僕が過ごした君とのキセキ
リョウ
1日目
僕こと
優しく吹いた風は桜の花びらを宙へと舞わせ、頬に触れる。
少し肌寒さは残るけど気持ちいい。
駅までの道のりを歩く途中で立ち止まり、空を見上げる。雲一つない、綺麗な青色が支配する快晴だ。
家からの最寄り駅に到着した僕は、弱い尿意に襲われその足でトイレへと向かう。朝早く通勤ラッシュの時間帯ということもあるだろう。トイレの中はたくさんの人で溢れかえっている。
入ってすぐにある洗面台の前に立ち、トイレの順番を待っている人の列に並ぶ。
そこにはもちろん鏡もある。サラリーマンはそんな物を気にした様子はなく、スマホを弄っている。しかし、僕と同じくらいの人たちは鏡に映る自分を見て、髪型を整えたりしている。
自分に自信、あるのかな。
そんなことを思いながら、鏡を一瞥する。
そこに映るのは切ったばかりで綺麗に整った短い髪に少し吊り上がった猫目が特徴的な僕の顔。
ぶっさいくだな。
小学校の時は中学生になればイケてる男になれると思った。でも中学になってしばらくして、イケてないことに気づいた。それならば高校生になれば、と思った。しかし、それも違った。じゃあ大学生になれば、と淡い夢を抱いたが変わろうと努力のしない僕に、そんな都合のいいことはなかった。
短くため息を吐き、トイレを出てホームの方へと歩を進める。
まだ我慢できそうだし、トイレは学校に着いてからでいいか……。
僕の名前は井上工。
間違えられたからと言って大きな問題が起こるわけではない。しかし、やはり名前を間違えられるのは嬉しいものではない。
「二番ホームに電車が参ります」
ホームに着いてしばらくしてからのことだ。駅内にアナウンスが流れる。
弄っていたスマホをポケットの中に入れ、電車の到着を待つ。
シルバーを基調とした車体の中央に赤色のラインが入っている。これがこの近辺では有名なローカル線の電車なのだ。
到着した電車の中はやはり超満員だ。ドアが開くと同時に、大量の人が雪崩のごとく車内から出てくる。それと入れ替わるように、僕と同じくホームで待っていた人たちが車内へと入っていく。
優先席付近のつり革に左手を通す。右手で先ほどポケットに入れたスマホを取り出す。手帳型のカバーケースをスマホのカメラ部分に被さるように折り曲げ、盗撮の疑いを防止する。満員電車の中は本当に気をつけなければいけないことだらけだ。
痴漢に盗撮。さらには、盗難。朝からげんなりとする気持ちがこみ上げ、それをため息という形で表す。
そんな満員電車を三十分ほど乗ると、僕の通う大学、
駅を出ると、東の方角にキャンパスの一部を覗くことができる。徒歩約二分ほどで着くことができ、交通の便に富んだ位置にある。
大学の中では別段大きいわけでないが、しかし周辺の建物と比べるとやはり大きい。
偏差値四十八で、賢いとは言い難い私立大学。かの有名な
幸神大学の現代社会学部。何を勉強するんだと思わざるを得ない学部に所属している。理由は受験科目が国数英の中から選択一教科だったからだ。
別に学びたいものも無かったが、ただ簡単に入れそう。そんな理由で受験し、合格して、現在通っているのだ。
傍から見ればただの横着者だ。
そんな僕の今日の楽しみは図書館だ。
まだ入学して間もないこともあり、空き時間を共に過ごす友人はいない。そのために通い始めた図書館なのだが、そこは当たり前だが静かで、安らぎが求められる場所だった。
一人暮らしを始めたばかりの僕にとって、静寂は心を不安にさせるものだった。しかし、図書館の静かさは自宅のそれとは違った。静かでも、人がいる。実家にいるときは考えもしなかったことが今ではすごく気になる。
当たり前と思っていたことほど、実はすごく大事なものなのだ、ということに遅まきながらようやく気が付いた。
そんな思考を巡らせているうちに大学に着く。白い壁面の大きな建物で、どこか捻れを感じさせる特徴あるA棟、と呼ばれる幸神大学に入りすぐに見える、言わば大学紹介のパンフレットなどに載るメインの建物に入り、階段を登る。
エレベーターも存在するのだが、一限目の現代社会の講義が行われるのが二階のためエレベーターを待つ時間がもったいない。
二階まで上がると、目的の教室二〇三教室に入る。
もうすでにかなりの生徒が室内にいて、スマホを弄ったり、友達と話したりしている。
空いてる席は……。
室内を一瞥し、端の方に空いている席があることを確認してそこに座る。
授業まであと数分ある。
教室の前には担当の先生がいつチャイムが鳴ってもいいように待機している。
禿頭で白いあごひげを生やした年老いた教授は、講義のために用意したであろうプリントに目を落としている。
紺色のスーツに、スラックスというそれなりにしっかりとした格好をしてはいるも、年には勝てないようだ。
講義までのわずかな時間の間に趣味の星について調べる。どうして星なのか、と訊かれるとそれに対する回答は持ち合わせていない。何故かわからないが、好き。いつの間にか星が好きだった。
星座の神話や、夏の大三角、冬の大三角。星については、どれだけ調べても調べたりない。
ブラウザで黄道十二星座を調べて数分。学内にチャイムが鳴り響く。
同時に教授は立ち上がる。
曲がった腰で、眠たくなるほど小声でぼそぼそと講義を始めた。
配られたプリントから察するに、今日の講義は民族問題らしい。堅苦しい内容の上、はっきりとしない言葉。そんな講義が朝から九十分。
しっかり起きていられるだろうか。いや、耐えられるわけがない。三十分が過ぎた頃には意識が曖昧になり、講義の半分が過ぎるころには完全に眠りに落ちた。
――あれ分かる?
黒髪の幼い少年がぽつりと訊く。空に浮かぶはあと少しで満月という月ときらきらと輝く星々。
季節は分からないが夜だということはわかる。
そう言えば、僕って昔から星が好きだったよな。学校で好きな季節は? って訊かれて夜って答えて笑われたこともあったっけ……。
少年の隣。赤色のキャップ帽子を被った少年が口を開く。
あれがキミの言ってたもの?
黒髪の少年は嬉しそうに笑顔をこぼしながら頷いた――
講義が終わる少し前。僕は妙に胸を締め付ける夢を最後に目を覚ました。寝起きで聴覚が覚醒しきっていないことと、教授の小声が相まって、何を言っているのかさっぱり分からない。
じゃあ何故そんな講義を受けているのか、と思うかもしれない。
それはこの講義が卒業するために必須の講義だからだ。
泣く泣く、と言っても過言ではないほど嫌な講義だ。
それにテストがあるってのがまた嫌なとこ。テストで点を取れないと幾ら出席をしていても単位を貰えない。そして、それは逆も然りだ。
その上、二限目は何も無い。正直、満員電車に揺られ、学校に来ること自体が億劫である。
必須じゃなければ絶対受けないし、今頃家で寝れてるんだろうな。
そんなことを考えながら、一限目の終わりを告げるチャイムを聞いた。
二限目に講義はないが、三限目には講義がある。そのため、家に帰る時間、また戻ってくる時間を考えれば学校で過ごすのがベスト。ゆえに、この時間を大学の図書館で過ごすようにしている。そしてそれが、今の楽しみの一つ。
外からも入ることができるようになっているこの図書館では様々な出会いがある。
特段人と関わりたいと思うような人柄では無いが、それでも僕にとってここは家で一人で孤独を感じている時間を埋めてくれる。
言わば軽い憩いの場。そんな場所になっていた。
一限目の眠たい講義を終え、トロンとした目を手の甲で何度も擦りながら図書館へと向かう。
入学して間が無いので、数え切れないほどというのはおこがましいが、三度は通ったと思われる廊下を歩む。
歩きながら僕は鞄の中に手を入れる。手に触れる感触で財布を探す。図書館に行くのになぜ財布がいるのか。それは、財布の中に学生証が入っているからだ。学生なら、仮に本を借りるとしても面倒な手続きなしで借りられるうえ、図書館備え付けのパソコンを使い放題という特典もある。
時間潰しには持ってこいの場所だ。
鞄の底の方からそれを見つけると、足取りを早め図書館へと入る。
受付には五十代半ばほどの白髪混じりのおばちゃんがいる。彼女の前に立ち、学生証見せ、幸神大学の生徒である証明をする。
おばちゃんはパンダのように垂れた目をすっと細め、それを受け取ると慣れない手つきでマウスを動かし、キーボードに目を落とす。
人差し指を立て、キーボードをゆっくりと弾いていく。恐らく学籍番号だろう。触れるキーは僕の学籍番号と重なる。
丁寧に英字や数字を探しながら打つおばちゃんを、とりわけ急いでいるわけでもない僕は何を考えるわけでもなく、ただぼーっと待つ。
一分半ほど掛けて八文字の学籍番号を打ち終わったおばちゃんは、申し訳無さそうな表情を浮かべながら、ごめんね、と言い学生証を返す。
──いえ、大丈夫ですよ。
優しく微笑み、学生証を受け取った僕はそれを財布の中に戻し、財布をカバンの中に入れる。
図書館に入り、ファンである
有名どころでは鬼ごっこシリーズ。ついこの間読んだのは麒麟だったかな。
今日は代表作とも呼べるパズルを読もうかと、考えながら彼の作品が並べられる日本人作家の棚の前に移動する。大学側としては、海外作家や、物語にもなっていないようなジャーナリストが書いた本を読んで欲しいのか、それらが並べられる本棚は入り口近くに鎮座している。図書館の奥に多く並べられる日本人作家の本が並べられる棚の前に来ると、《あ》、《い》などと書かれた札が順番に並び置かれている。どうやら作家名順で置かれているらしい。《や》行の欄を指で追って山田洋介先生の本を探す。
――あった。
五段ある本棚の下から二つ目のほぼ中央。そこに鬼ごっこシリーズから指探しなど彼の代表作品から最近発売された本までが揃っていた。
その前で何を読むか逡巡するも、やはり当初目的としいたパズルを読むことにし、赤色の表紙が特徴的なそれを手に取り、棚に背を向けた。
どんな話だろう。有名だし、おもしろいかな。
などと、本を読むことへの期待を膨らませながら、僕の席、と心の中で決めた五つ並ぶテーブルの右から二番目の左側、入口側から三番目の席に向かう。
いつもなら必ず空いている。ましてや大学は授業中だし、平日午前十一時過ぎに大学図書館に足を運ぶ暇人はそうそういない。全くいないというわけではないが、いるのは年を取ったおじいさんやおばあさんがちらほら、といった感じだ。
僕の中の常識、この一か月弱の経験がそう訴えていた。
だが、それにもかかわらず今日は先着がいた。
全部で四十近くある椅子の中、僕の席、と決めたそこだけが座られている。
そんなことあるのかよ……。
嘆息気味に胸中で吐き捨てる。
長く艶のある黒髪が特徴的な女性が僕の席には座っていた。歳はさして変わらないように感じる。しかし、この大学にいる生徒だとは思えない。こんな感じの女性がいたならば噂にならないはずがない。
お洒落な白いブラウスを着ており、清潔感に清楚な感じが際立つ。
遠目であるうえ、本に夢中になっているらしく下を向きっぱなしなので細部までは分からないが、しかし纏う雰囲気は超絶美人だと感じさせる。
纏う空気には凛々しさがあり、優しさがあり、それから可憐さがある。それらが程よい均衡を保ちながら、互いを尊重し、存在しているようだ。
パズルを片手に、いつもとは一つ左側のテーブルの左、入口側から三番目の席に腰を下ろす。
──いつもと違う。ただそれだけで妙な違和感を感じる。繰り返される日常がいかに好みに染みついているのかを否応なしに感じさせる。それを仕方の無い事だ、と言い聞かせ赤色の表紙をじっと見る。
すると不意に視線を感じた。
何事だ? そう思いながら、視線を上げると新たに図書館に現れた僕に気づいたのか、女性は本から顔を上げ笑顔を見せた。
──綺麗だ。その感情が先走る。この世の存在を超越したような彼女に息を吞む。
化粧してます! という化粧の自己アピールはほとんど無く、申し訳程度に化粧っ気があるだけ。流行りの真っ赤のグロスを塗った唇はそこにはない。
流行りに乗らない。若者らしくない。しかし、違和感を覚えることはない。それはやはり、元の素材が良いからだろう。しているのか、していないのか分からない程度のナチュラルメイクでとびきりの美人に見える。
下手に厚化粧したそこら辺のギャルよりもよっぽど清楚で可愛らしい。
大きく、ブラックホールの如く何もかもを飲み込んでしまいそうな漆黒の瞳に、くっきりと浮かび上がる二重の線。チークで軽く桃色に染められた頬は、表現し難い儚さがある。また僅かな輝きを放つ唇は単なるリップで潤いを表現しているのだろうか。だが、それが艶やかでぷるんとした桜色の唇をうまく引き立たせている。
筋の通った鼻に、細く手入れのされた眉。大きな瞳を更に強調するかのように長いまつ毛。
全てが整った、芸能人ですら羨ましがるようなそんな顔立ちの女性の笑みに僕の心は奪われかける。
今すぐここから移動して彼女の隣に座りたい。
そういった気持ちがとめどなく溢れ、椅子に密着しているはずのお尻が浮き出すような、そんな感覚に陥る。
しかし、座った場所を移動しわざわざ彼女の隣に行くような、そんなナンパにも似た行為ができるわけない。彼女はただ会釈しただけなのだ。それに漬け込むように、何かしらのアクションを起こせば、彼女に引かれること間違いなし。
うじうじと、様々なパターンを妄想しては泡沫に消し去る自身の情けなさに心底嘆息し、パズルを手に取り表紙をめくった。
目次に目を落とし、軽く一瞥してから本文へと入る。だがしかし、全く頭に入ってこない。漢字はきちんと読めている。文、一文一文の意味は分かる。だが、物語としてのストーリーが微塵も入ってこない。おそらくここで音読しても内容は入ってこないと思う。それは、この本のストーリー性が読めてこないとか、面白いとか、面白くないとか、そういったことが原因ではない。理由は単純で明解。芸能人みたいなあの女性が気になって仕方がないからだ。
一文読んでは、視線が彼女に移動する。まるで操り人形であるかのように、彼女を追いかける。まだ帰ってないかな。いつまでいるのかな。そんな、本とは無関係な思いが僕を支配する。
初めて会った人間にここまで興味を持つことは人生の中でそうあるものじゃないだろうと思うし、過去にこういった経験は一度もない。でも、たぶんこういうのを一目惚れ……なんて言うのかな。
らしくないな考え、想いが本に集中させないほどに胸中を掻き混ぜた。
声をかけてみようか。何度そう思ったことだろうか。
しかし、人見知りの僕にそんな自殺行為のようなことはできない。できるわけがない。
そんな自問自答を何度か繰り返しているうちに、二限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。ちなみに本は、五十二ページまで読んだ。しかし、内容は一切覚えていない。
同時に全生徒の昼食タイムが始まる。この時間、やはり食堂は戦場化する。高校でも食堂は込み合っていた。だが、大学のそれは次元が違う。全生徒の数も違うが、一番の違いは食堂を利用する人の数だろう。
高校に比べ、大学はお弁当を持参する人が少なく、混むのが分かっているのにもかかわらず食堂でメニューを頼む人が多い。
食券販売機に並ぶ者。おにぎりやパンといった惣菜品を買うため、隣の売店に並ぶ者。
おそらく今日もそんな人たちでごった返す。
それを避けるため、いつも少し早く食堂へと移動するのだが、今日は件の女性に見とれていたために時間の使い方を完全に間違えてしまった。
やっちまったな、と心底悔みながら椅子を引き、立ち上がろうとする。
瞬間――
「ねぇ」
──ふんわりとした心地の良い柔らかい声がした。
鈴の音、なんて表現でも追いつかないほどに心に溶けて、染み渡っていく声だ。
「あ、はい」
その心地良さに浸りながら、声の主が誰かも分からないまま上の空で返事をする。
しかし、声の主を確かめるために見上げた途端、平然は崩れさり、思考はフリーズし、二の句を続けようにもそれが出てこない。
覗く大きな漆黒の瞳にはしっかりと僕が捉えられ、彼女の前にいることすらおこがましいように感じる。
近くで見ることで分かるきめ細かい肌。ブラウスの上からでもわかる二つの膨らみ。察するに手に収まるか、収まらないかの瀬戸際辺りだろう。
更に七分丈の薄茶色のチノパンの裾から覗く細く、白く、きれいな脚がより一層にスタイルの良さを際立たせる。
モデルと言っても通用しそうだ。
「君はここの学生さん?」
微笑みに完璧なんて表現が合うのかは分からない。でも、これはそうとしか言いようのない微笑みだ。彼女はそんな微笑みを駆使して、そう訊ねる。
先程は相手が件の女性であることを知らなかったうえに、昼食のことを考えていたこともあり、返事ができた。しかし、今回は違う。会話の相手が彼女だと理解し、昼食のことなど頭の片隅にも残されていない。だからこそ、緊張が人生史上最大になり、僕の心を掻き回す。
ただ、ありのままを答えればいい。
それだけのはずなのに……。頭の中が真っ白になり、簡単な受け答えすらできないほどになる。
「え、えっと……大丈夫?」
彼女はそんな僕を心配するかのように薄い声を零す。
にも関わらず、頭は真っ白なキャンバスで、どうにか色を落とそうと必死に探る。
「……はいそうです」
視線をそらすことで、ようやく真っ白なキャンバスの上に薄く灰色に滲んだ水滴を落とすことができた。声を震わせながらではあったが、彼女の質問に答えることができた。
相手にはどう伝わっただろうか。
ただ質問に答えるだけで声を震わせるなんてみっともない、なんて思われてないだろうか。変な声とか思われてないだろうか。
負の、起こりうる事象が脳裏に逡巡して、心を摩耗させていく。ちりちりと擦り切れるように心が痛み、高速で打つ鼓動がうるさくて仕方がない。
そんな僕の姿を下から上まで見上げ、彼女は楽しそうな、それでいて嬉しそうな笑みをこぼす。
「そうなんだ」
それから彼女はゆっくりと瞳を伏せた。それはどこか寂しげで、不安に揺れ動く表情であるかのようだと感じた。
「どうしたのですか?」
放つ言葉に緊張を帯びさせながら、どうにか僕なんかに話しかけた理由を問う。ただ言葉を放っただけなのに、心臓の脈は加速し破裂しそうに感じる。
「この辺りでご飯食べれる場所あったらなーって思って」
一瞬見せた翳は消え去り、彼女は照れたように首の裏を軽く掻く仕草を見せる。
その姿に脳裏がチクリと反応する。だがそれは一瞬で消え去り、彼女の可愛さがすべてを上書きし、心をくすぐる。それが妙に嬉しくなり、心が躍り、普段なら言えない言葉がするりと零れ出す。
「僕で良ければ案内しますよ」
「えっ!?」
自分でも驚くほど、滑らかに出た言葉に彼女はただでさえ大きな瞳をさらに大きく見開く。
しかし、すぐに表情を戻し、嬉しそうに表情を緩める。そして、僕の心意を探るようにぽつりと訊く。
「いいの?」
「いいですよ」
席から立ち上がり、大きく頷く。そして覚悟を決める。思わず零してしまった言葉に責任を持つために。
「少し待ってください」
早口になりながらも、そう言うと山田洋介さんのパズルを手に持ち、それが置いてあった本棚にへと向かう。
彼女はその後ろを付いてきてぽつりと訊く。
「本、好きなの?」
「好き、と言うより長い空き時間を潰せるから読んでることが多いかな」
「そうなんだ」
元あった本棚の前にまで移動し、本を戻す。視線をばっちりと合わせることはまだ難しい。だが、会話はそれなりにできるようになってきた。
「……それよりもなんで大学図書館に?」
訊いていいことなのか、どうか分からなかった。でも、言えない理由がある人が大学図書館に来て、そこにいる人と話すようなことはしないだろう。そう判断し、訊ねてみる。
すると、今までみたくすぐに返事は返ってこず、額には嫌な汗が浮かび始める。
今すぐにでも彼女の顔を見たいと思うが、彼女が僕の後ろを歩いているため見れない。それがまた、妙な不安を覚えさせる。
「答えにくかったら、大丈夫ですよ」
そう呟き、覚悟を決めて後ろを振り返る。
彼女は少し俯いており、表情には翳が落ちているように感じた。しかし、それも一瞬。
彼女は顔を上げ、うんん、とかぶりを振ると、
「ちょっと調べたいことがあったの」
と答えた。
それが嘘か本当か。僕には分からない。
「そうだったんですか」
だからそう答える他ない。
受付まで行くと、おばちゃんに学生証を見せてから、図書館を出た。
それから彼女を隣に連れて、図書館の周りをぐるっと回った。理由は学校から出入りできる方ではなく、一般向けの出入口から出るためだ。
学校の方へ戻ると、食事を出来る場所は食堂に限られてしまう。だがそこは、もう狂ったかのように人だかりができている。
故に、外へ出るしかないのだ。
「あの、どんなものが食べたいですか?」
案内役を買ってでたはいいが、入学して間がないためそこまでこの辺りに詳しい訳でもない。〇〇屋などと指定しないで、と願いつつそう訊く。
「おまかせでって言いたいけど……、それが一番困りますよね」
晴れやかな苦笑を浮かべ、僕を見る。それはエンマ大王様であっても過去の過ちを赦してしまいそうなものだ。
どこに行けばいいかな、と思い歩きながら周囲に目をやる。
行き交う人々に視線を感じる。どうやら通りすがりに僕たちを見ているようだ。
どんな風に映っているのだろ。
不釣り合いなカップルとか思われてるのかな。不意にそんな自分に都合の良い思いを抱く。
方や芸能人顔負けの超絶美人。方や誰がどう見ても中の下としか言いようのない男。
短く切りそろえた黒髪は清潔感があるように見えるが、実際のところは寝癖を直すのがめんどくさいだけ。
切れ長と言えば聞こえはいいが、ただ目が細いだけ。男らしいといえば男らしい顔立ちなのかもしれない。
でも――どこをどうとってもイケメンなんて言葉からはかけ離れている。
「そうですね」
そう答えながらも、本当に僕なんかで、という思考が巡ってしまう。
取り柄という取り柄は背が高いというところくらいだろう。身長は一八七センチで、高校で背の順に並ぶと後ろから三番目だった。
それでも声かけて貰えたこと自体が、まぐれで、キセキで、ミラクルだったんじゃないかって思う。
「それじゃあねー、私お寿司食べたい!」
彼女は元気よく声を放ち、人差し指を立て子どもみたくそう提案する。
それは本当に小学生が自信満々に発表するかのようで、愛らしく、美しく、それでいて惹かれてしまう。
幸い、お寿司はこの前小中高大と一緒の幼なじみ
そんな工との遊びが功を成した。
「分かりました。回転寿司でいいですか?」
「うん!」
長く艶のある髪をバサッと動かし、大きく頷く。
同時に、鼻腔をくすぐる春の柔らかい匂いがした。
──いい匂い。
瞬間的にそう感じたが、それがシャンプーの匂いだと気づくのに少しの時間を要した。
回転寿司のくや寿司までの案内を始める。
まずは東方向へと歩く。真っ直ぐ交差点まで歩くとそこを左へ曲がる。
僕たちはそこの信号に引っかかった。
ちょうどお昼ということもあり、スーツ姿にコンビニの買い物袋を提げている人を多く見る。
「ねぇ」
歩きながら少し話したが、やはり初対面ということは大きく、ブツブツと途切れ途切れになる。
そこへ彼女の呼びかけが鼓膜を撫でる。二度目のねぇ。だがそれに慣れることはなく、心臓が跳ね上がり、鼓動が何倍速にもなる。
「私、
「えっ? えっと……」
急に名前を名乗られ、またその苗字が僕のよく間違えられたそれに似ていて驚愕を隠せずにはいられない。怪しいほどに挙動不審になる。
「え、えっと……自己紹介まだだったよね?」
不審な動きが彼女を不安にさせたのだろうか。そう言いながら彼女は少し首をかしげてみせる。
「
「そうだけど……」
それ以外にある? みたいな顔で僕を見つめる。
「僕の名前、井上工って言うんだ。苗字は
井上さんは鳩が豆鉄砲喰らったような顔で僕を見る。こんな偶然ってあるんだ、という思いがテンションを上げさせる。
同時に信号が青に変わる。戸惑った彼女は表情をコロコロと変え、とても同じくらいの年の女性だとは思えない。僕の知るどの女性よりも美しく、可愛らしく、愛らしく、可憐だ。しかし、それをじっと眺めていては気持ち悪いだけ。そう判断し、
「青になったね」
と零し、歩を進めた。
「うん」
井上さんは小さく返事をし、僕を追いかけた。
信号を渡ってから二つ目の角まで真っ直ぐ進む。そしてその角を曲がった先にくや寿司がある。少し入り組んだ所にあるのだが、大通りに面しているお店は、どれも高級感があり入りにくく、その外見通りどのお店も値段が高い。故に一皿百円でお寿司が食べれるという点は大きく、大勢の客で賑わっている。
小さな子どもとおばあちゃんといった組み合わせや主婦たちの女子会。
そんな人が混み合う丁度お昼に待ち時間をほとんどなしで赤一〇三の席に案内された。
トイレが近くにあるそんな座席だ。
トイレ側に僕。その向かいに井上さんは座った。
井上さんは楽しげな表情を浮かべる。そして、
「私ね、お寿司初めてなの!」
と、回転する寿司を目で追いながら言う。
この歳で? と彼女の発言に疑問を抱き、顔を見る。彼女の顔はしかし、嘘をついているような表情ではなく、目をキラキラと輝かせ、初めてのものを見る本当に子どものそれだ。
家庭の事情もあるのだろうと思い、
「そうなんだ。じゃあ今日は存分に味わわないとね」
と、告げた。
井上さんは大きく頷き、手始めにたまごの皿を手に掛ける。しかし、くや寿司には商品にホコリが着かないように、とお皿にケースが被せてある。
慣れていれば容易に開けることができる。しかし、慣れてなければ少し難しいかもしれない。
そう思いながら見ていると、彼女は案の定、それにひっかかった。
「あっ、開かない……」
困惑気味にそう言うと、うっすらと涙を浮かべた顔で僕を見る。
涙の潤んだ顔は、あまりに魅力的で一瞬で言葉が奪われる。
「──あ、あぁ」
お皿が流れて行ってしまうギリギリの所で意識を取り戻し、曖昧な言葉を零しながら、彼女が取ろうとしていたたまごのお寿司の皿に手を伸ばし、少しお皿を持ち上げ、容易にケースを開ける。
それをおぉーという感嘆を零しながら見る井上さんの前に置く。
「どうぞ」
「ありがとっ!」
それだけ言うと、お寿司にしょう油を掛けて口へと運ぶ。
ただのたまご寿司。小さな子が食べるお寿司。僕からすればそういった認識。しかし、彼女はとても美味しいそうに頬張る。
可憐で、しかし豪快な食べっぷりに見とれてしまった。皿を取ることも忘れ、ただただ彼女を見つめていた。
「どうしたの? あっ、もしかして、私の顔に何か付いてる?」
そんな僕の視線に気がついたのか、少し恥ずかしそうに頬を赤らめ彼女は、ぺたぺたと整った顔を触る。
慌ててかぶりを振り、違うという意思表示をする。それから、視線を奪われないようにお寿司の回るレーンに目をやり、一番好きなサーモンのお寿司の皿をとる。
井上さんはそれを見るや、私も、と言い僕の取った皿の後ろに続く同じサーモンのお寿司を取った。
彼女はそれこそ高級品を食べているかのように満面の笑みで頬張る。
その笑顔はまるでどんなに美しい花でさえも勝てやしない、圧倒的な存在感を放つ。美しく、その中に儚さがあり、あどけなさがある。
日常のどのワンフレームを切り取っても、彼女は画になる。そして、そのワンフレームはとっても貴重で、一生かけても体験できない時間のように思える。
そんなことを想いながら、お寿司を食べ進めた。
お昼の時間も終わりに近づき、周りのお客さんもお会計を始める。二限目は無くとも、昼食が終わってからの三限目は講義がある。
「ごめんなさい、僕この後授業あって……」
こんな幸せな時間がいつまでも続いて欲しかった。でも、そうはいかない。そうならないからこそ、幸せな時間なのだ。
「そっか。色々とありがとね?」
彼女は熱いお茶を少し啜り、そう言う。その言葉に慌ててかぶりを振る。
「僕なんて何にも出来てないですよ!」
そんなことあるんだよ、と彼女は小さく零す。
それから彼女の細く綺麗な指が、各テーブルに設置してあるタッチパネルのお会計をタッチした。
井上さんは結局五皿しか食べてなかった。しかも、最初のたまご以外は全て僕と合わせている。
支払合計金額を計算しに来る店員さんを待つ間に何か話そうと考え、言葉を零す。
「美味しかった……?」
彼女の食べた内容を思い返し、少し不安を感じて訊く。
「大丈夫。美味しかったし、楽しかったよ!」
屈託の無い優しい笑顔。思わず表情が緩むのを感じた。
「えっと、井上くんこそ大丈夫?」
僕も彼女に合わせたこともあり、あまり食べず、六皿で止めていた。
「大丈夫だよ。この後の授業で寝たら困るし」
微笑みながら答える。本当はあと数皿いけたけど、止めた。僕ばかりが食べるのも何だか申し訳ないように感じてしまったのだ。
それに井上さんと一緒に食べられただけで、工と食べるのとは比べものにならない程美味しく、有意義に食べられた。
楽しい時間ほど過ぎるのは、あっという間。つい先ほど食べ始めたと思っていたら、もう十三時を回ろうとしているのだ。
「時間、大丈夫なの?」
井上さんは不意にそう零した。
「えっと、後十五分くらいな大丈夫かな」
「あとそれだけしかないのか……」
腕時計に視線を落とし答えると、彼女は悲しそうに瞳を伏せた。
それから、しょうがないね、と哀愁漂う声音で告げた。
それから目を開き、その
「もっと、君と──井上くんと居たかったな……」
絞り出すように彼女はその言葉を口にした。井上さんでもその言葉は恥ずかしかったのか。言ったそばから僕から視線をそらした。朱に染まった頬がやけに目立つ。
その言葉は僕の胸に暖かく届き、独り暮らしで忘れていた人の優しさ、というものを思い出させてくれる。
指先だけでも触れると崩れ、壊れ、消えてしまいそうな彼女の笑顔に、産まれて始めての感情が沸き立つ。
──今すぐに彼女を奪いたい。
自分でも嫌になるほどに僕は草食系男子であった。しかし、今回彼女に出会い、話、心を奪われ、そう感じた。
独占欲なんてものとは無縁のものだと思っていた。でも、井上さんの可憐さ、美しさ、可愛いさにあどけなさに触れて、彼女の全てを独り占めしたい。そう思ってしまった。自分で自分が怖くなった。これがエスカレートして、ストーカーやらになってしまうのではないかと。
その感情をぐっ、と押し込み計一一〇〇円プラス税の会計を済ませ、店を出た。
「本当によかったの?」
井上さんは口を尖らせ、私が払ったのにー、と言わんばかりの表情で訊いてくる。
「全然いいよ」
「でも、私から誘ったみたいなものなのに……」
なお納得がいかない様子の彼女に、
「本当に気にしなくていいよ」
と本心からの言葉を口に出した。
それから、君との食事と思えば、一一〇〇円くらい安いものだよ、と胸中で吐露した。言葉にしたものならば、ゆでだこのようになっってしまうこと間違いなし。だが、彼女がどんな表情を浮かべ、どんな反応をしてくれるの少し気になる。
そんな想いなど露知らず、井上さんは僕の手を取り、自分の両手で包み込む。
暖かく柔らかな、男性の手とは似ても似つかない手が僕の手に触れ、まるで心ごと包まれているかのように思える。
女性の手なんて、小さいときか、フォークダンスのときくらいしか触れた覚えがない。あとは、ハプニング的なもので触れてしまったときくらい。そんな僕に、彼女はいともたやすく触れた。
「ありがとう!」
そして、元気よくそう言い放つ。
耐性のない女性の手。しかもその女性が芸能人と言っても遜色ない、超絶美人の井上さんだ。触れる手は柔らかく、ゴツゴツとした強ばりはなく、丸みを帯びている。そしてそれは、彼女自身の優しさを具現化しているように感じられた。
大学の前まで井上さんと並んで歩いた。
とりわけ特別な会話ができるわけではない。しかし、行きのときと比べ、よく会話できたと思う。だからと言って僕自身や彼女のことは話さなかった。会話の内容は、最近よくニュースで取り上げられている大物芸能人と人気アーティストの不倫の話。野球界のレジェンドの覚醒剤使用の話。それから政治家の不正など、世間を騒がせているゴシップが中心だった。でも、それでも楽しかった。
帰りは信号に引っかかっること無く、大学まで着いた。
それがまたもどかしく、全部に引っかかっても良かったと思う。しかし、そう思えば思うほど、ギリギリで渡れたりした。まるで運命が彼女といる時間を操作しているようで、もどかしくて仕方がない。
大学前に着いた時には十三時八分になっていた。いつもならそろそろ移動を始めないと遅刻してしまう時間だ。
頭ではそれを理解している。だが、それでも脚が動こうとしないのは、井上さんと一緒に居たいと思う気持ちが、一分一秒でも、と考えてしまってるからだろう。
しかしそれは、井上さんの一言で終わりを迎えた。
「じゃあ、お別れだね」
井上さんは優しく、しかしどこか憂いを帯びた声音で放った。
「そ、そうだね」
別れたくない。このまま何もかもを放り出して、彼女と一緒に居たい──。そう思う気持ちは終わりだと理解すればするほど強くなる。それをぐっと堪え、悟られないためにも俯く。奥歯を強く噛みしめ、歯と歯のすき間から僅かな音を零す。
「頑張ってね、講義」
井上さんはそんな態度を見てか、殊更明るい声でそう放つ。
「……ありがとう」
俯いてちゃ、彼女の顔を見れない……。
終わりに落胆し、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の整った顔を見る。何度見ても、吸い寄せられてしまう。そんな彼女を見つめていると、彼女は照れたようにへへ、と笑い口を開いた。
「また、逢えるといいね!」
それだけ残し、井上さんは背を向けて歩き始める。
胸が、頭が、全てがおかしくなるほどに彼女に侵されていくのを感じる。
人生初の尋常でないトキメキが僕を襲っている。
「また逢えるといいです──。いや、また逢いましょう!」
柄にもなく、ありったけの声を上げ、背を向けて歩く井上さんに投げかけた。
彼女は振り返り、少し驚いた様な表情を浮かべ、そして離れたところからでも分かるようにだろう、大きく頷き、わざとらしいほど大きく手を振った。
その反応が、可愛らしくて。胸に込み上げてくるものがあった。
今すぐにも彼女を追いかけたい。
そんな衝動に駆られるが、その感情を押し殺す。そして、代わりに彼女の姿が人混みに消えていくまで見送った。
彼女の姿を見送ってから教室に向かうと、案の定遅刻をした。
先生にはお腹が痛かった、と嘘をつき席に着いた。
だが、問題はその後だった。残りの講義は集中はおろか、内容すらろく頭に入ることがなかった。
いつもならば喰い付いていたかもしれない内容ですらも、上の空だった。
何もかもが井上さんのあの笑顔がリプレイされ、脳裏にこびりつき、擦り切れるほどに上書きを繰り返す。
あんな人、本当にいるんだな。
彼女と出会ってから、そんなことばかり考えてしまっていた。
全ての講義が終わってから家に帰り、真っ暗の家の鍵を開ける。
帰りの電車は帰省の時間とは少しズレていたため、席は所々が空いていた。
そこで少し睡眠を取っていたが、中途半端に三十分ほど眠ったため、妙な眠気が自身を蝕む。
ガチャン、という古典的な音とともに鍵は開く。ドアを奥へと押し込むと、キィー、と
建物は古く、家賃の安いアパートの一室を賃貸している。そのためドアを開けるときには毎回この音が鳴る。
毎度の音を耳にしながら、家の中へと入る。玄関は靴が二つ並べば一杯になってしまうほど狭い。そこに器用に靴を脱ぎ、フローリングの上に足をのせる。ひんやりとした感覚が靴下越しでも足裏で感じることができた。
そこから視界に入るのは、右隣にあるキッチンだ。シンクの中には、今朝使ったばかりのスプーンが置いてある。
その左側の引き戸を開けると、トイレとお風呂が一つにまとまった浴室がある。
そこを無視して、キッチンのシンクで手を洗い、リビングへと入る。
部屋自体は本当に広くない。だが、一人で暮らすには十分な広さである。
ベッドの横に置かれた小型のテーブルの上には空になったコーヒーカップに皿がある。
今朝、食べ終わったまま飛び出たそのままだ。
ため息を一つついてから、それらをシンクに移す。そしてシンクの横に置いてある炊飯器の中を覗く。
「すくねぇ……」
窯のそこがはっきりと見えているほどの量しか残っていない。
ボヤキながらも、お茶碗を取り出し、ご飯を盛る。茶碗一杯がギリギリだ。
それを片手に、リビングに入ってすぐ左手にある冷蔵庫の中から買いだめしていた冷凍餃子を取り出す。
絶えず物が乗っているテーブルの上に、お茶碗を置き、冷凍餃子をレンジで温める。
解凍時間はおよそ一分。一分で焼きたてのような味を再現する冷凍餃子は本当に凄いと思う。だが──
お昼のお寿司があまりにも美味し過ぎたのか、いつもは美味しいと感じる冷凍餃子も微妙に感じる。
それをささっと食べ終えると、朝食の分と一緒に洗い物を済ませた。
「疲れたー」
言葉を発さなければ
声を上げながらベッドにダイブした。バタバタして出て行ったためか、布団は何かの抜け殻のように、僕の眠っていた場所にだけ空間が残っていた。
そこがふわりとなり、僕を包み込む。
あぁ、お風呂入らないと……。
頭では理解出来ていた。しかし、電車での軽い睡眠によって触発された睡魔が牙をむく。強烈な眠気が僕を襲い、瞼を持ち上げようにも、あまりに重たく上がる気配がない。
代わりに、瞼の裏に井上さんの笑顔がフラッシュバックする。
だめだ、起きないと……。そう思えば思うほどに、眠気は強くなり、彼女の笑顔が近づいてくるように感じられる。
また逢えるかな……。
そう思った瞬間、意識は途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます