3日目
朝起きると、昨日の天気とは打って変わり、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨だった。
それは彼女の言葉で荒れ惑う僕の胸中を表したような天気だ。
昨晩、あれだけの星が出ていたのに……。
そんなこともあるんだな、と思いながら時計に目をやる。
時刻はまだ六時。
今日は昨日とは違い、朝一から講義がある。
それならまだいい。しかし、今日僕が受けるべき講義はその一つだけ。
行く気すら起きない、というのが事実だがバイトも無く、好きなことができる日だ。
その時間を講義に行かなかったという罪悪感が1ミリでもあれば、それは楽しさが半減するというものだ。
気だるげな気持ちに苛まれながらも、僕は電車に乗り込んだ。
今朝は満員電車というほどでは無かった。
朝は早かったし、通勤・通学ラッシュにあってもおかしくない時間だ。しかし、今日はなぜか大丈夫だった。
こんな日もあるんだな、そう思いながら僕はつり革を掴んで立つ。
情報と社会という名の講義は持ち物は、筆記用具だけなのでカバンは異常なほどに軽い。
ゆえに三十分くらい立ちっぱなしでもどうってことない。
『例の井上さんとはどうよ』
唐突に震える僕のスマホ。立ったまま目をつぶっていた僕は、何だ? と思いながらポケットからそれを取り出し、ディスプレイに視線を落とす。どうやらLIMEらしい。緑色のアイコンとともにメッセージがポップアップしている。
名前表示は"工@イケメンです"だ。こんなふざけた名前にできるのは僕の幼馴染の山上工しかいない。
『普通だよ』
僕は言葉を流すようにそう返事をする。今はそんなこと言ってる余裕はないんだよ。
電車に揺られながら、ため息をこぼす。
そこへまた通知が来る。
『また詳しく教えろよ』
文面だけ見ても楽しさが伝わってくるような。
そんな彼の文章に再度ため息をこぼし、僕は返事をした。
『またな』
工は待ってましたと言わんばかりに、ハゲネタで一躍有名になったトルンティーエンジェルのぺっ、ぺっとしゃべるスタンプを送ってきた。
僕は微笑を浮かべるも、それに返事を返すことはなく、そのままLIMEを閉じた。
* * * *
それからしばらく、目をつぶっていると電車は僕が降りる幸神駅から三つ手前の駅に停車した。
ホームには傘を片手に持つ人々が列を作って待っている。
唐突だが、僕は雨の日の電車が嫌いだ。電車の中が傘でいっぱいになり、その傘は濡れていて触れればこちらも濡れてしまう。
駅に止まるたびに、目を開け濡れた傘に触れないように体を動かす。
めんどくさいな、という気持ちがいっそうに強くなる。
当然この駅でも同じだ。
めんどくさいと思いながらも閉じていた目を開き、人と濡れた傘にあたらないようにする。
「あれ?」
その瞬間、僕の耳に透き通るような声が訪れた。柔和で、僕を安心させ、掻き乱し、その一挙手一投足で僕のすべてを変化させる彼女の声がしたのだ。
薄目しか開けていなかった目が見開く。見開き、彼女の姿を捉える。
芸能人でさえ羨むような美しい姿の彼女が僕に微笑みかけている。見間違えようがない、井上さんだ。
薄手の白のTシャツのようにみえるそれは、カーディガン風になっており、清楚さが際立つ。濃い青色のふんわりとしたスカートを穿いており、可愛らしいという印象を受ける。
一瞬、彼女に見蕩れた後に自分の格好を思い返す。
漆黒の薄手の上着の下に薄い灰色のTシャツ、それからベージュのズボンを穿いている。不細工でもなければ、格好良くもない。
ぎりぎりセーフと言ったところだろうか。と内心ホッとする。
井上さんはそんな僕を前に、雨で塗れた前髪を右手で弾いている。水滴を弾く彼女の黒髪は少し彼女の額についており、もぅ、と呟きながら張り付いた髪を弄っている。日常の仕草にも関わらず、僕は彼女のその姿に見蕩れてしまう。
それほどまでに僕は彼女の虜になっているということだろうか。
それから彼女は、自分の服をはたき残っていた水滴を払うと、再度僕に微笑みかける。
井上さんの声が僅かにだが聞こえた。
それから多くなってきた電車の中の人の間を縫うようにして、僕の前にまでやってくる。
「こん……じゃなくておはよう」
「おはよう」
井上さんは挨拶にどこか戸惑う様子を見せながら話しかけてくる。その表情は、まだ僕の見たことがないもので、新たな彼女が発見できたようで嬉しく思える。
「井上さん、こんな朝早くからどうしたの?」
そういえば、井上さんが普段どんなことをしているかも知らないんだよな、僕。
口をついた質問に、ふと思う。
昨日、彼女の過去に少し触れたような気がした。そこには、好きだった男の子がいて、その子との思い出がある。
僕はそれに触れていい気がしなかった。ゆえに、彼女の答えにはそれなりの緊張感を持っていた。しかし――
「えっとねー、秘密」
と、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべるだけだった。
はぐらかされるものか、と言葉を紡ごうとした瞬間。それよりも一瞬速く、彼女が口を開く。
「あっ、それとね」
いたずらっぽい笑みを引っ込め、小悪魔に近いスマイルで僕に言う。
「井上さんじゃなくて、千尋って呼んで」
女子を名前で呼ぶなんて、そんな大それたことなど経験したことが無い僕は、そのフレーズだけでフリーズし、完全に秘密を暴けなくなってしまう。
口がぱくぱくして、紡ぎたい言葉が出てこない。
「ど、どうしたのかな?」
言葉を発することなく、ただ無意味に口をぱくぱくさせている僕に、井上さんは心配そうな声音で投げ掛ける。
「あぁ、ごめん」
暑くもないのに妙な汗が吹き出してきて、僕の全身を熱が包む。
人生バラ色。なんて言葉があるが僕はそれを実際に体験しているような、そんな気分になった。
口の中が乾燥していくのが分かる。唇がカサつき、唾液が蒸発していく。
それでもどうにか、僕は言葉をこぼす。
「ち、千尋……」
自分でも驚くほど小さな声で、嗄れていて、音になっていなかったようにすら思う。でも、彼女はしっかりとそれを聞き取り、
「はい」
と、返事をしてくれた。
何だか照れくさかった。照れくさくって、恥ずかしくって、それでも嬉しくて。
僕の中に変な感情が芽生え、育って、思わず笑顔が零れる。
同時に彼女も笑う。屈託のない、優しさの溢れ出す笑顔。
僕は彼女が朝早くから電車に乗っている理由のことすら忘れて、笑った。ただ、彼女と同じ時間を過ごせるという嬉しさが全てを上書きしたのだ。
「ねぇ、今日暇?」
彼女は笑い終えた後、唐突にそう訊いた。
「うん、まぁ」
一限目の講義の事などすっかり忘れてそう答えた。
「ほんとに?」
「うん」
彼女の確認で、講義のことが脳裏に浮かぶ。しかし、講義は全部で十五回ある。そのうちの一回を休んだ所でどうってことない……はずだ。
そう答えを出し、返事をすると彼女は満面の笑みを浮かべ、僕の腕を取る。
「じゃあさ、私とデートしよっ!」
満員電車という程でもない。しかし、そこそこに人が溢れた電車の中。彼女の声だけが鮮明に僕の鼓膜を震わせる。
確実に、僅かなノイズさえ無しに聞こえた彼女の声は、二人だけの空間になったようだ。
「うん」
緊張からか、照れからか、僕は消え入りそうな声で返事をした。
* * * *
僕たちは幸神駅の二つ前、
時刻はまだ八時前。行き交う人々もスーツ姿や制服姿の人がほとんどだ。
僕らはその間を並んで歩いた。まだ手を繋ぐ、なんて高難易度な事を行うことは出来ない。
それでも。心が踊った。
ここの辺りは、レジャースポットがそこそこ揃っている。雑誌に取り上げられるほど有名な旗箱水族園に、その流れでたくさんの人が訪れる旗箱動物園。それからハウルテンブという名の遊園地まである。
だが、まだ時間も早いということで、どのレジャー施設も開店していない。
僕らは近くのハンバーガーのファストフード店であるワックに入る。
窓に打ち込む雨粒が、流れてまるで涙のようだ。
そんなことを考えながら、買ってきたMサイズのポテトを口に運ぶ。
「晴れてたら良かったのにね」
同じ箱のポテトを摘みながら彼女はポツリと零す。
「そうだな」
流れる雨粒を視線で辿りながら答える。
「この後どこ行く?」
「んー、動物園や遊園地って雨降ってたら楽しくないよね」
ポテトを咀嚼しながら、僕がそう言うと彼女は小さく唸り声を上げてから、
「そうなんだよね」
と言う。
「まぁ、有名だし水族園行こっか」
「うん!」
高鳴る鼓動をグッと抑え、平静を保ちながらそう提案すると、井上さん──もとい千尋が嬉しそうに頷いた。
時刻は九時半になり、水族園はオープンする。
僕らはワックを後にして、水族園の前に来ていた。
「大人二人で」
依然として降り止まない雨の中、入場券を買うために受付嬢に告げる。
受付嬢は僕の言葉受け、手続きをしながら僕に微笑みかける。
「お似合いですね」
「いえ、あの、そんなんじゃないんで」
途端に恥ずかしくなり、どういった返しをすればいいのか分からなくなり、朱に染めた顔でそう述べると、隣で千尋は不機嫌そうに口を尖らせた。
入場ゲートを潜り、水族園に入るとすぐに眼前全てが水槽となった大広間があった。
様々な魚が一望でき、その色とりどりの魚に僕は少し呆気に取られた。
まるで銀箔が水中を漂っているようなイワシの群れ。大きく平べったい、動きに滑らかさがあるエイ。それに鋭い歯が一際目立つサメ。
魚というのはこれほどまでにたくさんいて、こんな狭い空間で伸び伸びと生きているように見えるなんて……。
僕はいつの間にか水槽に釘つけになっていた。
「ねぇ」
その時、千尋に肩をポンっと叩かれた。
僕は肩をビクつかせて驚き、慌てて彼女の方を向く。
「な、何かな?」
「魚に集中し過ぎだよ」
虚ろな瞳を僕に向ける。
「ごめん」
千尋はそれにわざとらしく大きく頷いてみせた。
それから少し歩くと小さな水槽が横並びになっている場所に出た。一つ一つにきちんと説明のプレートが用意してある。
「ねぇ、見て!」
千尋は興奮気味に僕に言ってくる。僕は、はいはい、とまるで小さな子どもの保護者のような感覚を覚えながら彼女の下へと歩み寄る。
それが言葉に表せない違和感として訪れるも、視界に飛び込んできた魚に、掻き消される。
「これ、カクレクマノミだよ!」
「おぉ、そうだな」
思わず声が漏れた。色鮮やかなオレンジにそれを強調するかのような白。
そのまわりにはゆらゆらと揺れるイソギンチャクがまた趣深く、例の映画を思い出させる。
「これに青い魚がいれば最高なのにね」
千尋はえへへ、と笑う。
以心伝心、なんて大げさなことではないかもしれない。それでも、同じことを考えていていたなんて思うと、ついつい笑みがこぼれてしまう。
そこから少し歩いた所の水槽。
「あれ、この水槽……。魚いないよ。死んじゃったのかな?」
千尋は緑色の海藻のような草しかない水槽を覗き込みながら、何かを思い起こすように、今まで見たことのない悲しそうな表情で呟いた。
僕は水槽の手前に設置されているプレートを一瞥し、いや、と答える。
「これは
水槽の中の海藻を指さす。ゆらゆらと揺られる海藻は、どこか気持ちよさそうで見ていて落ち着く。
千尋は僕の視線の先にあるプレートに近寄るとお互いの呼吸が分かるほど近い距離でそれを見た。
「えーと、なになに」
優しい丸みのある声が僕の耳に響く。
「ウミシダ。植物のように見えるけど……へぇ!! ウニとかヒトデとかと同じ種類なんだって!!」
何それー、と言わんばかりに僕の肩甲骨の辺りをビシビシとしてくる。それは痛くもなく、非力で、柔らかな女の子ということが伝わってくる。
「この羽みたいなものでエサを集めたり、泳いだりできるんだ」
海藻のようなウミシダの主となる部分から各先端にかけて伸びる間にあるひらひらを目で追うようにして彼女は呟く。
僕は勉強になったな、という感情の他に自然界を生き抜くための進化に感銘を覚えた。
「いやー、あれはただの藻だと思ったよ」
ウミシダがあった水槽の前から少し歩いたところで彼女はそう告げた。
「僕も。知らなかったよ」
薄暗い廊下を並んで歩く。僕は不意に空腹感に襲われる。
少し前までワックに居たといえ、食べたのはMサイズのポテトだけだ。しかもそれを二人で分けて食べたのだ。
お腹は減らないわけがないのだ。
時間を確認しようと、ポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを灯す。
薄暗い廊下に仄かな明かりが灯される。蛍光灯のようなその白い光は水族園の雰囲気を壊してしまいそうだ。
僕は、ささっと時間だけ確認してポケットへと戻す。
「もう十二時過ぎてた」
千尋に伝えると、彼女はわざとらしいほど大きく驚いてみせた。
「もうそんなに経ってたんだ」
千尋の感情のこもった声が静まり返った廊下に木霊する。幸い、平日のお昼ということで周りに他のお客さんの姿は見えなかった。
「お昼にする?」
前を向いたまま訊いた。
「そうだね」
千尋はそれを素直に承諾し、フードコーナーへと向かった。
フードコーナーはペンギンエリアの真横にある。屋外だ。
不安だった雨もいつの間にか小雨になっていた。
僕たちは小雨の中、フライドポテトと唐揚げを一つずつ買った。
ワックでもポテトを食べているので、本当は避けたい所だったが、生憎用意された席は雨で濡れてしまっていてる。
そこで立って食べれるものにしよう、と爪楊枝で刺して食べられる唐揚げと、手で摘めるフライドポテトを購入したのだ。
それらを二人で分け、食べ終えるや、次はアマゾンの魚が収容されている
外は春のしかも雨という天気の為か、少し肌寒いが、ここは蒸し暑かった。アマゾン地域に生息する魚のため、気候を寄せているのだろう。少し走ればすぐに汗ばむ程度には暑い。
僕は着ていた薄手の上着を脱ぎ、腕にかける。千尋はそれを見て、暑いね、と微笑みかけた。
「あっ、見て! ピラルク!」
千尋は声を荒らげ、興奮を露わにする。
「肉食魚だよな」
僕はプレートを一瞥しながらぼそっと述べる。
「そうだよー。強そうだよねー」
千尋は目の前を通り過ぎる一匹のピラルクを目で追いながら滑らかな声で応える。
「強そうって」
僕は彼女のピラルクに対するズレた感想を繰り返す。
肉食魚と言っても、体がサメやエイのように大きいわけではない。僕は強そうかな、と胸中でこぼしてから、クスッと微笑む。
その後も水槽を一つ一つ丁寧に見ていき、一匹一匹に無邪気に感想をこぼしていく彼女は、本当に子どものように思えた。
そして、アマゾン館を出た頃にはもうすっかり雨も上がっていた。
今朝の雨が嘘かのように透き通った茜色の夕空に僕は心を奪われた。
同時に、遥か彼方に眠る僕の記憶が呼び起こされる。
背も小さく、滑り台がやけに大きく思えてた頃の記憶。
並んで立つ小さな子とその夕焼けを見ている。
何故そんな記憶が蘇るのか……。
そしてそれが、ついこの間夢で見た映像と酷似しているような気がした。
「ねぇ、どうしたの?」
不意に耳に届く千尋の声。しかし、彼女は何度も呼びかけてくれていたのだろう。僕の顔を覗き込むようにして訊いていた。
「ごめん、ちょっと昔のこと? を思い出してた」
「昔って、元カノとか?」
ふくれっ面で少し怒ったように口調を変える千尋に、僕は否定しながはも、いつもと違う彼女にドキッとする。
「えー、じゃあ誰よ?」
「よく覚えてないんだ。それにこれは夢かもしれない」
「夢かもしれないってどういうこと?」
不思議そうに訊く千尋。しかし、僕はそれに答えることはできない。
謎の記憶に触れても、やはりそれが現実か虚構か分からない。
それに隣に立つ子が男の子か女の子か、それすらも分からない。
真摯な瞳でこちらを見続ける千尋に僕は瞳を伏せ、少しの間を置いてから口を開く。
「幼稚園か小学校低学くらいだと思う。僕とよく似た感じの子と、それと同じくらいの背丈の子が並んで、こんな夕焼けを見ているんだ」
「そう……なんだ」
彼女は、虚ろにそう呟き、それ以上を聞こうとはしなかった。
代わりに透き通った夕空を見上げた。
空を染める茜色を吸い込むような大きな瞳は、空のさらに遠くを眺めているようで、隣にいるはずなのに、何故か彼女が遠くにいるように感じた。
「行こっか」
しばらく夕焼けを見ていた彼女は短くそう切り出した。僕は視線を彼女に写し、こくん、と頷く。
一歩、二歩と歩き出した時、不意に隣を歩く千尋の手が僕の手と擦れるのを感じた。
最初の一、二回は偶然だと思ったが、それがあまりに長く続くため、僕は慌てて手を見る。
どうやら、千尋がわざとらしくぶつけてきてるらしい。
何なんだよ、という気待ちと照れくさい気持ちを半分半分に持ち合わせながら、彼女の顔を見る。
遠くを眺め、何も無いような表情をしているをつもりなのだろう。しかし、彼女の顔は夕空よりも赤く染まっている。
いつもなら絶対にしない。と言うより、やれない。だけど今日は、自然とそれができた。
出会ってまだ三日目。日に日に彼女との距離は近づいていると、僕は自負している。
だからこそ。意を決し、僕は千尋の手に僕の手をそっと重ね、優しく包み込んだ。
今まで以上にはっきり分かる手の柔らかさ。男のような強ばった手ではない。ふんわりとした中に、張りが見られ、僕は心臓の高鳴りが止められない。
伝わって欲しくないこちらの緊張までもなが、手を、指を伝って彼女に知られてしまいそうだ。
手を繋いでからしばらく。
互いに無言で、僕は言葉の発し方すら分からなくなっていく感覚に陥る。
そうこうしている内に、外見的に高そうなレストランの前までやって来た。
「ここ、入るの?」
僕が言葉さえ失っている所に、彼女が少し上擦った声で訊いた。
「──そうだよ」
口の中が乾燥して、パサパサになり、言葉の意味さえ理解出来ずに発する。
「ほんとにいいの? 高そうだけど……」
彼女は手を繋いだまま、不安げな声音で聞き返す。朝、昼とファストフードで済ましているのだ。
──初デートの最後くらい格好付けたいよ。
その思いを内に秘め、僕は大きく首肯し店内へと彼女をエスコートした。
はじめてした女の子のエスコート。どんな風にすればいいのか分からない。でも、僕にできる限りで……。
外見からでも分かる高級感のあるレストラン。入口はファミレスのようなガラス張りのドアではない。木製の重量感のある扉を中へと押し込む。
するとその隙間から淡い光が零れ、同時にドアの重さが半減する。
「いらっしゃいませ」
ドアが開ききるや、畏まった声が僕らに投げ掛けられる。
はじめての体験で緊張感が否めない僕と同じく、千尋も強ばった様子を見せている。
そんな僕らにニコッと笑った爽やかな青年が口を開く。
「何名様でしょうか?」
爽やかに見えるのは服装のせいだろうか。
白のカッターシャツの上に黒ジャケットを着込んでおり、黒のスラックスを穿いている。首のあたりには黒の蝶ネクタイをしている。正装というのはこういうものを言うのだろうか。そう感じさせるウェイターが訊ねる。
「二名です」
未だ解れない緊張感が表に出てくるのを理解しながらも、僕は人差し指と中指を立て、指で二を表しながらも、掠れた声を出す。
ウェイターは、爽やかににこりとすると、かしこまりました、と告げる。
それから慣れた様子で店内を一瞥すると、僕らに向き直り、右の最奥の席へと案内された。
椅子が引かれ、どうぞと声をかけられてから、腰を下ろす。
柔らかな感覚がお尻を包み込み、立ち上がることを厭にさせる、そんな椅子が僕たちを迎える。
「凄いね」
千尋は、店内をぐるぐると見渡しながら僕にこっそりと言う。
ファミリーレストランのような明々とした照明は、ここにはない。控えめな照明で、向かい合って座る互いの顔が見えるほどの明るさだ。
その明るさは、重厚感と緊張感を与え、非日常という空間を演出する。
ウェイターはてきぱきと動き、慣れた手つきで僕たちにメニューを渡す。
いかにも高級、と感じさせる長いメニューが目に入る。
最低でも四千円程はするようで、僕は思わず財布の中を確認したい衝動に駆られるも、それをぐっと堪えて口を開く。
「好きなもの頼んでいいよ」
最後に見た時には、まだ余裕があったことを思い出し、そう言う。
授業は一限で終わり、ということで余裕を持って財布にお金を入れていた甲斐があった。
心底よかった、と思う。
「ありがとう」
彼女は優しく温かい笑顔を見せる。
それが辺りの暗さで、僕にしか見えてないと思うと優越感が溢れ出てきて、嬉しくなる。
それから二人で静かな空間を邪魔しない程度にコショコショと話しをしながらメニューの上に目を走らせた。
僕も千尋もメニューが決まったのでウェイターを呼ぼうとした瞬間。驚くほどに速やかで、無駄のない動きで先ほどのウェイターがやって来る。
「ご注文はお決まりになられましたか?」
お客様の顔、仕草、それら全てを考慮して取られる行動に、驚きながらも僕はメニューを口にする。
「はい。えっとー、このイカとホタテの春の味わい盛り一つと、トリュフとフカヒレの満天合わせを一つ」
「かしこまりました」
胸の前に手を当てると、確認のためか、ウェイターはもう一度メニュー名を言い直す。
「お間違いありませんか?」
「大丈夫です」
そう答えると、少々お待ちください、と残してウェイターは奥へと消えていった。
* * * *
「美味しかったねー」
彼女は先ほど食べたばかりの料理を思い出すかのように、うっとりとした目でそうこぼす。
「そうだな」
値段の割に、ということはなく、値段相応の美味しさがあった。
今まで食べたことのないような、それらに心踊りながらも食べたのはたぶん忘れないだろう。
支払いを終え、店から出ると、そこに夕焼けが残っているわけがなく、空は完全なる闇に染められていた。
幾千もの星々が漂い、真ん丸の月が浮遊しているかのように存在している。
「お金、大丈夫だった?」
千尋はうぅーん、と背伸びをしながらも心配そうな声音で訊く。
「うん、大丈夫だよ」
軽くなった財布を思い返しながらも、朗らかな笑顔で返す。
「ならいいんだけど。私の分くらい払うよ?」
「いいって」
今後の生活を考えれば、良くないかもしれない。でも、女の子の前で格好つけたがるのが男の性だ。一万四千くらい、なんのその。
自分に言い聞かせるように、彼女に告げる。
「まぁ、美味しかったなら何よりだ」
大学生なんかが入っていい店では無かったな、と今さらながらそう思うも、彼女の笑顔が見れたことが何より嬉しかった。
二人の初デートも、もう大詰め。僕はそれを空色と彼女の表情から察していた。それが互いに言葉を渋らせ、沈黙が訪れる。
しばらくすると、彼女が唐突に呟く。
「ねぇ、まだ少しいい?」
「えっ」
当然の申し出だったので、驚いた。しかし、
「いいよ」
と、今後の予定のことなど微塵も考えずに二つ返事をしていた。
「よかった……」
月夜に照らされた彼女の妖艶なまでに美しい表情に見蕩れる。
「じゃあ、ちょっとついてきて」
そして言われるがまま、彼女の歩く方へとついていった。
約三キロほど離れた所。そこには高台があった。
殊更高い訳ではないが、周りと比べると少し盛り上がっていて、下が見下ろせる仕様になっている。
そこに設置してあるベンチに、千尋は容赦なく腰を下ろす。
「えへへ、まだ濡れてるや」
柔らかな笑みでそう述べる。
「じゃあ、座らない方がいいんじゃ」
「うんん、良いの」
「どうして?」
「夜だから誰も濡れてる事に気づかないだろうし、洗うからね」
そんな問題なのか、と思いつつも隣に座れ、と言わんばかりに手招きをするので僕は吐息をつきながら隣に座った。
瞬間、じわーっと冷たい水がズボンに染み込み、それから下着を侵食していく。
苦笑いをしながら千尋を見る。千尋も少し歪な笑顔を浮かべている。
春先の夜の寒さも相まって、お尻が冷たいのだろう。
「ほら、あそこ」
そんなことを考えている僕に、千尋は夜空を見上げ、明々と光る星を一つ指さした。
「あれって──」
──アルタイル?
僕は徐ろに言葉をこぼした。
数多ある星々の中でも殊更強く、鮮やかな輝きを放つ星。それ以外に考えられない。
「そう、アルタイル」
彼女は羨望の眼差しを一点に向けて放っている。
でも、なんでわかったんだろう。僕は、星が好きだ。しかし、それは好きなだけであって観測などをした記憶はない。つまり、知識だけあって実際にどこにあるかはさっぱりなのだ。
昨日彼女がアルタイルの話をしたからかな?
そう考えても、夜空に浮かぶ星がアルタイルと気づく理由にはならない。
瞬間的に、知っていたことを口にするように出たそれに違和感を覚える。
何故だろう。そう思っていると彼女が囁くように呟く。
「初恋の相手だった子がね、好きだった星なの」
千尋の潤いのある瞳が星の放つ光が反射し、キラキラと光っている。それはあまりに綺麗で、この世にいる何者にも勝っていると思う。
「その子はね、言ったの。『僕は絶対この世で一番輝く存在で居たいんだ』ってね」
初恋の相手。考えてもみれば、それはどんなに大きくても中学生ほどだろう。
それがこんなセリフを吐くなんて、ませた子どもだな、と思いながらも黙って彼女の言葉を聞く。
「その子はね、よく1人で夜空を見てた私に宇宙の話をしてくれたの。それでね、彼はいつも最後にアルタイルの話をしてれたわ──」
まるでどこかの昔話であるかのようだった。千尋しか知らないはずの物語。でも、僕はどこかで聞いたような、感じたことのあるような、そんな物語に思えた。
そんなモヤモヤが形を得ないまま、彼女の話は終わりを告げた。
「そんなことが……」
僕は当たり障りのない、そんな言葉をかける。千尋は表情に少し曇を見せるも、すぐに不器用な笑顔を浮かべた。そして、夜空の星によって照らされる瞳を伏せ、
「それだけ。結局私は、何も言い出せなくて、話はお終い」
彼女は、嘲るように言い放つと、目を開き、幾銭の星が浮かぶ空を眺める。
そして、アルタイルに焦点を合わせると、何かを思い出すように、思い出に浸るように、数秒間凝視し、腰を浮かせた。
僕もそれに釣られるようにして立ち上がる。
「戻ろっか」
一歩前へと進んだ彼女は、僕に振り向き、そう言う。
「うん」
何だか、それ以外に言う言葉が見つからなかった。彼女の過去に触れ、それで分かり始めていた彼女との距離感がぐちゃぐちゃになったような気がして、どうすればいいのか分からなくなる。同時、何でこのタイミングで話したの? という疑問が生まれ、思考回路が複雑怪奇に入り組み、自分の思い、考え、そのどれもが分からなくなる。
それを察したのか、彼女は黙る僕の手をとり、少し冷えた手で包んだ。突然のことで、思わずえっ、とこぼす僕に彼女は美しく、儚く微笑む。
それはまるで虚構のようで、指先で触れるだけで崩れて崩壊してしまいそうな危うさを秘めており、僕は無性に怖くなる。
そんな僕に、彼女は小さく言う。
「ねぇ、連絡先交換しよ」
思ってもみない、嬉しい提案だった。彼女のことは知りたい。それでも、近づくのが怖くて、言い出せなかった。
だから、何だかそれを言い出せなくて──。
それでも、彼女からその言葉が出たのが嬉しくて、胸の内から何やら感たことのない想いが込み上げてくるのが分かった。
「うん」
スマホを取り出しながら、僕は高揚気味に返事をした。
080──から始まる番号がディスプレイに表示される。
携帯を買ったのそんなに前じゃ無いのかな、などと考えながら、赤外線で得た彼女の情報に目を落とす。
それから、登録欄に名前を打ち込む。
登録名、井上千尋。表示名、千尋。
1通りの作業を終え、視線を上げると、彼女は背中越しでも分かるほどに嬉しそうで、満足気で、視線を画面に落としている。
なんて登録されてるのだろう、と少しの不安と期待が入り混じった感情が渦巻くも、僕は小さくかぶりを振り、千尋と表示されている画面に視線を落とす。
瞬間、僕のスマホがぶるぶると震え始め、画面表示が千尋のプロフィール画面から着信のそれに変わる。
相手は千尋。
すぐ後ろにいるのに、という思いがえっ、という声になって表に出る。
拭いきれない戸惑いを抱えながらも、緑の受話器の絵を右方向にスライドし、電話を繋げる。
「はい、もしもし」
「あ、もしもし。私。千尋です」
声は真後ろからと、耳に直接届く二つがハーモニーを奏でているようだ。僕は彼女の方を見ながら、
「
と、答える。
すると、後ろ向きで操作していた千尋がゆっくりとこちらを向いた。いたずらっぽい顔が、夜空に照らされ、いつもに増して美しく見える。
「上手くいってよかった」
耳には、ぷーぷーと通話終了の合図が流れる。僕は耳に当てていたスマホを眼前に移動させ、着信履歴の表示に移り変わっているのを確認する。
同じように、いつ移動してきたのか、僕の真後ろまで来ていた千尋が僕の肩越しに僕のスマホをのぞき込み、楽しげにそう放つ。
着信履歴の一番上。千尋と表示されるのを見たのだろう。それから、彼女は自分のスマホに目を落とす。
何かを見てから、小さく笑うとスマホを大事そうに抱える。
「そうだね」
そう返事をすると、途端に彼女の名前が通話履歴の欄に表示されていることが妙にうれしくなり、その思いをどこにぶつければ良いのか分からなく、手に持つスマホを少し強く握ったのだった。
「じゃあまた今度」
そこから十分ほど歩くと、駅のホームが視界に入る。改札口の上に設置してある電光掲示板には、あと数分で電車が到着する旨の表示がある。
「早い一日だったね」
彼女は寂しそな口調で切り出す。
「うん」
「ほんとに、楽しかったなー」
電光掲示板に、まもなく電車が参りますという文字が流れる。
「僕も、千尋と居て楽しかった。ありがとう」
「うんん、私こそだよ。こんな時間が──」
最後はホームにやって来た電車の音によって掻き消される。
「なんて?」
「うんん、何でもないよ」
彼女は少し顔を赤らめながら、それでいてどこか残念そうな声色で電車の音に負けないように少し大きな声で告げた。
* * * *
一駅だけ乗って降りて行った彼女。それから僕は、一人で二つの駅を過ぎた後、三つ目の停車駅で降りた。
まだ太陽が東の空にあった時間に、駆けた道をゆっくりと歩きながら家に帰る。
──ピコン。
部屋の鍵を解除し、軋む扉を押し開け、ベッドにうつ伏せに転んだ時だった。
LIMEにメッセージが届いたことを知らせる通知音が耳についた。
『こんばんは。今日は楽しかったです。またデート、しましょうね!』
それに続き、可愛らしい女の子のイラストのスタンプが届いた。
電話番号を交換した際、相互的にLIMEにも登録されたのだ。
短い文で、本当に重要なことしか書かれていない。仕事のやりとりメールなんかと似たような感じだが、届いた時の嬉しさが天と地ほど違う。
その短文が、何だか妙に心をくすぐり、彼女らしさを感じる。
まだ出逢って三日しか経ってないのに、僕はそんなことを思いながら、彼女のメッセージに返事を打つ。
『こちらこそ! また行きましょう!』
デートという単語は、格式が高く、やはり僕なんかが使えるものではなかった。文字なのに恥ずかしく、照れくさく、動揺してしまう。
何度も打っては消して、打っては消してを繰り返し、どうにか紡いだ言葉はあまりにも短いように感じた。
でも、《デート》という単語を伏せたうえで、僕のこの溢れんばかりの想いを最大限に乗せて返事をした。
少しの間、千尋からの返事を待った。しかし、一向に返ってくる気配はなく、ベッドに転がったままの僕は、段々と眠たくなっていった。
そして、僕は昨日に続き寝落ちをしてしまったのであった。
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