ドロウ・ザ・ライン 第1章
one minute life
第1話 どぶ川
ここは東京の所謂川向う、かつてゼロメートル地帯と盛んに呼ばれた地域である。南極大陸の何分の一かの氷が解ければ水面下に隠れてしまう、小学生の恭輔はそう教えられた。それから四十年以上経った今も海抜高度は変わっていない。
恭輔がまだ五、六歳だった頃のことであるが、彼の家の直ぐ近くにどぶ川があった。周りは住宅も疎らで未舗装の道は当たり前だった。田んぼや畑があちらこちらにあったのは勿論のこと、コセンダングサやエノコログサが伸び放題の空き地やら、瀬戸物の欠片やいつの時代のものかも判らない硬貨の入り混じった土砂の山やら、鬱蒼とした葦に囲まれた池とも沼ともつかない湿地やら、――そうした中にあっては田んぼや畑が如何にも整然として見えたのであるが、――ここが東京であるとは思われない景色がありふれていた。だから、住まいの側にどぶ川が淀んでいても、そんなことは誰も気にならなかった。寧ろ、これに沿って母屋が並び、人の生活があるが故に「どぶ」となったのであろう。どこの家も、作業着や履物を洗った水を流したり、軒先で燃やしたゴミの残りかすを棄てたり、はたまた要らなくなった雑貨を投げ込んだり、――子供達の厠にもなっていた。
「母さんがここへ初めて来た頃は、フナがたくさんいたんだよ」
「へえー、いいなあ……」
「もっと昔は泳げたんだって。お父さんが言ってたよ」
「ほんと?」
恭輔は慶子の話に目をきらきらさせている。頭の中では、ふんどし一丁でフナと戯れ、水遊びをする子供の姿がどこかで見た水墨画のように活き活きと描かれていた。
川幅三メートルあまりのこのどぶ川には、恭輔の家から直ぐの所に乗用車一台が通れるくらいの木の橋が架かっていた。実際に車がこの橋を渡るときは、ごとんごとんという音が家の中まで響いて来た。
橋を渡るとそこは隣町である。どぶ川が境界線の役割を果たしていた。川を挟んで恭輔の住んでいる側が葛西、向こう側が長島という町だった。長島は区画の整理された街である。一方、葛西は村である。かつての地名の名残もあって、「この葛西村では……」などと地元の大人達が口にするのを恭輔はよく耳にした。
「長島の方がいいよ……」
ある時、慶子は恭輔の前で封筒の裏に住所を書きながらそう漏らした。
「何で?字が難しいから?」
恭輔の目の前の「葛」の文字は、大きさといい、密度といい、明らかに前後の「区」や「西」とのバランスを欠いていた。その上、子供の目にも下手なのである。
「そうじゃなくって、なんか田舎くさいじゃない?葛西なんて――」
慶子はそう言って苦々しい面持ちを一瞬息子に見せた。
「えっ、そう?――カサイのがいいけどなあ……」
そう言った恭輔の目はどこか寂しそうに曇っていた。彼は「カサイ」という響きに格好良さを感じていた。この三文字のどこが田舎くさいのだろう?――まだ「田舎くさい」の意味を知らなかったに違いないが、幼い頭の中でどう思い巡らせても腑に落ちなかった。そして「田舎くさい」と言った時の母親の大人の顔が頭をなかなか離れなかった。……
慶子は葛西という「村」を田舎くさいと言ったに違いない。ただ、子供の手前、言葉を濁したのだろう。確かにどぶ川ひとつ隔てた長島町には、一軒家に混じってアパートがちらほら見え、学校通りから土建業なり運輸業なりの事務所が並んで商店街へと繋がる。その先はバス通りに出て、西へ進んで橋を越えれば砂町、直ぐ東にある橋の向こうは浦安という具合である。砂町よりさらに先の深川から嫁いで来た慶子にしてみれば、田舎くさいというのも無理はなかったのかもしれない。もっとも、彼女が息子に苦々しい顔を見せたのは、外にも理由がある。字が下手なことに自覚のある彼女は、恭輔にそれを指摘されたと感じ、気恥ずかしさと苛立たしさとが入り混じった心持ちになったのだろう。事実、慶子はその数日後、新聞広告に見つけたペン習字の通信講座の資料を取り寄せ、これに申し込んだ。(つづく)
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