第2話 綱渡り
恭輔には三つ違いの姉茉莉子がいる。おかっぱ頭の前髪が大きな瞳に掛かりそうな、活発な女の子で、体格も男の子にひけを取らない。男の子と取っ組み合いの喧嘩をやっても、――いがぐり頭とスポーツ刈りには苦戦するものの、結局は負けなしだった。髪を掴んで振り回すのが彼女の得意技である。これにかかった男の子は大抵べそをかいて逃げ出す。運動会の徒競走でも負けたことがない。当時女の子の間で流行っていた「ゴム縄」で見せる跳躍力も際立っていた。
ところで、流行っていたといえばもうひとつ、――「どぶの綱渡り」というのがあった。名前の通りにどぶ川の上を綱で渡るのではない。所々に架かっている平均台程の幅のコンクリートの上を向こう側まで渡るのである。小学三、四年生男の子が両腕を水平に広げ、左右に揺れながら、そろりそろりと進んで行く。ところが、茉莉子は自分の順番が来ると、決まってそこを一気に走り抜ける。恭輔の目には何とも勇ましく頼もしい姿に映った。彼はどれ程か茉莉子にけしかけられても、そこに立つことすらできなかったのだから。
ある日の夕方、慶子が買い物から帰ると恭輔が一人で留守番をしていた。
「あれっ、茉莉子は?」
「……まだ帰って来てないよ」
「あっそう、今日は遅いねぇ……いま学校通りの近くでどぶの上を渡ってる子達がいてさ、あんな細いコンクリの上をふらふら行ったり来たりしてるんだよ。危ないよねぇ、落ちたらどうするんだろう。こんな時間までランドセルを道端に放り出してさ……」
恭輔は黙って聴いていた。
「いい?学校に上がっても、あんなことやっちゃダメだよ」
「うん……」
すると玄関の扉の開く音がした。
「ただいまぁ」
茉莉子は居間に入って来るなり、気まずい顔を見せる代わりにおやつをねだった。
慶子はもう台所へ行って冷蔵庫からみかんの缶詰めを取っていた。食器戸棚の引き出しの中にしまってある缶切りを手で探りながら、たった今恭輔にしたばかりの話を繰り返した。
茉莉子は適当に相槌を打ってガラス容器に分けられたみかんを受け取ると、あっという間に汁まですすった。その間、彼女の視線は終始恭輔に向けられていた。恭輔はそれに気づいていたが、やはり黙っていた。今の慶子の話を聞くのは二度目であること、そして慶子には、茉莉子がランドセルを背負ったまま直ぐに出掛けて行ったこと、勿論、姉が「綱渡り」の達人であることも。
「今度は後ろ向きに走ってみようかな……」
夕食の支度を始めた慶子を余所に、平気な顔でそう言い放つ姉は、自分とは違う野生動物か何かの種類と恭輔には思われた。
と言っても、これはまだ序の口のほう。学校から帰ったこの姉と行動を共にする弟は、彼女が引き起こす数々の事件に付き合わされた。中でも彼を凍てつかせたのは、「トカゲ事件」である。――(つづく)
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