4日目
* * * *
「ねぇ、……。凄い夕焼けだ」
燃ゆる茜色の空を見上げながら背に仮面ライダーのプリントされた黒のTシャツを着た少年は、隣にいる《誰か》に話している。
その服には見覚えがあり、おそらくあれは、僕だ。
「そうだね」
霧に覆われたかのように輪郭すらもはっきりとしない、《誰か》が感嘆の声を漏らす。
「それにほら」
僕は闇色に変わる東の空を指差しながら言う。
Tシャツから伸びる腕は細く、今の僕からは想像もつかないものだ。
「あれって、あのお星様?」
《誰か》は、夕焼けと夜とが入り混じる、黄昏の空で一際強い光を放つ一等星に、視線をぶつける。
僕は泥のはねた服に相応な、少年らしい笑顔で《誰か》に笑い、頷く。
「好きだね」
「うん。星はね、本当に面白いんだよ!」
「そればっかりじゃん」
「だって本当なんだもん! ――だって知ってるだろ? 七夕」
「知ってるけど」
「あれ、彦星様だよ」
「工くん、それ前にも聞いたよ?」
凛とした声は、透き通るほどに滑らかだ。
そして、その《誰か》は儚く、崩れてしまいそうな笑顔を浮かべているように感じた。輪郭すら見えないのに……。
* * * *
途端に視界は
そして、その視界の中にわずかな明かりを見つける。そして、それが朝日だと理解するまでにそれほど長い時間を要さなかった。
「夢……だったのか……」
ぼんやりとする視界で、独りで呟く。なんだか少し残念なように感じたが、これではっきりした。あの講義で見た夢は僕の過去なのだと。同時に妙な違和感を覚えた。
頭の端をちくりと刺す痛み。触れてはいけない何かに触れようとしているような感覚に陥る。
「僕の記憶……のはず。でも、なんで……? なんで記憶にないんだ……」
小刻みに震える手が僕の体を焦燥感と恐怖が蝕みつつあることを教える。
考えれば考えるほどに、それらは大きくなる。
呼吸は荒振り、視界はチカチカと点滅しているような感覚が訪れる。
まずい。
瞬間的にそう思い、僕は深い溜息とともに思考を止める。
ゆっくりとベッドから体を起こし、お決まりの朝食、パンとコーヒーのセットを食べる。
昨日は、彼女と過ごし、非日常を味わったが、それも過ぎれば元通り。ただの日常だ。
そんな時、不意に僕のスマホが机上で震えた。
「六時四十五分だぞ? こんな朝早くから誰だ?」
テレビに映る時間を確認し、手についたパンのかすを指をこすり取り除き、スマホの簡易ロックを解除する。
『おはよー。ねぇ、今日用事ある??』
可愛らしい絵文字混じり、しかし飾りすぎということはない。昨日LIMEに登録されたばかりの千尋という名前が浮かび上がる。それには流石に驚きが隠し切れず、僕は思わず口に含んだコーヒーを吐き出そうになる。
「……マジで?」
嬉しさ七割、困惑三割といった心境で、寝起きのときとはまた違う意味での手の震えが襲う。
一心不乱にアプリを起動させ、返事の文章を脳内で組み立て、それを打ち込んでいく。
『おはよ。今日は特に何も無いよ』
工や忠夫とやり取りするときとは違う。変な緊張感を覚える。何度も打ち間違いをして、どうにそれだけを打ち終える。
絵文字なんてものを付ける上級テクニックは使いこなせない。だから、気取らず、いつも通りの文で送る。
しかし、本当は何にも無いはずが無い。平日のこの時間に僕が起きていること自体、講義がある日以外は有り得ないのだ。
『ホントに!?』
文章からでも読み取れる彼女の興奮の感情。それに続いて可愛い女の子が首をかしげて、その上に青色の大きなはてなマークが付いたスタンプが届く。
画面の向こう側で微笑んでいるんだろうな、と妄想し、釣られるように笑顔がこぼれる。
『ホントだよ』
送るとすぐに既読が付く。
なんだかそれが妙に嬉しく、高揚感を覚える自分がいることに気が付く。
『やったー! じゃあ、今日遊べる?』
今日ってより、今日もじゃん。
僕はテンションが上がり、今にも叫びだしたくなる。
昨日だけでなく、今日も、遊べるんだ。
その嬉しさが、胸中でそうこぼす。同時に、表情は緩まり、締まることを知らない。
『いいよ』
興奮気味に打ったためか、簡単な言葉にも関わらず二度ほど打ち間違えをしていまった。どうにか心を落ち着かせ、三度目にはきちんと打て、それを送信する。
それから慌てて残りのパンを口の中に放り込み、コーヒーで流し込む。
『八時に
LIMEはすぐに届いた。
『うん、いいよ』
短くそう返事をしてから、食べ終わったばかりで空になったコップとトレーをシンクへと運ぶ。
箕輪駅前といえば、僕がいつも利用しているJR線ではなく、市営地下鉄の駅名。
家からそこまで遠くはないが、最寄り駅よりかは少し遠い。
彼女が昨日乗ってきた駅、降りた駅、を考慮すると自宅からはそう近くないと思う。
しかし、それでも彼女がそこを指定してきたのは、やはりデートスポットで有名な場所だからだろう。
水道から流れる水は冷たい。肌寒い朝にこれは、しみる。
スポンジに洗剤をつけ、食器を洗い始める。先ほどコーヒーを飲んだばかりにも関わらず、僕の口の中は有り得ないほどに乾燥している。緊張のせいか、興奮のせいか、理由は幾らか思い当たる。だが、それを我慢し、食器を洗い終える。
それから寝間着を脱ぎ捨て、着替えを始める。
カーキ色の綿パンに白の半袖Tシャツを合わせ、その上に紺色のパーカーを羽織った。
どれくらいキメればいいのか。悩んで、悩みつくした末に、僕はほどよいシンプルな形に収めた。
時刻は七時を少し過ぎたところ。刻々と進む時間に、気持ちははやり、焦り、いつもなら容易にできることですら時間がかかってしまう。そのためか、時間がやたらと早く進むように感じる。
僕の家から箕輪駅までは歩いておよそ十五分かかる。
ギリギリでいくのも、走って向かい会ったときに息が切れているのも男として、どうなのかと考えてしまう。
それを考慮して……約束の十五分前に着いていればいいかな。
何しろ経験がない分、僕は悩まなくてもいいようなところで悩んでしまう。
ということは……残された時間はあと大体二十五分ってところかな。
できる限り、彼女に格好良く見てほしい。
もう僕は気持ちを偽れない。彼女を、千尋に一目惚れをし、今も彼女に惹かれている。
だからこそ、少し無理をしてでも格好をつけて、僕のことを意識してほしい。
その一心で、入学祝で祖母に買ってもらった香りのよい、香って心地のよくなるような香水を首元に振り、財布と予備の充電器などを入れてもまだ余裕のある斜め掛けの小さなカバンを用意する。
いつも履いている靴。めったに履かない下駄箱に入れられた靴を見比べる。
いつも履いているのは、履きなれてこそいるがデザインはシンプルの一言に尽きる。だが、下駄箱に入っているのは、デザイン性こそ素晴らしいが、靴擦れになる恐れがある。
普段から色んな種類の靴を履いとくべきだったな。
と、遅すぎる後悔を胸に抱き、普段から履いている靴を履くことを決める。
そうこうしているうちに時間は七時二十分。
あと十分。あと十分しかにない。落ち着かない感情が、身体に表れる。
収まらないそわそわを覚えながら、僕は出発の時を待った。
* * * *
約束の時間十五分前。僕は予定通りに箕輪駅に着いた。
平日の朝早い時間。それにも関わらず、そこには大勢の男や女がソワソワと浮足立った様子でいる。
僕もそんな一人なんだな。
どこか気恥しいような。でも、何だか大人になったような、そんな気持ちで彼女を待つ。
待ち合わせ場所は、三つのガラス細工が
この服、似合っているのかな。
彼女は本当に来てくれるかな。
誘ってくれたあの言葉は嘘じゃないよね? でも、彼女みたいな人がどうして僕に……。
彼女を待つ独りの間、ぽつりぽつりと、ネガティブな思考が脳裏をよぎる。
ダメだ。
その一心で僕は頭を振る。
あぁ、なんで僕はこんなにも弱いんだ。
自分で自分が嫌になる。
嫌悪感に塗れながらも、彼女を待つこと数分。
「あっ、もういたっ!」
約束の時間より少し早い。
心地のよくなるような、千尋の柔らかな声が僕の耳に届いた。僕は、ネガティブ思考とともに、俯いていた顔を上げて、声のするほうを見る。
「えへへ、おはよう」
「お、おはよ」
何度目かになる千尋の完璧スマイルに、僕は慣れることなくたじろいでしまう。
「どうしたの?」
優しい笑みを浮かべながら、彼女は問いかけてくる。
「い、いや。何でも」
少し歪な、不器用な笑顔を浮かべながら答える。
そんな僕の顔を見た千尋は、彼女はただ楽しそうに、嬉しそうに、頷いて見せた。
いつもながらだが、千尋のファッションセンスは素晴らしい。僕に合わせているのか、というほど僕好みだ。清楚な白のワンピースに上から濃いベージュの羽織を着ている。足元は申し訳程度のヒールを履いている。
「じゃあ、行こっ」
千尋は僕の胸中など露知らず、いきなり手を握り、こっちこっち、と引っ張った。
* * * *
辿りついたのは恋愛成就で有名な神社、
入り口代わりにある赤い鳥居の奥に、小さな桃色の鳥居がある。それを手をつないでくぐると、その二人は結ばれるらしい。
「ここ、来たかったんだよねー」
千尋は僕の顔を覗き込むようにして屈託のない笑顔を浮かべる。
「へ、へぇ……」
その返事は上ずり声になってしまう。滅多にどころか、絶縁だと思っていた恋愛成就の神社に来て緊張しているのだ。
「ここのご利益知ってる?」
意気揚揚と訊いてくる千尋に、少し顔を背けながら答える。
「まぁ、一応」
「一応って何よー」
「あれだろ」
少し列のできている桃色の鳥居を指差し、いじけたような口調で呟く。
「そう! ねぇ、あの鳥居くぐろ?」
彼女は心底嬉しそうな表情で、大きく頷くと、上目遣いで懇願してくる。純真無垢な子どものようなそれにどう反応していいのか分からず、僕はうん、と答える。
僕とあそこをくぐるって、千尋の心中はどんななのだろう。僕の脳内と胸中は彼女のことでいっぱいになっていた。
「ねぇ、私の……」
好き? って訊かれるのかな。そう考えるだけで目の焦点が彼女に合わなくなり、動悸が激しくなる。
そして、同時に顔が赤くなる。
「顔に何かついてる?」
「へぇ!?」
予想だにしていない問いかけに僕はすっとぼけた声を出してしまう。
「つ、付いてないよ。どうして?」
「えー、だって何かチラチラ見てくるんだもん」
楽しげにケラケラと笑いながら、僕を試すように言う。
「ご、ごめん」
余計なこと考えず、楽しまなきゃ。僕は自分にそう言い聞かせながら千尋に案内されるまま列の最後尾に並ぶ。
平日の朝、ということもあり列は短く、数分で僕たちの番となった。
「行こっか」
千尋は軽くそう放つと、ん、と僕に手を差し出す。僕はそれを平然を装い、軽く握る。
「うん」
高鳴る心臓がうるさくて、殴って納めてやりたい気もする。でも、この高まりも嬉しく感じる。緊張をごまかすように、つばを飲み込んでから彼女をちらりと見る。
「行くよ」
「いつでもいいよ」
それを聞き終え、僕は右足を出した。千尋もそれに合わせて右足を出した。
桃色の鳥居をくぐってから、御守りやお札が売られている建物の前へと移動した。
「すいません」
千尋が巫女装束に身を包む女性に声をかける。
「はいはい」
そろそろ引退したら、と思うほど年老いたお婆ちゃんだった。声も枯れている。
「えっと、恋愛成就の御守り下さい」
千尋は照れくさそうに首筋の裏を掻く。
「二つかい?」
「あっ、はい」
千尋がこちらを向いて恥ずかしそうに微笑む。
「じゃあ、八百円ね」
萎れた声でそう言われ、財布を出そうとする千尋を制止し僕が財布を出した。
「こういうのは男の僕に任せて」
どんな顔で言ったかはわからない。照れくさかったので、たぶん思っている以上に不細工な顔だ。それでドヤ顔やキメ顔なんてしてたら後から死にたくなるだろうな。胸中で苦笑気味に零す。
僕の胸の内を知らない千尋は、嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうに、ありがとう、とだけ言った。
「おあついね。ほい、ありがとう」
お婆ちゃんは茶化すようにそう言いながら、僕たちに白い文字で恋愛成就と書かれた濃いピンク色の御守りを渡した。
それを受け取った僕は一つを千尋に渡した。
「お揃いだね」
大事そうに御守りを抱えながら、千尋は可愛らしい笑顔を僕に向ける。
慣れない事に慣れない言葉。小中高の勉強なんて、欠片も役に立たない。どんな言葉でどんな風に話せばいいのか。分からないことだらけで頭から沸騰しそうになる。
御守りを、彼女は、彼女が持つ薄いベージュのカバンに取り付けてからあたも当然のように僕の手を握る。
「行こっ」
無垢な瞳を一直線に僕向けられ、思わず照れてしまう。それを隠すように少し口先を尖らせ、うん、と告げた。
* * *
恋閣神社から徒歩十五分程の所に位置するカフェ。先月、とあるテレビ番組で隠れた名店、として紹介されていたカフェ・オリガミ。
店内は、アンティーク調で整えられ、居心地の良さを覚える。流れる音楽は、最新曲から過去の名曲のオルゴール。
僕はそこで、テレビで紹介されていたカプチーノを頼んだ。千尋は悩み悩んだあげく、カフェラッテを注文した。そして千尋はそれに加え、パンケーキを一つ頼んだ。
運ばれてきたカプチーノとカフェラッテからはコーヒー香ばしい匂いが立っている。
「美味しいそうだね」
刻は十時少し前。職人たちが一度目の休憩を取る時間らしく、作業着姿の男たちが次々と店内に入ってくる。
「そうだな」
だが、店内はそれほど混んでいない。それよりも、外に並ぶ自動販売機のほうが忙しそうだ。
それを横目で確認しながら、カプチーノを一口、口へと運ぶ。
「んっ、うまい 」
目を見開き、思わずそんな声を出してしまう。千尋はクスっと笑いながら、ホントに? と呟く。
それからカフェラッテに手を伸ばし、口に含む。
「ほんとだ」
そう呟いてから、千尋はパンケーキをフォークで切り分けた。その一切れを口へと運ぶ。
「あっ、ふわふわしてる!」
「そうなのか?」
僕の問いかけに千尋は、軽く微笑み頷く。
「ほらっ、一口上げるよ。あ〜ん」
「あ〜ん」
とても恥ずかしい。あまりの恥ずかしさに溶けてしまいそうになる。でも、ふわふわしたパンケーキを食べてみたいという気持ちもあり、小さく口を開く。
「もうちょっと口開けてくれないと、入れられないよ」
千尋は口先を尖らせ、そう言う。
早くこのシーンを抜けたいのに……。
自分が大きな口を開けなかったことに少しの後悔を抱きながら、もう少し大きな口を開く。
周りの席の主婦層の人たちや少し年配の方、先ほど入ってきた作業服の男性方の視線が痛い。
「うん、美味しい」
しかし、パンケーキは本当にふわふわしていて、口の中でとろけるようだ。程よい甘さで、コーヒーの苦みと合わされば最高の最高だ。
ゆでダコのように赤くなりながら短い感想を述べると、
「でしょー!」
千尋はそんな目なんて気にした様子もなく、真珠のように目を丸くし、楽しそうに話す。
「ねぇ、次。どこ行く?」
「近くに何があるかな。どこ行きたいところある?」
千尋の質問に質問で返す。
「んーと、じゃあー、植物園に行きたいな」
「しょ、植物園?」
あまり耳にしない、というより大学生が遊びに行く場所としては相応しくないような気がして、思わず繰り返してしまう。
「まぁ、いいけど」
そう加え、カプチーノを口に含んでからスマホで近くの植物園を探す。
『サボんなよー』
瞬間、タイミングを見計らったかのように工からLIMEが来た。
あぁ、そう言えば今日の講義は工と一緒に取ったやつだったけ?
そんなことはどうでもいい、とそれを無視し、検索を続ける。
「えーと、この近くなら……。ここかな」
僕は千尋にスマホの画面を見せた。
ここから徒歩二十分ほどの場所に《緑の園 グリーンホビット》が
「いいの?」
「あぁ、いいよ」
その言葉を聞くや否や、彼女はありがとう、と告げ残り一切れとなっていたパンケーキを口に放り込んだ。
* * *
一人三百円入園料を支払い、入園した植物園の中は見たこともない植物が少なからず数十種類あった。千尋はその一つ一つを丁寧に眺めた。ここも平日ということが強く影響しているらしく、園内に客はほとんどおらず、貸切といっても過言ではないほどだった。
「楽しかったー!」
だが、植物園を出た千尋は満足気な表情を浮かべていた。
園内をくまなく歩いたこともあり、僕の脚は悲鳴を上げていたが、千尋のその表情を見て一気に吹き飛んだような気分になった。
「そうだね」
「ねぇ、今から……」
千尋はいつもとは少し違う、小さくか細い声でぼそぼそと何かを言った。しかし、それはあまりに小さくはっきりと聞き取ることができなかった。
「ごめん、聞こえなかった」
僕は千尋の方を向き、両手を合わせて謝る。
すると千尋は、意を決す様子を見せてから僕に近づき、耳元まで顔を持ってくる。彼女の真っ赤な顔、熱を帯びた吐息が耳に触れる。
「今から、家行っていい?」
千尋の囁きとは対照的な声で僕は訊き返す。
「ど、ど、どうして?」
「ダメ……かな?」
目にうっすらと涙を浮かべ、上目遣いで訊く。これほどまでに美しい人がこんな技使うなんて――
反則だろ。
胸中で吐露し、彼女を凝視したまま、いいよ、と恥ずかしさを隠すべくそっぽを向き答えた。
* * *
「ねぇ、スーパー寄って行っていい?」
二人で向き合いながら乗口のドア辺りに立って電車を乗り、家路を歩いている時。千尋はそう訊いた。
「ん? まぁ、いいけど」
意図を読めず、僕は空返事をする。
一通りの食料は揃ってたはずだけど……。そう思いながら千尋にスーパーまでを案内する。
スーパーに着くや否や、千尋はカゴを持ち何やら次々と中へと入れていく。
「ねぇ、工くん」
不意に名前を呼ばれ、僕は嬉しさと恥ずかしさから返事をした声が上擦ってしまう。
「な、何かな……」
「工くんって、お酒飲めたっけ?」
「うんん、まだ飲めない」
かぶりを振り、そう答える。
「そっか。じゃあ、こっちにしよっか」
そうしてコーラをカゴに入れる様は、若妻のようにも見え、なんだか新婚になったように浮かれる。
「なーに、ジロジロみてー」
「あっ、いや。何でも」
まさか本当のことを言えるはずなく、咄嗟にそう言い放つと、
「ホントかなー。まぁ、いいや」
千尋は愉し気に疑いの目を向けた。それからレジの前に出来ている列に並ぶ。
「この時間帯のスーパーって人多いよね」
千尋は苦笑する。
「そうだな。ちょうど働いてる女の人が仕事終わって買い物する時間帯だからな」
午後六時三十五分。ここから三十分程はレジ前の列が途切れることはほとんど無い。バイトをしているので、よく分かる。永遠とすら感じられるものだ。
「でも、おばちゃん凄いね。これだけの人数をちゃんとさばけて」
「そうだな」
手間取るとみるみるうちに列が長くなるからな。と心の中で付け加える。
「あっ、そろそろだ。今回は、今回こそは私が出すからね」
千尋が強くそう訴えるので、僕は手に取っていた財布から手を離し、
「はいはい、分かりました」
と言う。
「はいは一回だよ」
「はーい」
「伸ばさない!」
そんな他愛ない会話をしているうちにレジは終わり、千尋が支払いを終える。
レジ袋に商品を詰め終え、歩き出す。
「ほら」
重そうに両手で買い物袋を持つ千尋に手を出す。
「ありがと」
千尋は小さく囁くように呟き、僕は多くの商品が詰められたレジ袋を受けとった。
うげ、意外と重いし……。
それが顔に出ないように気を付けながら、僕の家まで歩いた。
* * *
「ここだよ」
古いアパートなので、紹介するのが少し恥ずかしい。
ここにきてまた違うところを借りればよかったと後悔する。
「ここに一人暮らしかー」
うんうん、と首を縦に振りながら僕が鍵を開けるのを待つ。
キィー、と蝶番がうなりを上げる。こういう時くらい黙っとけよ、と思いながらドアを開けきり、
「どうぞ」
と、中へと誘導する。
「おじゃましまーす」
室内を物色するようにきょろきょろとしながら、彼女は靴を脱ぐ。それに続き、僕も部屋に入り靴を脱ぐ。
「へぇー、綺麗になってるじゃん!」
先にリビングに入った千尋は驚きを露にして言う。
「そこそんなに驚くところ?」
「わかんない。男の子の部屋なんて入ったことないから」
微笑のような、苦笑のような笑みを浮かべ、彼女は続ける。
「台所借りるね」
僕の部屋に似合わないキラキラした笑顔が放たれる。僕はその笑顔に見とれて、曖昧にうん、と返事をした。
「はい、できた」
数十分後、千尋の一言が部屋に響いた。
何か手伝うか、と言うと千尋にテレビでも見て待っててと言われ、何もできなかった。だから、どんなものができたのか見当もつかないが――
「おぉ、いい匂いがする」
彼女ができればこんな感じになるのかな、と不意に感じながらも、鼻孔をくすぐる正体に胸を躍らせる。
「この匂いは何でしょう?」
「何だろうな」
無邪気な笑顔が愛おしく感じる。
「当ててみてよー!」
これは夢では無いのか、そう思ってしまうほどだ。
「んー、具材と匂いから判断すると肉じゃが、かな?」
スーパーで買っていた商品から推測できるのは、カレーか肉じゃがの二択。しかし、カレー独特のスパイシーな香りはないため、そう言うと、千尋は少し口を尖らせ拗ねたような表情を浮かべる。
「何で当てちゃうの? そこはわざと間違えるとこじゃん!」
そうなのか? だが、交際経験なんて一度もない僕にとってそれは無理難題だ。
「まっ、でもそこが工くんらしいんだけどね」
千尋は楽しそうにケラケラと笑う。僕もつられて笑顔を浮かべた。
「いただきます」
テーブルに並べられたご飯と味噌汁。そして肉じゃが。僕はそれらを前にして手を合わせて言った。
「いただきますっ」
千尋も僕に続く。ホント割れたとき用としてお茶碗とか二つずつ持ってきておいて良かった。
そう思いながら肉じゃがに手を出す。千尋はそれをじーっと見つめる。
「あんまり見つめられると食べにくいんだけど」
「いいからいいから。気にしないで召し上がれっ」
ぼそぼそと言う僕に千尋は強張った声で答える。千尋の熱視線を感じながら、肉じゃがを口の中へと運ぶ。
「うっ、美味しい!!」
次に味噌汁を啜る。
「上手い!」
味噌汁や肉じゃがって家庭の味が出る。それをこれほど懐かし味に作り上げるなんて……。
感心なんて感情は通り過ぎ、尊敬に値していた。
* * *
「ホント美味かったよ。なんか家思い出しっていうか、何かそんな感じ」
辺りは真っ暗。そんな中、芸能人顔負けの美人を一人で返すことはできない。そう思い、送るよと言った。家まで送るつもりだったが、それは彼女が迷惑だと強く言ったので、駅まで送ることになった。その途中で僕はそう告げる。
「それなら良かった」
千尋は安心感に満ちた顔で言う。
「本当にありがとう」
駅の明かりが遠くに見えてきた。
「うん」
僕の照れたように言った言葉に影響を受けたように千尋も照れたように囁く。
「やっぱり春っていっても夜はまだ冷えるな」
僕は話題を変えるべくそう話す。
「そうだね」
千尋はそう言うと僕にぎゅっと抱きついた。
「お、おい」
二つの膨らみが僕の腕に押し付けられる。僕は思考回路がショートしそうになり、紡ぐべき言葉が見当たらなくなる。
「こうすれば温かいでしょ?」
千尋の呼吸が真横で感じられる。お互い薄着なので体温が直に伝わってくるような気がする。
「う、うん」
「じゃあ、駅までこのままで」
千尋のぬくもりと二つの膨らみを感じながら僕は駅まで歩く。こんな時間がいつまでも続けばいいのに……。どんなに願っても、それは叶わない。一歩、歩くこと度に確実に駅は近づいてくる。嫌だな。
そんな思いを抱きながら、ふと横目で千尋を見ると顔を紅くしているのが分かった。
二人して照れてるなんて、僕はそう思うと自然と笑顔がこぼれた。
千尋も同じように笑顔になる。
だが、そんな幸せな時間はすぐに終わりを告げる。
「じゃあね」
可愛らしく手を振る千尋の顔には寂しさが滲み出ていた。
「僕は、僕は……」
その表情を見て千尋の事が好きだ、と言おうとした。でも、それは言葉になることはなく、千尋の言葉に上書きされてしまう。
「また、逢おうね」
電車到着を告げるベルが鳴る。
千尋は小走りでホームへと向かい、電車に乗った。それから数秒後、電車はゆっくりと動きだだし、僕の視界から消えていった。
「好きだ」
電それを確認して、ようやく零れた。電車から降りてくる人は一人もおらず、誰もいない駅に向かって僕は、電車に乗った千尋の姿をリプレイしながらそう吐いたのだった。
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