人形夢譚

 戦後間もない頃のある日、ある町外れの橋の橋梁で、若い女が首を吊っていた。

 女は宿る庇を持たない娼婦で、性病に侵されていたらしいから、それを悲観しての自殺と思われた。

 顔見知りによると、娼婦が大事にしていた日本人形があったと言うが、それがどこにも見当たらない。

 質草にでもしたか、盗まれたか。

 身寄りのない娼婦の死は、やがて誰からも忘れられた。


■■■首を吊った女の話■■■


 私が物心ついた頃には、日本はまだ戦争中だった。

 家は田舎だったので空襲こそ無かったが、当然、有形無形の様々な影響はあった。

 十二歳になった頃には、私は家族の不審なそぶりに気を揉んでいた。

 父が仕事で留守の間に、知らない男の人が一人、こっそりと上がり込んできて、寝床で母と遊んでいる。

 彼は米英人では無いようだったが、日本人では無かった。

 父はこの事に薄々気付いていたようだが、母を咎める様子は無い。

 そんな父が不憫で、私はある時母に詰め寄った。

 もう父を悲しませるような事はやめて欲しいと。

 しかし、返って来た返事は、私をおののかせた。

「あの通い来る男の人があんたの本当のお父さんなんだよ。あたしが仲良くして悪いのかい」

 当の男の人からも、

「お前ほんとは俺の子。確かな話」

と何度か言われた。

 父親に本当とか嘘とかがあるのだろうか。

 私は父に、母の言葉の意味を説明して欲しくて、訊いてみた。

 父は、お母さんがそんな事を言ったのか、と驚いた後、

「いつかお前にも、意味が分かる時が来るだろう。けど何があっても、僕はお前のお父さんだよ」

と頭を撫でてくれた。

 それから間も無く、仕事柄徴兵をまぬがれていた父もついに前線へ送られ、数ヵ

月経つと戦死の知らせが届いた。

 出立前に父に買ってもらった美しい日本人形を眺めていた時に着いたその報に、

私は打ちのめされた。

 戦争は、その直後に終わった。


 父が出征してからはあの男の人が無遠慮に家に上がり込むようになっていたが、私には優しくしてくれた。

 彼になつくのは父に申し訳ない気がして、そっけなく応えていたが、それなりに平穏な日々だった。

 しかし、終戦後には状況が一変する。

 彼が、よく母をなじるようになった。

 暴力も振るう。

 私にも、物を投げてきたりした。

 後から聞いた話では、彼には心身を捧げた仕事があったが、終戦と共にそれが破綻し、その為に正体を無くしたらしい。

 彼はもう、母には乗ろうとしなかった。

 暴力も酷くなっていった。

 ある日、彼に口答えをしたせいでひときわ強く殴られた母がくずおれると、彼の狂暴な双眸が私に向いた。

「負けた国は、何をされても文句言えない。知ってたか? 猿ども」

 あなたには負けていない。

 叫びは、私の胸中にだけ響いた。

 男が私にのしかかる。

 優しかった頃の彼の面影にすがるように、私は声を絞りだした。

「わ、私は……、あなたの、子供なんでしょう?」

「猿の子供は居ない!」

 彼は私の服を引き剥がすと、私の体を指で探り、口をつけた。

 そして、私にも手を使わせて、彼の体を熱くさせてから、私に押し入ってきた。

 私は、気の強い母を見て育ったから、男の人に乱暴されても、自分は抵抗が出来る人間だと思っていた。

 やんちゃな男の子と喧嘩したこともある。

 知らなかったのだ。

 男がこんなに恐ろしいなんて。

 やめて、とかいやだ、とか叫んだような気がするが、途中からはもう言葉にならなかった。

 あまりの激痛に、自分はこれで壊れてしまい、生涯不具になるに違いないと思った。

 彼が身を起こし、服を着て家から出て行っても、私は体の奥に刻み込まれた恐ろしさのあまり、目を閉じていた。

 あの男の人をそれから見ることは無かった。

 母も、あの日から数日経つとフイと消えた。

 私は間接的に戦災孤児となり、糊口をしのぐ方法を探して放浪する内に、気がつけば街角に立っていた。

 唯一のつれあいは、家から持ち出したあの人形だった。

 まともな職場は、必ず男性と机を並べることになるのが、恐い。

 もう男を信用することは出来なかったが、お金で買われている間は、皆優しくしてくれる。

 お客が私と寝床で濡れている時も、私は物陰にいつもあの人形を置いていた。

 一人でいるのも、男性と二人でいるのも、恐かったから。

 人形が見守ってくれていると思うことで、私は安定していられた。



 そうして体をひさぎ続けていたある日、体調がおかしくなった。

 病をこじらせたかと、裏町の医者にかかる。

 私は、梅毒に侵されていた。

 いずれそんなこともあるとうっすら覚悟していたが、それでも妊娠と性病には気を付けていただけに、衝撃だった。

 移る病は、私だけのことでは済まない。

 今まで私が相手をして来た無数の男性達の中には、人の親や誰かの恋人も含まれていただろう。

 性の病など家庭に持ち込んで、家族が順風でいられるはずがない。

 娼婦を始めた時、こうして独りで生きていけば、もう誰も傷つけず、傷つけられることもないと思ったのに。

 一家離散のあの悪夢、その時に味わった痛みが体の中によみがえる。

 恐怖と罪悪感で、おかしくなりそうだった。

 もう町に立つことなど出来ない。

 私は町外れの大橋のたもとにゴザを敷き、この日はそこを寝床にした。

 空の月が、青く夜の帳を照らしている。

 誰とも関わらないで済む時間の中で私は安堵に包まれ、そっと目を閉じた。


 起こされたのは夜中だった。

 誰かが私の体を揺すっている。

「何だ、寝ているだけか。死体かと思ったよ」

 声を掛けてきたのは、私と同じ年頃の青年だった。

 月明かりでしか見えないが、美しい顔立ちをしているようだ。

 そろそろ冷える季節だからか、おかしな咳をしていた。

「何故こんな処で寝ているんだい」

「……家が無いからです」

 性病のせいとは言えなかった。彼はそれ以上は聞かず、

「今日もらった菓子の余りがあるんたが、食べるかい」

そう言って上品そうな紙包みを開き、一つの菓子を二つに割り、片方を私の口になぞらせた。

 私の唇が戸惑いながらもそれを受け止めたのを見て、彼ももう片方を自分の口に放り入れた。

 甘味などいつ以来だろう。飲み込む時、思いがけず大きな音を喉が立てたのが恥ずかしい。

 彼が、美味しいだろう、美味しいものは人と食べないと損なんだ、と微笑んだ。

 その夜、彼と私は、静謐な月明かりの中の、たった二つの生命体に思えた。


 彼はどこか名家の次男らしく、私のような境遇の人間が珍しいのか、それからよく大橋へ顔を出すようになった。

 頼みもしないのにいつも何かしら食べ物を恵んでくれるので、むしろ屈辱を感じてもいいような状況だったが、彼の無邪気さが私には心地好く、次第に彼との語らいが一番の楽しみになっていった。

 なぜ私などに構ったのかと聞いてみると、本当にたまたまそんな気になっただけで深い意味は無い、ただ話してみたら楽しかったので何度も私の所へ通うのだ、と言う。

 私の生い立ちのことも、春を売っていたことも告げたが、彼は軽蔑をその顔に浮かべることは無かった。

 それでも、病のことは言えなかったけれど。


 幾日か経って、互いに親しみが深まった頃、彼が私を自分の家に誘ってくれた。

 彼は産まれつき体が弱く、自宅に招ける友人を作ることが出来なかったそうだ。

 だから一度、親しい人を自分の部屋に向かえたいのだと。

 私はこの時には彼にはっきりとした好意を抱いていたし、彼の好意も受け止めていた。

 そしてチラチラと彼の体から匂う、男の欲望も感じていた。

 この人は私に女を感じている。

 男と女になるために誘ってくれている。

 いっそ抱かれてしまいたい。

 だからこそ行けない。

 震える唇を、ひりつく喉を、何とか動かす。

「今まで言えなかったけれど、……私は梅毒持ちです。だから……、だから……お宅には、行けません……」

 搾り出すような言葉を聞いて彼は少し黙り、そして、そうだったのか、と呟いた。

 これで彼とは終りだ。

 自分に言い聞かせると涙が溢れてきた。

「でも、それは君が悪いわけじゃない」

 そう言われて思わず彼の顔を見た。

 今までと変わらない眼差しが、まっすぐに私に届いている。

 私は息が詰まるような思いで、それでも再び口を開いた。

「いえ、私がふしだらな仕事をしたせいです」

「それは君のせいじゃない」

 思いがけない言葉に、私の両目から滴がつるつると落ちる。

 ここで彼の言葉に甘えてはいけない。自分の甘えに流されてはいけない。

「私は、知らずにとはいえ、移る病気のまま男の人に体をひさぎ続けてきました。もう、決して誰にも迷惑を掛けずに、死んで行きたいんです」

「分かるよ。だからだよ」

 彼が私の手を強く引いた。

 私を求める、男の手だった。

 決死の覚悟で築いた構えがことごとく、打ち崩されていく心持ちがした。そのかけらが、涙とともに流れ落ちていく。

 彼の胸に落ち、掴まれた腕に体温を意識すると、私にはもう抵抗出来なかった。


 彼の部屋に入り、襖を閉めると、彼は唇を重ねて来た。

「いけません、やはり。後生です」

 言い終わる前に組み敷かれていた。

「お願い、お願いですから」

 私の言葉になど構わない、彼の体が熱い。

 互いにさらけ出して行く素肌がそれを伝える。

 撫でるように触れられると、首、肩、鎖骨、脇腹、内腿、ことごとくの箇所から甘ったるい痺れが流れた。

 力が抜けていくのに、彼の指に反応して自分の四肢が跳ねるのは止められない。

 やがて自分でも聞いたことのない声が私の口から漏れ出すと、これから起きることに、怯えさえ抱いた。

 口をつけられると、怖いくらいに濡れた。

 そのせいか、彼が時折咳き込む。

 心を許した相手と肌を合わせると、こうも高まるものなのか。

 今までに達したことのない領域が、大きくあぎとを開いて私を飲み込む。

 手も足も出ない。

 こんな思いは、今までに出会ったどの客とも、互いにしなかったはずだ。

 お金を払って私を抱いた、恐らくは全ての客が、こんな恍惚を求めて、満たされないまま服を着たのではないかと思うと、申し訳ない気持ちになった。

 だがそんな感傷も、激しく口を使い合ううちに、全身を貫く甘い火花に押し流されて行く。

 互いの感情と熱に、互いに翻弄されたまま、私達は重なった。

 私は、幾度も粉々に爆ぜた。

 獣のようにうめき合い、夕立に打たれたように汗みずくになって、二人でとめどなく燃焼した。



 夜が明け、先に目が覚めた私は家人に見つかる前にそそくさと逃げ、大橋へ戻ってから、取り返しのつかないことをした、と悔やんでいた。

 勢いに任せて、病のことも構わず交わってしまった。

 今後、どうしたらいいのだろう。

 そう悶々としていたのだが、翌日から彼は現れなくなった。

 街中で噂を聞けば、体調を悪化させて入院したらしい。

 私のせいかと冷や汗が出たが、そうだとしたらいくらなんでも発病が早過ぎる。何か、違う原因のはずだ。

 それから私は、彼の退院を待ち続けた。

 しかし、とうとう彼は帰ることなく、そのまま鬼籍に入った。


 冬の近い曇天の下で、私は葬式を傍らから眺めていた。

 すると、式の帰りらしい女性達の話が聞こえた。

「労咳だったそうね」

 労咳。彼が?

「入院する前日に、行きずりの女の人と自分の部屋で寝たそうよ」

「気楽ねえ。女の人の方が気の毒よ。粋狂で労咳なんて移されちゃ」

「商売女でしょ、自業自得よ」

 目の前が真っ暗になり、その後は何も聞こえなかった。

 そう言えば彼はおかしな咳をしていた。

 私は遊ばれたのか。

 あの優しげな、無頓着そうな顔で、どうせ長くないのだからと、病を囲った女と、危うい交わりを楽しんだだけだったのか。

 致死性の高い労咳まで、ついでに移してやれば面白かろうと?

 彼の笑顔を思い出す。

 あの暖かさが偽りならば、この世の何を信じればいい。

 どうやって大橋まで戻ったかは覚えていない。

 全身の血が、温度を失った様な心地だった。

 川辺りにはいくつもの荒縄が落ちていた。

 その内、特別長い一本を手に取る。

 家を出てから、人と親しく付き合うことなどなかった。

 上辺だけ、体だけを重ねて来た。

 そんな私だから、感情の軋轢には脆い。

 力付くで汚された子供の時よりも、互いに信頼を交したと思った分だけ、衝撃は今回の方が強かった。

 体を病に、そして心を絶望に侵されたこの時、私には生存への意欲が失われていた。

 縄の両端を輪にして、橋梁と自分の首にかける。

 寝床に置いた人形と目が合った。

 私は、人形と同じだった。

 自分から何も手に入れようとせず、失うことを当たり前に過ごして来て、そうして間も無く消滅しようとしている。

 己というものの無い人生だった。

 悔しい。無念だ。煮えたぎるように、産まれて初めて思う。

 だが、その情念を受け止める力が、私には残っていなかった。

 ただ、自分の半生を共にして来た人形には、視線を通じて、私の思いが伝わった気がした。

 なおも、渦巻く感情を塗り込めるように、人形を睨めつけ続けた。

 涙がこぼれ出し、視界が利かなくなる。

 次の瞬間には、私は空中に足を滑り出させ、静かに絶命した。


■■■ある人形の話■■■


 瞼を開けると、目の前に、橋梁にぶら下がった首吊り死体があった。

 その顔立ちに見覚えがある。

 私自身の顔だった。

 己の体を見下ろす。人形のそれが、視界に入った。

 川まで降り、月明かりの中で水面を見下ろすと、そこには紛うこと無き、人形の顔が映る。

 私は誰だ。

 名前は思い出せる。

 そうだ、あそこで首を吊っているのが私だ。

 ――いや、違う。

 ――私は、人形だ。

 そう思った途端、私は自分の名前を忘れた。

 何をしようとしていたのだっけ。

 考えを巡らせようとしていると、急激に激しい餓えに襲われた。

 いけない。

 このままではくたばってしまう。

 短い手足を操り、土手へ上がる。

 少し先まで歩くと、浮浪者が道端で寝ていた。

 あれは男性だ。

 男性の精力の源は、散々に知っている。

 確か、命の種子を、生きている時に何度もすすった覚えがある。

 それを食べよう。

 男の裾をからげ、うな垂れた先端に口付けをした。

 ――寄越せ。

 そのまま一息に精を吸い上げる。

 たちまち灼熱した肉の高まりが、大量の熱を放った。

 浮浪者が何か叫びながら、のけぞり、跳ねた。

 体液がすぐに枯渇し、さらに吸引すると血液に変わったが、躊躇せずに続ける。

 一滴残らず吸い上げると、浮浪者の体はからからに干からびて縮まり、手のひらほどの小さな人形のように変わり果てていた。

 引き換えに精気で満たされた私の体は、人間と変わらない大きさと、滑らかで柔らかい肌を手に入れていた。

 これを続ければ、生きていける。

 死にたくない。もう二度と。孤独で無念な、死の瞬間の恐怖をまだ覚えている。

 人間の『自分』の記憶はこうしている間にも薄らいで行くが、あの根源的な恐怖が心の奥底にある限り、私は男を食らい続けるだろう。

 寿命の無い人形の体で、永遠に満たされること無く。

 いつまでも、餓え続けながら。


 川辺りの寝床へ戻ると、紙片が一枚落ちていた。

 飛ばないように小石で抑えてある。

 露に濡れ、少し草色に変色している所を見ると、何日か前から置かれていた様子だが、草の陰になって気付かなかったようだ。

 拾い上げて確かめると、手紙らしい。

 弱弱しい文字で書かれている。


<この手紙は、信頼できる人間に、君と出会った橋のたもとに届けるように頼んである。

 僕は今、思いがけず重態でいる。

 君と僕の部屋で過ごした直後に体に変調があって、それ以来軟禁だ。

 何の病気だかは誰も教えてくれないが、命に関わるものかも知れない。

 小さい頃から体の不調には慣れていたせいで、油断していた。

 君に移る病でないかだけが気がかりでいる。

 君の患っている病気のことも心配しているだろうけれど、それについては、僕に感染しても、君と共に治療出来る方法と資金を僕は用意出来る。

 だから君とああなったんだ。決して勢い任せの獣欲じゃあ無い。

 回復したら、またすぐに君と会いたい。

 まだ話したいことや聞きたいことが沢山有るんだ。

 君も、同じだったら嬉しい。>


 最後に、差出人の署名があった。

 とても大切な名前だった気がする。

 しかし、その記憶ももう、私には残っていなかった。

 だから手紙の内容も、意味がよく理解出来ない。

 手紙を川に流して、私は戦後の暗い町の隅へと歩き出した。

 またぞろ襲い来た餓えから逃れる為の、贄を探して。



 あれから長い月日が過ぎた。

 私は人間達に追われて逃げ込んだとある民家の蔵の中に閉じ込められ、耐え難い餓えに悶えながら、精気も尽きて人間の姿を保てなくなり、ただの人形として片隅に転がっていた。

 このまま、いずれ土に還るのか。

 しかしある時期から、頻繁に蔵の扉が開かれるようになった。

 あどけない顔立ちをした坊やが、面白そうな古物を物色しに訪れている様だ。

 もうぴくりとも動く余力は無かったが、それでもわずかに残った精気を振り絞り、何度目かに扉が開いたその時に、私は蔵の外へ転がり出た。

 強烈な生存への渇望が、再び私の魂を焦がした。

 しかし何歩か歩いた所で力尽き、土の上にくずおれた所を坊やに見つかってしまった。

 破壊されるかと思ったが、 彼は私の凶行を知らないらしく、私を自分の家に持ち帰った。

 彼が机につき、私を持ってこの顔を眺めている。

 彼の無邪気な顔立ちは、そう言えば、誰かに似ている気がする。

 偶然だろう。彼に、子はいない。

 彼?

 彼とは、誰?

 思い出せない。

 思い出せないが、その誰かの面影のせいか、彼を滅ぼす気にはなれなかった。

 思春期らしく、彼は私を使って快楽にふけりだした。

 私は与えられるだけの恍惚を彼に与えたが、必要以上に精気を吸い出すことはしなかった。

 それでも少年の体は毎日新鮮な精が湧き出て、彼が私に溺れるほどに、精気がこの体内に蓄えられて行った。


 やがて、人間の姿を取れる程度に精気が貯まり、私は坊やと別離することにした。

 いつか、餓えに正気を忘れ、彼を取り殺してしまうのを避けたからだ。

 私が仕舞われていた紙袋を内側から破り、外界へ這い出る。

 夜が更けると、夕闇に紛れ、鬱蒼とした公園に潜み、通りかかる若い男を藪に連れ込んで精気を吸った。

 いつぶりだろう、男の精が枯れ、代わりに血が、欲望の先端から放たれる瞬間が堪らなかった。

 それまで喘いでいた男が泣き叫びながら干からび、代わりに私が満たされて行く。

 餓えから開放される暫くの間だけ、時折考えることがある。

 私は何故、こうするのだろう。

 今まだ自分が、この世に在り続ける意味は何なのか。

 しかし、その問いはいつもすぐに答に辿り着いてしまう。

 きっと意味など、とうに失くしてしまったのだと。

 昔一人の女が、ある橋で首を吊った時に。


 その日も、私は若い少年を公園の厠に誘い込み、目的を遂げた。

 少年はのけぞって痙攣しながら絶叫し、命を鉄砲水のように放ち続ける。

 液体の味が、血のそれに変わった。

 断末魔が響き、彼は枯れた。


 少年を吸い尽くし、小さな干物のようにしてから、厠の奥に打ち捨てて、私は手洗い所から出た。

 その時、唐突に、知った顔と出くわした。私を蔵から連れ出した、あの坊やだった。

 その顔を見ると、少し微笑ましい気持ちになった。

 微笑ましい。私には、ひどく不似合いな。

 不思議だが、悪くはない。

 友人の名らしきものを呼びながら、彼は厠へ向かっていく。

 坊やの足音が聞こえなくなると、月の青い光が静寂を際立たせた。

 月光の中、この世界に蠢くものは自分一人であるかのような錯覚を覚える。

 私にはもう、誰もいない。

 遠からず再び襲い来るだろう餓えの渇きに怯えながら、私はまた、夜の闇の中に溶けて消えた。


 私はまだ、死なずにいる。


人形夢譚 終

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