第3話 トカゲ事件

 ある夏の日の午後、事件の現場は、彼らの家の隣に建つ、運輸会社の社宅の敷地だった。この辺りには珍しい鉄筋二階建ての一階は車庫と倉庫になっていて、大型車輌の出入りするため、前の敷地はコンクリートで固められていた。チョークでけんけんの輪を描けるその場所は、近所の子供が誰かしら遊んでいた。

 当日も普段と変わらず、恭輔は茉莉子が縄跳びをするのを側で眺めていた。赤い厚底のサンダルを履いているにもかかわらず、二重跳び、三重跳び――と軽々こなす。二人でやるけんけんでも、よくもあれで足首を捻らないものだと感心するくらい、俊敏な身のこなしを見せる。

 しばらくして汗をかいた恭輔は、一人日陰に入って腰を下ろした。すると、涼んでいる彼の目の前をトカゲが一匹、するするっと通り過ぎて行った。

「あっ、トカゲだ」

 恭輔は思わず大きな声を出した。コンクリートの敷地と言っても、周りは雑草だらけだから、トカゲの一匹や二匹が顔を出しても何ら不思議はない。実際にも彼はトカゲなどこれまで何度となく目にしていた。けれども、コンクリートの灰色を背景に、褐色の長細い生き物が水の流れるように移動して行くさまが目新しかったのである。

「どこどこ?――いないじゃん」

 茉莉子はそう言って、落とした小銭でも探すように身を屈めながら、恭輔の側に寄って来た。

「もう、あっちに行っちゃったよ」

「なあんだ。――ねえ恭輔、トカゲって尻尾が切れても死なないの、知ってる?」

 茉莉子は何か企みのある質問を仕掛けた。

「ええっ、ほんと?」

 目を丸くする弟に姉は得意な笑みを浮かべている。最近学校で習ったのだろう。

「ほんとだよ。トカゲの尻尾切りっていうんだよ。尻尾をつかまれたら、自分で尻尾を切って逃げるんだって。尻尾はまた生えてくるんだよ」

「へえー、トカゲってすごいね」

 一頻り感心する恭輔に、茉莉子はますます有頂天である。するとその時、二人の間を一匹のトカゲが通り過ぎようとした。それはさっき恭輔が見たトカゲより、かなり太く長いからだを引きずっていた。

 茉莉子は何を思ったか、さっと立ち上がった。勢いよく踏み出した彼女の右足は、小刻みに振れる褐色の尻尾を目がけ、矢のように飛んで行った。が、次の瞬間、トカゲは姿を消した。……

 恭輔の身体は固まった。瞬きもできない。サンダルの底から噴き出た赤い液体がコンクリートの表面を舐めて行く。我に返ってようやく顔を背けた。そして再び横目でちらっと見た。

「げっ、……」

 茉莉子は左足一本で立っていた。右足首を器用にねじ曲げ、サンダルの底を確認している。

 恭輔はもう、見ていられなかった。コンクリートにサンダルの底を擦りつける音が耳に入って来た。無意識のうちにその場から離れた。けれども、サンダルの赤より濃厚で凄惨な赤がコンクリートの灰色の上に塗られてできたコントラストは、彼の瞼から少しも距離を置いてはくれなかった。

「失敗!失敗!」

 茉莉子は大きな瞳を輝かせ、苦笑いの混じった陽気な笑みを浮かべて弟を見ている。恭輔はこの常軌を逸した不敵な微笑に、得体の知れない魔物が彼女の中に棲んでいるのを垣間見た気がした。


 家に帰ると、慶子が台所で夕飯の支度を始めていた。

 恭輔は抜かれた肝の穴埋めをせずにはいられなかった。母親に事件の報告をしたのである。

 慶子は話を聞くと、眉間にしわを寄せ、娘を睨んだ。呆れた時に見せる笑みはそこになかった。これを確認した恭輔は息をついた。叱られる姉を見て溜飲が下がったのではない。毅然とした母親を見て失いかけた自信を取り戻したのである。

 短い説教の後、慶子は夕飯の支度を続けた。茉莉子は居間に入り、テレビの前に座っている恭輔を見下ろすと、小声でこう言った。

「おしゃべり。――いい子ぶっちゃって」

 恭輔は姉のこの一言に何の反応もする必要がなかった。

 目の前でウルトラマンが必殺技のスペシウム光線を放っていた。(つづく)

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