2日目


 翌朝、目を覚ますと眠気に負け、お風呂に入らずに眠っていたことに気がついた。

 ベッドの上にダイブしたままの格好で、そこからピクリとも動いていない。


 どうやら、井上さんと過ごした時間は楽しかったが尋常でない緊張で、心身共に疲労は半端じゃなかったようだ。


 大きな欠伸を一つし、僕はもそもそと布団の上を這い、ベッドの上から降りる。

 まだ眠りたい、と主張する目を手の甲で擦り、ゆっくりとした足取りでお風呂へと向かう。もちろん、お湯が沸いているなんて贅沢なことは無い。しかし朝風呂なんてものに入るのは、家族旅行でホテルに泊まった五年前以来だ。

 脱いだ服を洗濯物入れとして用意したピンク色のプラスチック製の籠に入れる。既に二日分の洗濯物が溜まっており、籠の中はかなり一杯になってきている。


 全て脱ぎ終わると、春の朝を直に感じる。今日は春の朝とは思えぬほど冷え込んでいる。部屋の中にいるにも関わらず、空気は冷えており、風が裸体に触れると身震いしたくなるほどだ。

 両手で体を擦りながら、慌てて浴室の中に入る。


 シャワーを出した時に水滴がトイレの方へ流れでないために、カーテンを締めてから蛇口を捻る。

 同時にシャワーのヘッド部分から水がちょろちょろと零れ、次第にその量を増やし、シャーという音が浴室一杯に響く。そうしているうちに、シャワーから放たれる水はお湯にへと変わる。

 シャワーフックにシャワーを引っ掛け、頭からお湯をかぶる。適度に濡れた髪の毛にシャンプーを付けてゴシゴシと丁寧に洗う。再度頭からお湯をかぶり、泡を流しきり、次に体を洗う。


 体についたボディーソープの泡を流し終えてから少しの間、お湯を体中に浴びてからシャワーを止める。それと同時に感じていなかった冷涼な空気が全身を襲う。

 手早くカーテンを開き、浴室から腕だけを伸ばし、トイレの少し上に設置された棚に置いてあるバスタオルを引っ張り、体の水滴をくまなく拭き取る。


 水滴を拭き終えた僕は、腰にバスタオルを巻き、リビングへと戻ってくる。

 水滴を拭き終えたとはいえ、やはり今朝は寒い。小走りでリビングの右手に並ぶタンスの前まで移動する。

 その真ん中の棚を開ける。下着の入っている場所だ。いつもならば、それを持って浴室へと向かうのだが、今日は寝ぼけていて忘れていたのだ。

 なんでこんな寒い日に忘れるかな。

 胸中で吐きながら、取り出したボクサーパンツを穿き、少し寒いのでヒートテックをシャツ代わりに着る。


 それから別の段の棚を開ける。

 黒い綿パン、白を基調としたものに黒字で英字の入ったTシャツ、それから桃色のカッターシャツを取り出す。

 黒い綿パンは細身型。穿くのに少し時間がかかるも穿いてしまえば少しゆとりがある。

 黒い英字入りのTシャツの上から桃色のカッターシャツを羽織る。

 なかなかに春らしいスタイルに着替え終えたと感じた頃には時間は八時二十分だった。

 窓から差し込む陽光に身を晒すと、程よく暖かい。

 今日の講義は二限目からなので、まだ少しゆっくりできる。いつもならば、もう少しギリギリに起きているのだが、昨日早くに眠りについたこともあり、少し余裕がある。


 二限は十一時から始まる。

 それならば、と僕は浴室に戻り、先ほど脱いだ下着を含む衣服を入れたピンク色の籠を両手に抱えてアパートの一階、一〇一号室の共同施設に入る。

 そこにはたくさんの数の洗濯機が並べられ、入った所にコインランドリーと書かれている。


 僕はその中の一番端にある洗濯機の前で、腰を下ろし、ドラム式の洗濯機の扉部分を開ける。そして籠の中身を一気に中へ放り込む。どしっ、と洗濯機が少し沈み込んだような気がした。洗濯物分の重さが加わったからだろう。

 それから蓋を締め、洗濯機の真横にある硬貨を入れための細縦穴に百円硬貨を入れる。


 このアパートの住人だからこそ一回百円という破格の安さで洗濯機が使える。

 まぁ、無料で使えるようにしてくればそれに越した事は無いのだが……。


 そんなことを思いながら、僕は洗濯機に並ぶボタンを押す。そして、その部屋の最奥右角にある小さな棚の上から洗剤を取り、洗濯機のそれを入れる場所へと流す。

 最後に、洗濯開始ボタンを押す。同時に洗濯機が唸りを上げながら、小刻みに上下左右に動き始める。それを確認してから僕は、ピンク色の籠を片手に、洗濯機で埋め尽くされた部屋を出た。


 自室に戻った僕は、洗濯が終了するまでの間に朝食を済ませる。

 昨日の朝と同じ。シンクの横に置いているチファールに水を入れ、コンセントを指し込みお湯を沸かす。その間にマグカップの中にインスタントコーヒーとミルク、砂糖を入れ、その中に沸かしたお湯を淹れる。

 湯気が上がるマグカップに少し口をつける。口の中に染み渡るほろやかな苦みが大人らしさを覚えさせる。

 それからマグカップを持ち、リビングの方へと移る。タンスの隣にある食器棚の上にあるトースターに食パンを放り込み、タイマーを拗じる。

 数分後、チン、という明快な音と共に少し焦げ目のついたパンが顔を出す。

 それをトレーに移し、ベッドの横に置いた、いまはコーヒーの入ったマグカップが置いてあるテーブルの上に置く。

 それからそれにバターを塗る。焼かれたパンの熱が冷たく塊になっているバターを溶かし、芳ばしい香りを広げる。


 芳ばしいパンの香りは朝からでも食欲をそそり、僕は大きな口を開けて、パンにかぶりつく。

 焼きたて、ということもあり噛んだ瞬間に、サクッ、と心地よい音を立てる。

 時間の確認も兼ねて、僕はテーブルの向こう側に設置している小型の液晶テレビをつける。

 真っ黒で静かだった画面に横筋が入り、色を帯びる。

 時刻は九時を回ろうとしており、放送中の番組はほとんどが情報番組である。

 面白いものやってないかな。

 そう思いながらチャンネルを回しても、やっているのは『春のお出かけスポット』くらいだった。


* * * *


 テレビも特別に面白いわけでもない。僕は無心で焼きたてのパンを貪り、まだ湯気のあがるコーヒーを一気に飲み干した。

 それらをシンクに運び、綺麗に洗い終え、部屋を出る。住居者用のコインランドリーと化している一〇一号室に向かう。

 そしてその部屋の一番端にある唸りを上げる洗濯機の前に腰を下ろす。


 幾らドラム式とは言え、最新型とはお世辞でも言えやしない。そのため、洗濯にはかなりの時間がかかる。それは、量が増えれば増えるほどに起き、量が少なければ、洗濯しなければならない回数が増え、こちらの出費がかさむ。

 尽きない悩みである。

 そして僕の下着や服などを洗っている洗濯機に表示されている洗濯終了までの時間は残り二分だ。


 まぁ、短い方か……。

 胸中でそう吐露しながら、ポケットに押し込んであるスマホを取り出し、弄る。


『よぉ、いま暇?』

 タイミングを見計らったかのように、高校時代の友だちからのLIMEが送られてくる。

『別に。暇といえば暇』

 とりあえず既読をつけ、返事をするかどうか逡巡し、暇だしな、ということで返事をする。するとすぐさま既読がつく。

『俺いま、チョー暇』

『知らねーよ』


 激しい音とともに残り時間表示が一分に変化する。

『てか、何してんの?』

『洗濯機が止まるの待ってる』

『えぇ、お前が洗濯とか笑えるw』

『笑えるわけない』


 僕は少しため息を吐く。LIMEの相手の名は神崎忠夫かんざき-ただお。頭脳明晰だが、容姿は微妙。大学は国立大学に入学し、エリート街道まっしぐらな奴だ。だが、こうしてたまに連絡を取ってくる。

 生きてる次元が違うんだって……。

 そうボヤく。同時に、洗濯終了を告げる甲高い音が鳴る。


『悪い、洗濯終わったから』

 別に嫌いとか言うわけではない。だが、やはり彼の凄さを身に染みて知っているだけあり、友だちのはずなのに少し距離を取ってしまう。

 申し訳ないな、という気持ちはある。でも、どこか受け入れられない自分がいる。

 返事を送ってからポケットにスマホを入れると、刹那の時間も要さずにブゥー、とポケットの中でスマホがバイブ音を立てる。


 どうせスタンプか何かだと考え、それを無視して洗濯機の扉を開ける。中からは湿ったにおいが押し寄せてくる。

 洗濯機の奥の方で団子になっている選択物を持ってきていたピンク色の籠の中に入れていく。湿った布は常時よりも遥かに重たく、触れた手を濡らしていく。ただでさえ寒い今朝にそれはきつく、手が赤色に変化していくのが分かった。


 手早く集めた洗濯物を入れたピンク色の籠を手に、部屋に戻る。

 リビングを突っ切った先には小さなベランダがある。物干し竿があるだけの簡易なものだが、それでも干すところがあるのは有難い。

 慣れた手つき、とはまだ言い難いが、それでも独り暮らし当初よりかは上手くなったと自負する手つきで洗濯物を干していく。


 ふと空を見上げると、燦々と照らす太陽が視界に入る。

 天気は良いみたいだ。だが、空気は冷たく乾燥しており、完全に乾ききるかは心配なところだ。 

 そんなことを考えながら、僕は全ての洗濯物を干し終え、部屋に戻った時には時刻は九時四十五分となっていた。


* * * *


 思ったより時間が進んでおり、僕は少し慌てて家を出る。

 最寄り駅までは徒歩三分ほどかかる。そして次の電車は九時五十分発。

 これを逃せば、次の電車は二限目に間に合わない。

 必要な物を詰め込んだカバンを担ぎ、最寄り駅へと走る。


 どうして一人暮らしをしているのにもっと大学から近い場所で借りなかったのだろう。失敗したな、だが、これは両親の失敗ではない。

 僕自身が生活するにはここが一番いいと判断した。要するに僕の責任だ。

 近くに大きなスーパーがあり、娯楽施設も整っている。生活用品店などもちゃんとある上、三十分ほどで大学に行けるので良いかと思ったからだ。

 だがそれは自分本位で、あまりに何も考えてなかった。本当に便利なのは、徒歩十分ほど、または電車一本で十分ほどで大学に行ける所の方が良いに決まっている。

 毎日の事なのだ。そこを考えずに行動していたのは、本当に痛手だ。


 どうにか九時五十分発の電車に乗り込めた僕。走ったために、息は完全に上がり切っている。

 だが、通勤・通学ラッシュの時間帯とはズレているためか、電車の中にはゆとりがある。立っている人は僅かで、席も程々に空いている。僕はその中の一つに腰を下ろす。


 腰を下ろすと、額からじわっと汗が吹き出てくる。そして、それは段々と下りてくる。

 僕はそれが流れる前にハンカチで拭う。家を出る前に持ってきて正解だったと本気で思う。

 それから三十分ほど、目をつぶり電車に揺られていた。


* * * *


 幸神大学こうがみだいがくの最寄り駅は幸神駅こうじんえき。大学名の由来は幸神こうじんの読みを変えて幸神こうがみとしたらしい。駅自体はそれほど大きな物ではないが、幸神大学が近くにあったり、オフィス街が近くにあったりするため、利用客は程々に多い。


 大学までは徒歩二分ほどで行ける。一本道を歩くだけで、信号もないため、あの時間の電車に乗れさえすれば、ゆっくり歩いたとしても間に合う。


 学校に着いた僕は講義のあるS一〇四の教室に向かう。受ける講義は英語。

 先週の講義の終わりに次は高校の復習をしてから次の単元に入るとか何か言っていたような気がする。

 少しサボりたい気がするが、こういう楽な時に出席して平常点を稼がなければ……。


 教室に着いてまもなく、時刻は十一時となり始業のチャイムが鳴る。講師の先生は現在完了について話している。


「いいか、have+p.p.で表すんだ。覚えているか?」

 恰幅のいいジェントルマンといった雰囲気のおじさんが説明をしている。

「せんせー!」

 髪を金色に染めた、ケタケタと笑いながら手を上げる。そのギャル系の女子は、身なりもきちんとはしているものの、やはりギャルを意識してか、露出度が高く、それが下品という言葉に結びつけを行ってしまう。

 井上さんとはまるで違う。

 不意に自分の頭の中に過ぎった彼女の姿。清楚で、可憐で、美しい。僕の彼女に対するイメージが次々と湧き起きる。


「そのp.p.ってなんすかー?」

 よく受験に通ったな。ギャル系女子と井上さんとの比較すらも忘れて思う。

 恰幅のいい先生も、この質問には流石に困惑を隠しきれずにいる。

 それから少しの間考えた末、先生は言葉を選ぶようにしてゆっくりと放つ。


「過去分詞のことを表しているんだよ」

 わかるかね、と目で訴えているのがよく分かる。

「あっ、そーなんすか。それじゃあ、始めから過去分詞って言ってくださいよー」

 大きく口を開け、下品に笑う。

 入学してから、この講義の際には彼女と出会っていたはずだ。

 今日までは何も感じてなかった。それにも関わらず、僕は今日、彼女の態度、行動を見てただただ嫌気がさした。


 そんな人たちと同じ講義にも終わりを告げるチャイムが響く。

 チャイムの音にかき消されるも、僕は同時に深いため息を吐いていた。

 やっと解放される、その一心だった。

 講義は幾度となく、彼女またはその周りにいるチャラそうな人たちにより阻まれ、先に進まない。

 なんであんな人たちがいるんだろう。

 僕はイライラを抱えたまま、僕は食堂へと向かう。


 二日も連続で外食するお金はどこにも無く、僕は二百四十円のラーメンを頼む。学食ならではの値段のラーメン。シンプルな麺に、シンプルなチャーシューにメンマ、その上に刻みネギがふりかけられている。

 僕はそれを食堂のおばちゃんから受け取り、お盆に乗せると空席を探す。見つけた空席に座り、麺をすする。まぁ、可もなく不可もなくといった味だ。


「はぁ、井上さんまた逢えるかな」


 思い出される昨日のお寿司の味。それに圧倒的に敗北する味。二人だった昨日。一人の今日。

 思いのほか寂寥感を感じ、ふと呟いついた。


「おい、誰だよ。その井上さんって人」

 ちょうど僕の独り言を聞いたらしく山上工が話しかけてくる。

 手にはお盆を持っており、その上には親子丼が乗っている。学食の中でもそこそこ値の張る代物のはずだ。


「んだ、工かよ」

「俺で悪かったな」


 工はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、俺の隣の席に腰を下ろす。


「ほんとな」

 そんなことを言ってる間に、工は両手を合わせて親子丼に手をつけ始める。


「そんなことよりもよ、井上さんって誰だ?」

 欲しい物が目の前にある子どものように目を輝かせ訊いてくる。

「別に」

 僕は脈打つ鼓動を抑え、自然を装い答える。

 だがそれも工の前では強がりでしかない。

 長年の付き合いからそれは見破られる。

「そんなのはいいからさ」

 工は親子丼を美味しそうに頬張りながら、楽しそうに言う。

 観念したように、僕は短くため息をつき井上さんとの出会いを洗いざらい話した。

 途中、ニヤニヤする工の顔に腹ただしさを覚えたが、それでも工はちゃんと最後まで聞いてくれた。


「へぇー、そんなことが」

 そして、半分以上食べた親子丼の丼鉢の上にお箸を掛けてそう呟く。

「うん」

 自分で自分と女の子との出会いを話すことがこれほどまでに恥ずかしいことだとは思わず、頷く際に視線をそらしてしまう。しかし、彼はそんなことを機にした様子はなく、代わりに僕の背中をバシン、と叩いた。驚いてそちらを見ると、ニヤニヤと笑って、

「なら、俺呼べよっ!」

 と、言ってくる。


 そう、これが長年工コンビと言われた僕と工との関係性。

 何でも話せて、それをどう言われても結局は笑っている。そんな関係性。

 残り少なくなったラーメンを一気に食べ終え、スープも飲み干す。だがまだ少し物足りない気もするが、もうお金がない。


 そして時刻はいつの間にか十二時四十五分になっていた。


「ごめん、工。次もあるから行くよ」

「そうか、俺は今日はここで終わりだ」

「ズルいやつ」

「昨日、一人でよろしくやってたくせに。よく言うぜ」


 それを最後に僕たちは別れた。

 返却とプレートの上がった場所に食べ終わった器を置き、三、四限と二限連続で演習の行われる教室へと向かう。


 楽しいから良いものの、二限は長い。この連続講義が終わる頃にはもう十五時五十分になるのだ。


* * * *


 授業が終わってから、僕はその足で大学近くのスーパーに行く。

 そこで十七時からバイトが待っているのだ。


 徒歩語分程のところにあるスーパーコウガミは、夕方にかなり盛り上がるスーパーだ。仕事帰りのサラリーマンからOL、それから学生たち。おにぎり一つだけなど、一人一人は大した買い物をしなくても、その数が増えれば大変となる。

 僕の主な仕事は食品等の陳列だ。

 目に見えて列が長くなるレジよりも、覚えることが少なく、急かされることもないので意外と簡単なのだ。

 ほとんどの場合、少なくなった棚に増やすという作業なので元ある食材に合わせて置けばいいのだ。

 だが今日は、ベテランの慣れたレジ打ちの人でもそれを捌ききることはできず、僕もレジ打ちに回ることになった。


 出来るわけねぇだろ。そう思いながらも店内アナウンスに従い三番レジに入る。

「九八円が一点──、計六七八円です」

 白髪混じりのおばちゃんは今日の晩御飯にするのであろうと思われるサラダや唐揚げなどの総菜品を購入している。

 痛みきった革製の財布からおばちゃんは千円札を支払う。

 僕はそれに対する三二二円をお釣りとして返した。


 お客さんはひっきりなしにやってくる。次は三十代後半のOL。次は缶コーヒーだけを持って並んでいた作業服を着た四十代の男性。慣れないレジ打ちは神経を使い、疲労を大きくさせる。


「いらっしゃいませ」

 カゴを自分の前までスライドさせ、決まった作業を流れ作業で行う。

「あっ!」

 一度聞いたら忘れない、美しい鈴の音よりもきれいな声が僕の耳に届く。

 それと同時に昨日の会話が一つ一つ思い起こされる。


「井上さん?」

 ゆっくり顔を上げながら、恐る恐ると訊く。

「覚えててくれたんだ!」

 ニコっ、とはにかんで喜んだ様子を見せる井上さん。僕にはそれが天使のように見えた。

 周りの人なんてモブ。彼女だけが輝き、僕の世界に豊かな色を与える。

 今日あった色んなことを吹き飛ばせる笑顔の彼女。僕は一瞬で幸せになる。


「もちろんですよ」

井上いのかみくんはここでバイト?」

 苗字を間違えず言ってくれたことに喜びが溢れる。

 彼女は僕の話をきちんと聞いて、ちゃんと覚えててくれていた。

 それがたまらなく嬉しくて、思わずにやけてしまう。


「はい」

「そっか」

 商品を持ち上げ、バーコードを読み取る。ディスプレイには金額が表示される。


「ねぇ、また逢えたでしょ」

 曇がなく、溢れんばかりの笑顔を向けられ、僕は思わず手が止まる。彼女の後ろにも人は並んでいる。

 しかし、その瞬間だけは彼女以外の全てから視界から消える。

「そう……ですね。僕、嬉しいです」

 真紅に染まった顔を見せたく無い。その一心で、僕は俯くのだった。


 それからしばらくして、客足は一気に少なくなった。助っ人としてレジに入っていた僕は通常業務に戻る。

 しかし、戻る頃には上がりの時間になっており、僕はロッカーやスタッフの休憩室がある裏へと入っていく。


 スーパーコウガミのロゴが入ったエプロンを脱ぎ、ロッカーの中に掛けてあるハンガーに引っ掛ける。それからスーパーコウガミの制服、白の縦ラインがうっすらと入った青のカッターシャツを脱ぎ、ロッカーにもう一つ引っかかっているハンガーに掛ける。それから黒のスラックスを脱ぎ、ロッカーの中にかかる竿に、折り目を変にしないように気をつけながら掛ける。


 下着姿になった僕は、寒さに身震いしてから朝から着ていた服に着替える。


 店長や先輩方に挨拶をしてからスーパーを出たのは、二十時過ぎだった。

 澄み渡った綺麗な夜空は満点の星が瞬いていた。

 明日も晴れだな、胸中で零しながら幸神駅に向かって歩く。


 そんな時だった──

「ばあっ!」

 不意に、電柱の影から人が現れた。

「うわっ!」

 僕は慌てて二、三歩後退する。

「誰でしょうか!」

 楽しげな声で僕に問いかけてくる。

「井上さん。でしょ?」

 聞き間違えるはずの無い艶のある声。夜の静寂に突き抜ける華麗な鈴の音。

「正解。何でわかったの?」

「声だよ」

 不可思議なことが起こったと言わんばかりの声音で、僕に問う彼女。

 それがどこか子どもっぽくて可愛らしいと感じた。

「変声機でも使えば良かったかなー」

 僕の答えに、少し残念そうな声を上げる。

「そういう問題じゃないんだけど……」

 僕は小さな声で呟きながら、星に照らされる彼女の横顔を見る。

 整った横顔。夜空の星にさえ劣らない輝きを見せてくれる。

「ん? 何か言った?」

「いや、言ってないよ」

 二人の笑い声は夜の閑静な街に響いた。


 僕たちは駅前の近くの公園に寄り、そこにあるベンチに並んで腰を下ろした。


「待っててくれたの?」

 違う、と言われるのが怖かった。でも、彼女が居てくれたことが嬉しくて。

 恐怖心を抑え込み、訊く。

「えへへ……。まぁね」

 少し頬を赤らめた彼女は、可愛らしく、悪戯っぽく僕にウインクをして見せる。

 それがすごく照れくさく、僕は言葉に詰まる。


「──寒く無かった?」

 どうにかそう紡ぐと、井上さんは微笑を浮かべてから小さく首肯する。

「どうして待っててくれたの?」

 寒い上に井上さんは女の子で、夜には危険が付き物なのに。そんな思いが交錯した僕は少し強めにそう訊く。すると、井上さんの表情が少し強ばったのが分かった。


「昨日のお礼がしたくて」

 それから少し逡巡した井上さんはそう言い、手持ちのベージュのカバンの中から小さな袋を取り出した。


「これは?」

「昨日のお礼だよ」

 優しく微笑む彼女。辺りの寒い空気なんて嘘であるかのように、心が温まる。

「ほんとに? ありがとう」

「まぁ、シャーペンなんだけどね。大学生なら使うかなって思って」

 力ない笑顔は儚く、どこかに消えてしまいそうに感じた。

「使わせてもらうよ。ありがとう」

 何度目かになるお礼を告げ、僕は井上さんの手の中からその袋を受け取る。

 受け取る際に触れた手は、外気に触れた冷たさの他に、優しさの暖かさがあった。


「開けていい?」

「いいよ」

 僕は受け取った袋を破いてしまわないように丁寧に開けていく。

「そんな丁寧に開けなくていいのに」

 井上さんは苦笑しながらそう言う。

「いや、綺麗に開けたいんだよ」

 綺麗に貼られたテープを剥がし、丁寧に袋を開け、僕は中のシャーペンを取り出す。

 ピンクを基色とした、どちらかと言えば女の子向けのトガトガだった。

 あまりに嬉しくて、僕は言葉を失う。その様子に、彼女は慌てた様子を見せる。

「えっ? えっ? えっ? 嬉しくない? お店の人は最近人気って言ってたんだけど……」

 焦った様子もまた可愛く、僕は小さく微笑んでかぶりを振る。

「うんん、嬉しいよ。本当に嬉しい……。ありがとう」


 たとえ誕生日であっても、女の子に祝ってもらうなどという羨ましい出来事が起こりえる事は一度も無かったので、こみ上げてきた涙を堪えることができずに溢れ出る。


「えぇ、どうしたの!?」

 突然の僕の涙に井上さんは驚き、あたふたとし、「私、悪いことした?」と訊いてくる。

 目尻に溢れる涙を強引に拭い去り、僕は首を横に振りその言葉を否定する。そして、

「嬉しくて」

 と、少し震えた鼻声で答えた。

「ほんとに?」

「うん、本当に」

 僕がそう答えると、彼女はふふっと笑う。

「そっか。喜んで貰えたなら嬉しいな」

 そして、満天の星空を見上げ、僕に訊ねる。

「ねぇ、井上くん。アルタイルって知ってる?」

 知らないわけが無かった。小学三、四年生くらいになればみんな知っていると言っても過言ではない。

「知ってるよ」

 夏の大三角の一角を担っている事で有名なアルタイル。僕はさほど理科は得意ではないが、星については例外だ。

 そして、彼女と同じように空を見上げる。

「アルタイルがどうかしたの?」

 視線は夜空に向けたまま、彼女が特定して訊いたそれについて訊く。

「だって、アルタイルって彦星様なんでしょ?」

「えっ、あっ。そうだな」

 唐突のことで驚いたが、その通りだ。そして、ミルキーウェイ”天の川”を挟んで向かい側にあるベガこそが彦星のお相手である織姫だ。

 七夕という行事が存在する日本では有名なことだ。でも、どうして彦星限定なのだろう。僕は拭えない疑問に思考を奪われるのを感じる。


「んー、やっぱり分かんないね」

 井上さんは残念そうな様子は見せるものの、分かっていたという感じにも見えた。

 今はまだ春。アルタイルが属するのは夏の大三角。まだ季節外れなのだ。


「あともう少ししたら見れるよ。それよりも、どうしてアルタイルなの?」

 拭えない疑問を、僕はそっと口にする。

「アルタイルはね、私にとって特別な星なの」

 井上さんの目の焦点は合っておらず、遠い昔を思い出すかのようにそう告げる。

 僕はそれが何とも歯がゆく、言葉では表現できない何かに胸が締め付けられるような気がした。


 それから間もなくして僕のスマホがバイブ音を立て始める。

 その音は、特別な星、という彼女の言葉の意味を考えさせることを否定するかのように、音を大きくしていき、僕を現実へと引き戻す。


「ごめん、電話」

「うん」

 井上さんはまだアルタイルを探しているのか、視線を夜空の星に彷徨よわせながら、ポツリと返事をする。

 それを確認し、僕は井上さんから少し距離をとる。

 僕はポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを確認する。

 表示は峯川みねかわさんとなっている。

 僕のアパートの隣人さんだ。


「もしもし」

「あっ、井上いのうえくん?」

井上いのかみです」

 このやり取りは峯川さんとの電話ではお決まりだ。

「そう、井上いのかみくん。洗濯物干しっぱなしだよ」

 彼女の言葉に僕は朝の自分を思い出す。

 朝、遅刻寸前になるまで家でしていたこと。洗濯だ。

 洗濯をして、それを干した。それから僕は一度も家へ帰ってない。

 故に、朝のまま。洗濯は未だ干しっぱなしということだ。

 そこまで思考が追いつくと、僕は勢いよく言う。

「ありがとうございます。すぐ帰ります」

「はいよー」


 峯川さんとの電話を切り、スマホをポケットへと戻すと、僕は井上さんの下へ戻り、洗濯物を干しっぱなしだということを伝える。

「それは大変だね!」

 自分の事のように慌てふためく彼女が、どこかおかしくて笑ってしまいそうになる。

 それをぎゅっと抑え、僕は真剣な表情で彼女に向き合う。


「そう。だから帰らないと」

「じゃあ、またね」

「また」


 井上さんは昨日と同じように大きく手を振る。僕もそれに応えるべく手を振った。

 子どもじゃあるまいし、夜だといっても大きく手を振るのは恥ずかしかった。

 しかし、井上さんの満足そうな笑顔にそんな気持ちは吹き飛び、代わりに嬉しさがこみ上げてくる。



「送ろうか?」

 そう訊いたが、彼女はかぶりを振った。

「洗濯物、はやく取り込まないと」

 本当なら送って行きたい所だが、彼女がそう言うものだから、強く言うことはできず引き下がるしかなかった。

 帰りの電車の中──。

 スーツ姿の男性がほとんどとなった車内で僕は、ため息をついた。


 家に帰ると慌てて洗濯物を取り入れた。

 洗濯物は春の夜風に吹かれ、すっかり冷たくなっていた。

 やっちまったな、と思いながら室内に放り込むと僕はそのままお風呂に入った。

 ここに来て学校とバイトの疲れが一気に襲ってきたのだ。

 お風呂から上がった僕は、寝巻きに着替えるとそのままベッドに滑り込んだ。

 すぐに睡魔は襲ってきた。

 だが、同時に井上さんの顔が脳裏に過ぎった。

 特別な星って誰か特別な人が好きだった星だったのかな。

 そして、先ほど彼女が言った言葉が脳内で反復する。リピートし、焼き付くようにこびりつくように、僕を侵食していく。


 女々しい、ということは分かっている。分かってはいるけど、やはり考えてしまう。

 マックスまで高まっていた気持ちは、どこか下降気味になっているということを感じながらら、同じくマックスになった睡魔に身を任せた。

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