのようにも見えたかもしれない……。

 * * *

「おもしろかったね」

 千尋は目尻を赤くしながらシートから立ち上がる。それに続いて僕も立ち上がる。

「あぁ。感動した」

 長年付き添った妻が実は、幼少期に出会ったことがある少女だった、というラストシーンがこれまでの流れから涙を誘われた。

「だね」


 映画館を出たをときには太陽が傾きはじめ、空はオレンジに染まっていた。

「もうこんな時間だね」

 予想以上に長かった映画を思いながらポツリと話す。

「そうだね。もう四時だよ」

 可愛らしいピンクの腕時計をちらっと見ながら答える。

「服、買いに行かなくていいか?」

 僕はふと今朝の千尋の一言を思い出し訊く。

「えぇ!? 行きたいっ! でも、いいの?」

「いいよ。行こっか」

 そう答え、自然とどちらかともなく手を繋いだ。

「えへへ、何か変な感じ」

 千尋が夕焼けの空に負けない色に頬を染めながらポツリと言う。

「そうだな。この間までの僕なら女の子と手を繋ぐ事すら一生出来ないって思ってたのに……。今はこんな……可愛い……彼女がいるなんて夢……みたいだ」

 それを聞いた千尋は嬉しそうになる、わけではなく寂しそうな、悲しそうな表情になった。

 僕は不思議に思い、それを訊こうと思った刹那、千尋が口を開いた。

「そーなんだ。私もこんなにも好きな人と一緒にいられるなんて……」

先ほどまでの悲しげな顔が嘘かのように最大級に照れた、幸せそうな顔で告げる。

 それから十五分ほど歩いたところにある大手ファッション店に入った。

 彼女が店にいるだけで店が華やかに見えた。僕はそれを微笑ましく思いながら、後ろにつき、彼女の背中を眺める。


「うわー、これも可愛い!」

 千尋は次から次へと僕好みの服を手に取り、可愛い声を上げる。

「おぉ、それ似合うと思う」

 僕は千尋が手に取っていた胸のあたりに小さなリボンの付いた白いワンピースと彼女の顔を交互に見て言う。

「そう? えへへ」

「試着する?」

 僕はそのワンピースを着た千尋を見たい、という気持ちからそう言ってみた。

「うん!」

 そんな僕の気持ちを知ってかどうかは分からないが、千尋は大きく頷き、白いワンピースを片手に小走りで試着室に入った。

 僕はその前で心躍らせながら千尋が出てくるのを待った。彼女は可愛く、美しい人だから、清楚な感じのあのワンピースは良く似合う、と思う。

 どんな感じになるのかな。期待と不安に塗れながら待っていると、不意にさぁー、というカーテンが開く音がした。僕は勢いよく振り返る。

 眩しいほど美しかった。まるで芸能人。モデル。いや、もう天使という表現でも足りないくらいだ。

 僕はそんな恥ずかしい考えを巡らせながら千尋に見とれていた。

「ど、どうかな?」

 顔を赤くしながら、恥ずかしそうにワンピースの裾をちょこんと持ち上げ、うつむき加減で訊く。そんな千尋が愛おしく、可愛いく、今すぐ抱きしめたい。そんな衝動に駆られる。

「よく似合ってるよ」

 僕は小さく、丁寧にそう告げた。

「そっか。じゃあ、買おっかな」

 恥ずかしそうにモジモジしながらそう言って、さぁー、とカーテンを締めた。

 それは僕に恥ずかしさを見せないようにしているようで、それがまた愛おしく思えた。

 着替え終わった千尋が出てくると、その白のワンピースを手にレジに並んだ。

 それを買うと時間は既に七時前だった。

「ごめんね、すっごい時間かかっちゃった」

 バツが悪そうに首裏を掻きながら言う。

「全然、僕も楽しかったよ」

「ほんと? ならいいんだけど」

 また手を繋ぐ。ごく自然と滑らかなに繋いだ。

 滑るような千尋の艶のある手から感じる温もりは僕の心を大いなる安心感で満たす。

「ご飯食べて帰る?」

 僕は訊く。

「そう……だね」

 千尋はそう答え、僕たちはすぐそばにあるファミリーレストランに入った。

 僕はハンバーグを千尋はスパゲティを注文した。

「美味しい」

 千尋は丁寧にフォークに巻き、スプーンに置き、音を立てずに食べる。優雅で華麗で上品な食べ方。

 思わず見とれてしまうほどだ。

「あぁ、美味しいな」

 僕は上品の欠片もない食べ方をする。ナイフでハンバーグを切ることをせず、代わりにフォークで切るという千尋に釣り合うことのない食べ方。

「美味しそうに食べるね」

 そんな僕に千尋は優しく話しかける。

「そ、そう?」

 僕は嬉しくなり、鼻の頭を掻く。

 そこから他愛もない話をしているうちに皿の中は空になり、とうとうお別れの時間が来てしまった。

 悲しくもあるが、また明日がある。そう思ってしまう僕の思考が甘く、浮かれてるなと思う。だからこそ、駅の前で手を振り別れる時、笑顔でいれた。僕と千尋は上りと下りで乗る電車が違う。もし……、もし同じ方向ならもう少し一緒にいられたのに。

 心の中でそう思いながら違う方向の電車に乗り込んだ。

 それから数分後に千尋からLIMEが入った。

『楽しかったー』

『僕も。服、よく似合ってたよ』

『ありがとう! 工くん、好き』

 不意打ちのような一言に僕は電車の中で一人照れ笑いを浮かべてしまった。

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