5日目

 ひんやりとした四月の朝の風が僕の頬に触る。

「四月だってのに寒いな……」

 テレビをつけながらぼやく。

『季節外れの寒い朝となっております』

 天気予報士の三十代の男が中継でテレビ局の外に出ており、白い息を吐きながらそう告げている。

『息、白くなってますねー。今朝はそんなに冷え込んでるんですか?』

 中継を見ながら司会者の若い男性がそう訊く。

『そうですね。今朝は、最低気温五度を記録しています』

 それを聞いて僕は思わず顔をしかめる。

「そりゃあ寒いはずだ」

 僕の言葉は司会者のセリフとぴったりかぶった。

その事に僕は思わず笑みが滲む。

 時刻は午前七時。週末、金曜日の朝は明日、土曜日という学生にとっては神同然の日に心を踊らせる日だ。

「明日休みだからなー、工から飲み会誘われるだろうな」

 恒例行事となった僕と工の飲み会。僕達二人に加え、毎回異なる顔が工に連れられおおよそ四、五人で飲む。

 ピコン、とスマホが音を立てる。

 ポップしているのはLIMEのメッセージが届いたという表示。相手は噂をすればなんとやらという工だった。

『やっほー。今日も行くぜー。今回は井上さん連れてこいよー』

 こんな時間に起きているのは珍しいな、と思いつつも僕はすぐに既読を付け『了解』と返事をした。

 それからトップ画像がいつの間にか昨日恋閣神社で買った恋愛成就の御守りの画像になっている千尋の個人トーク画面を開く。

 何度も文章を推敲する。おかしくないかな、伝わるかな。いつもは考えない事がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

『今日の夜、飲みに行きませんか?』

 幾度となく打っては消し、打っては消し、を繰り返し、最終的にシンプルな文を送った。

 暫くの間、僕はその画面から戻らずじーっと送った文を見つめていた。しかし、一向に既読が付く気配がない。

 不安と焦燥感に襲われながらも僕は既読が付くのを待つのは止め、アプリを落とした。

 ずっと待っていたいが、なんだかいつまでも既読がつかないような気がしてた。

 それに加え、今日は講義がある。

 一限と三、四限だ。空いた二限は図書室に行きたいが、今日はまた別の用件がある。そちらが優先だ。

 一限は情報活用。特に必要な物が要らない講義だが、パソコンの使い方や情報リテラシーなどが詳しく説明される。はっきり言って眠たいやつだ。

 僕は何度も寝落ちしそうになりながらも、どうにか堪えて乗り切ると、大事な要件を遂行すべく学校を出る。

 向かうは一駅先にある居酒屋さんだ。芭蕉ばしょうという名の居酒屋さんは電話予約が出来ず、直接行かないといけないのだ。

 毎週毎週飲みに行く僕らは、最初はどこでもいいと思っていたのだが、回数を重ねる毎にいろんな店に行きたい、ということになり、毎週交互で店を予約するという決まりを決めた。

 そして、今週は僕が店を予約する番だったのだ。めんどくさいな、と思いつつも電車に乗り、店の至る所に置かれた松尾芭蕉の一句に目を奪われながらも、店員さんと話を進め予約を済ませた。

 それからそのすぐ近くにあるファーストフード店でハンバーガーを食べてから大学に戻り、三、四限の実習講義を受けた。とりわけ好きでは無いが、将来を見据えて製図基礎を受けているのだ。線の太さや何やので正直かなり精神を削る。

『了解だよ』

 そして今頃になって千尋から返事が返ってきていた事に気づく。返信されていたのは十二時三十分となっている。あぁ、ちょうどハンバーガーを頬張ってた頃か。お気に入りのテリヤキバーガーを食べて喜んでいた自分を恨めしく感じながら返事を打つ。

『芭蕉って居酒屋さんに七時からなんだけど……、場所わかる?』

 今度はすぐに既読が付き、返事が来た。

『ごめん、分かんない』

 頭を下げている顔文字が続いて送られてくる。

『じゃあ、大学図書館まで来れる?』

『うん! じゃあ、大学図書館に六時四十分位で大丈夫?』

 僕は親指を立てた熊の公式キャラクターのスタンプを押してオッケーの意を表した。

 時間は四時二十二分。千尋との約束の時間までまだ時間がある。僕は図書室へと向かった。

 そこで僕は彼女の姿を目にした。

 適度にお洒落な格好をした、大学図書館という場所には少々釣り合わない清楚で可憐な千尋がそこには居た。

 僕は面をくらったようにそこに立ちすくんでいた。

 どこにいる、といった質問はしなかった。たまたま近くにいて、時間潰しで約束の場所にいたのかもしれない。でも、僕は何だか不安を覚えずにはいられなかった。

「もう居たんだね」

 でも僕も大人じゃない。好きな人がいれば声をかけたくなる気持ちに勝るものは無い。しかし、その声はどこか震えたものだった。

「うん。たまたま近くに居たからさ、本でも読んでようかなーって」

 いつものような屈託のない笑顔、ではなくどこか引き攣った笑顔のように思えた。


「ここにいる?」

 隣の席に腰を下ろすように、手招きをする千尋。それに従い、千尋の隣に腰を下ろし、同時に千尋がそう訊いた。

「そう……だな……」

 曖昧な返事をする。僕の頭の中にはそんな事を考える余裕が無かったのだ。

 本当にたまたまだったのか。それよりも、彼女には何かあるような……気がするようなないような。

「ねぇー、聞いてるー?」

 不意に顔を近づけられ、僕は驚き後ろへと下がる。しかし、背もたれにひっかかり僕は大転倒を起こす。

「だ、大丈夫??」

「あぁ、うん」

 彼女は薄く笑いながら心配の声を洩らす。

 まぁ、そんな難しい事無しに純粋に千尋との時間を楽しめばいいか。

 そう考え、大丈夫だという旨を伝える。

「とりあえず、芭蕉の近くまで行くか」

 寝転んだまま僕は提案した。

「うん」

 千尋は手を差し出しながら返事をした。


 * * *

 芭蕉の最寄り駅、夘時駅ほうじえき。飲み屋などの多い街でこの辺りでは有名だ。僕は滅多に来ないため、このあたりについては詳しくない。

「ここ。多分、来たことある」

 千尋は懐かしむような目で景色を眺め、ぽつりと零す。

「えっ……」

 千尋のその言葉に驚き、僕も辺りを見渡す。まだ開店前の店が並んでいる。そして駅の真ん前に閑静な公園が1つあった。

「あれ、あの公園……」

 知っているような気がする。でも、それを思い出そうとするとぐぅ、と頭が締めつけられるような痛みが襲う。それはまるで、西遊記の孫悟空が三蔵法師によって頭につけられた緊箍児きんこじに締め付けられているようにさえ感じる。

 まるで思い出すな、と言われてるかのようだ。

「ねぇ、ねぇ、ってば!」

 頭に生暖かさを感じる。僕は気を失っていたようだ。そっと目を開ける。心配そうに覗き込んでいる千尋と、千尋の二つの胸の膨らみが目に入る。

「んっ、僕……」

「心配したんだよ! 急にうなされて、倒れちゃうんだから!」

 目を赤くして訴えてくる。どうやら本気で心配して、涙まで流してくれたようだ。僕は、そんな人を疑っていたのか……。

 後ろめたい気持ちを押し殺し、ありがとう、と告げた。

 公園の中のベンチの上で、千尋に膝枕をしてもらっていた。僕はその事だけで、心が高ぶって、意識があるときにやってほしいなって思った。

 時間はもうすぐ六時となる。かなりの間、気を失っていたようだ。

「ほんと、ごめんね」

 もし僕が意識を失わなければ、二人で一緒にどこかに行けたかもしれない。それを思うと、本当に申し訳なくなって、なんて言葉にすればいいか分からず、ただ謝ることしかできなかった。

「うんん、謝ることなんてないよ。でも、本当に休んでなくて大丈夫?」

 心配そうに訊く千尋に、僕はゆっくりと体を起こし、

「あぁ、それは大丈夫だよ」

 精一杯の笑顔で返した。


 * * *


 薄明かりの下で生ビールのジョッキを持った男女が高らかに声を上げる。

「かんぱーい」

 焦げ茶に染めた髪、少し垂れた丸目の猫を思わせるような整った顔をもった男が僕の前で豪快にジョッキの中身を飲み干す。

「っぷはー、やっぱり良いよなー酒は」

 愛嬌のある笑顔で空のジョッキを見つめながらそう言う。

「工、まだ未成年だよな?」

 ジンジャーエールの入ったジョッキを片手にそうボヤく。

「かてーこと言うなよー。周りのヤツらもよく飲んでんぜ?」

 おかわりー、と空になったジョッキを掲げ、工は遠慮もなく言う。

「私もダメだと思うな」

 オレンジジュースを口に含んだ千尋がポツリと呟く。

「あれ、井上さん。お酒飲まないの?」

 一杯のお酒なんてものともしない工は千尋に訊く。

「うん。私もまだ未成年だから。十九歳。あと一年したら飲めるんだけどな……」

 一瞬、悲しげな表情に変わる。しかし、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「でも、ほら。茉莉奈まりなは飲んでるぞー」

 工は自分の隣に座っている金髪のどこからどう見てもギャル系の女に声をかける。

「ウチは飲めるに決まってんじゃん?」

 ぱっちりと大きな目が工を捉える。

「知ってる。っとまぁ、ここらで自己紹介いっとくかー」

 茉莉奈の頭を撫でながら言う工。茉莉奈は嬉しそうに顔をくしゃくしゃっとしながら「もぅ」とだけ言う。

「んじゃ、俺から。俺は山上工やまがみ-こう。普通に山に上って書いて山上だ。工は工事の工だ。幸神大学一年の暇人です」

「ウチは上下茉莉奈かみしも-まりなでーすぅ。上下は上に下って書きまーすぅ。工の彼女やってまーすぅ。社会人一年目でーすぅ」

 こんなもので社会人はやっていけるのか、と疑問に思いながらも軽い拍手を送る。

「じゃ、僕は井上工。井上は普通に井上って書く。それで工は工と同じだ。それでえっと、僕も幸神大学一年です。よろしく」

 俯き気味に言い終えると、工と茉莉奈から少量の拍手が送られた。

「最後は私ね。私は井上千尋。普通に井上に千と千尋の神隠しの千尋です。歳はさっきも言ったけど十九歳。大学生でも専門学生でも社会人でも浪人生でもないけど、よろしくね」

 じゃあ一体何なんだ、と思いながら拍手を送ろうとした時、思い出したかのように千尋は加えた。

「あっ、それと……工くんの彼女になりたい人です」

 照れたように、ごにょごにょと零した。

 しかしその内容は、思わず口に入れていたジンジャーエールを吹き出しそうになるほどのものだ。

 やったじゃん、と言ったような熱い視線を送ってくる工。僕は盛大にため息をつきたいところだが、周りに人が居ることを考慮して、それを飲み込む。

「ねぇー、千尋さんだっけぇー? 二人の出逢いってどんなだったのぉー?」

 大分お酒が回ってきたのか、多少呂律が回りにくくなってきているのが分かる。

「えぇー、そんな恥ずかしいよ」

 恥ずかしそうにはしているものの、嬉しさの方が大きいようだ。

 それから話してもいい? というメッセージ付きの視線を僕に向けてくる。

 僕は恥ずかしさもあり、快諾するわけにはいかない。だが、否定するのもどうかと思い、しぶしぶそれを了承する。

 そこから千尋はフィクション混じりで僕たちの馴れ初めを話し始めた。

 そしてそれが一段落付いた時だ。

 千尋は空になったコップを指で弾いてから、僕の方に向いた。

「ねぇ、工くん」

 雰囲気に呑まれたのか、それとも馴れ初めを話したのが恥ずかしかったのか、少し顔を赤らめている。

 だが、それでも千尋の綺麗な顔を真摯に向けられると緊張する。

「は、はい」

 少し強ばった声になったのはそのせいだろう。

「私と……、私と付き合ってください!」

 先ほどの流れからただでさえ赤かった顔が、燃え盛る炎よりも紅く染まった顔をしている。

「っ……」

 突然過ぎて頭がまともに働かない。

 それは僕だけでなく、工も茉莉奈さんだってそうだった。

 そしてその言葉を理解した時には僕の顔は千尋のそれより紅くなる。

「えっ、えっと……、はい」

 不器用で不細工で、ハッキリとしない頼りない声音で僕はそう応えた。

 千尋はわかりやすく、表情を喜びに変え、よかった、と呟きながら軽く涙を流した。

 涙を流すほどのことなのか、と思ってしまうが僕は僕で夢でも見ているのでは、と頬をつねったりしてみた。

 うん、痛い。やっぱり現実みたいだ。

 僕なんかでいいのかな。承諾したあとでなんだが、そう思ってしまう。

 だが、彼女の涙は出逢って五日目とは思えないほど、長い思いを経てから実った恋のような、そんな思いのこもった涙のように感じられた。


 * * *


 結局そのまま僕たちは日をまたぎ飲んでいた。そして、店を出たのが一時十一分。一ばっかりで不吉だーっと笑いあったのはよく覚えている。

 そこで工と茉莉奈と別れた。どうやらラブホテルへと向かうらしい。土曜日だから一杯かなー、とか言いながら二人仲良く手をつないで行った。

「残されちゃったね」

「そうだな」

 ここで僕らもラブホテルに行くか、と誘える勇気なんてなく、帰るか、と情けない言葉を発した。

 工が聞いたならば、男が廃るなんて言われ兼ねないが、これが僕だから、と言い聞かす。

「うん、そうだね」

 千尋はそれに対して不平不満を言うことなく、頷いた。

 快速電車に乗り、十五分程で自宅の最寄り駅に着いた。

 千尋は更にもう一駅行った所で降りるのだが、快速電車ではその駅はスルーされてしまうので、一緒に降りる。

「あれ、もう電車ないや」

 駅内の電光掲示板に表示されているのは最終の新快速電車だけだった。

 この駅は利用率の高い駅だが、一つ先は利用率の悪い、ローカルな電車なので終電も早い。

「どうしよっかー」

 口先を少し尖らせ、悩む様子を見せる。おそらくタクシーを拾って帰るかどうかを思案しているのだろう。

 そこで別れ際の工の台詞を思い出した。

「頑張れよ」

 帰るだけで何を頑張るんだっと思ったが、飲み会の途中で千尋が言った自宅最寄り駅の終電が終わる時間を見込んでのセリフだったようだ。

「タクシー呼ぶ? それとも……」

 大きく息を吐いてから続ける。

「僕の家、……泊まる?」

 喉の奥に何かが詰まっているように感じた。はがゆさを噛み締めながら告げた僕の言葉に千尋は髪を耳にかけながら小さく囁くように言った。

「泊まらせてもらおっかな」

 その声は醸し出す大人の色気とはかけ離れた中学生の女子が初めて男子に話しかける時にのものによく似ていた。

「部屋汚いけど、気にしないでね」

 そっと手を差し出す。阿吽の呼吸で千尋はその手を握る。深夜とは思えないほど明るい月光の下、僕らは手をつないで歩いた。

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